シニア夫婦1か月の初英国旅行ー実践編3
「#創作大賞2026」と「#エッセイ部門」
イングランドの3宗派
英国は元来カトリックであったが、ヘンリ8世(位1509‐47)の登場後、主として3つの宗派、イギリス国教徒(アングリカン)、非国教徒(ノンコンフォーミスト)、カトリック教徒(Catholic「キャソリック」)に分かれた。経緯はこうだ。
ヘンリー8世は、亡兄の妻だったキャサリン・オブ・アラゴンと結婚し、7人の子に恵まれるが、1女メアリ(後のメアリ1世)を除いてすべて夭折する。この不幸は、かれが聖書の教え「兄弟の妻をめとる者は・・・男も女も子に恵まれることはない」(「レビ記」20節21章)に反したため、と考えるようになり、27年、教皇クレメンス7世に結婚解消の特別免除を要請する。だが教皇はかんたんには応じられない。キャサリン・オブ・アラゴンの母はスペイン初代女王イサベル、父はスペイン王フェルナンド5世、甥はスペイン王カルロス1世。そしてこのカルロス1世、1519年以後、カール5世としてドイツ皇帝も兼ねており、そのドイツ軍は、ヘンリ8世が教皇に特免を申請した27年、ローマを急襲して教皇を権力下に置いたのだ。
教皇の権威は地に落ちたが、それに先立つ1517年、ドイツにマルティン・ルターがあらわれ、ローマ教皇によるサン・ピエトロ大聖堂(「聖ペテロ大聖堂」とも)の建設費調達目的での「贖宥状(免罪符)」販売に疑問をだき、ヴィッテンベルク城教会の門扉に「95か条(の提題)」を貼り出した。これを機にドイツで「プロテスタント」(抗議する者たち)が発生し、ヨーロッパ各地で支持を得る。
他方、ヘンリ8世は、特免を出せない教皇に業を煮やすとともに、教皇の権威失墜に乗じ、1534年、国王至上法(首長令)(the Act of Supremacy)を議会通過させ、国王こそがイングランドの教会の現世における唯一最高の長とする既成事実を不動のものとし、この法によってイングランドの教会をローマ教会から分離独立させた。アングリカン・チャーチ(イギリス国教会)の誕生で、実に、ホイットビーの教会会議(664)以来、1000年近く続いたローマ教皇によるイングランド教会の支配を転覆させたのだ。
ヘンリ8世は3人の子どもを残して1547年に他界する。つぎに王位につくのが、3人目の王妃ジェイン・シーモアの息子でプロテスタントのエドワード6世(位1547‐53)。若干9歳だったため、側近が政治を行い、国教会をより一層プロテスタント化する。だがエドワード6世は16歳であえなく病死。
つぎに登場するのがヘンリ8世の第1王妃キャサリンの娘メアリ1世(位1553‐58)。スペイン王室出身の母の強い影響でカトリック教徒。即位の翌年38歳のとき、従兄弟で、後にスペイン王となる熱心なカトリック教徒フェリペ2世(位1556‐98)と結婚する。こういう運命のメアリ1世は、当然のごとくカトリック復興に意を尽くし、復帰に応じない約300人を異端のかどで焼き殺す。「血のメアリ」(Bloody Mary)の異名の由来だ。ロンドンの主教ジョン・フォックス(John Foxe)はメアリの迫害を、プロテスタント迫害史『殉教者列伝』(Book of Martyrs, 1563)で描いている。1557年、メアリは、夫フェリペに協力して対フランス戦争を戦い、翌年敗れて大陸のイギリス領カレーを喪失。国民から愛されること少なく、同年失意のうちに病没する。
その次に登場するのがヘンリ8世の第2王妃アン・ブリンの娘で国教徒のエリザベス1世(位1558‐1603)。女王は前時代の苦い経験から、カトリックとプロテスタントの激突をさける中庸(ヴィア・メディア;via media)政策をとる。彼女の時代に、スイス・ジュネーブに亡命していた人たちが続々、帰国してくる。かれらはメアリ1世の迫害をのがれ、当地でカルヴァン主義の空気をぞんぶんに吸いこんでいるから国教会のカトリック的性向にがまんならず、もっと「純化せよ」(purify)と主張した。ピューリタン(清教徒;Puritan)と呼ばれる人たちだで、プロテスタントの一派で当然、非国教徒。
「イギリス国教会(アングリカン)はかつて多数派でしたが、現在は無宗教者が過半数を占めており、国教会信者は減少傾向にあります。カトリック教徒はイギリス国内で一定の割合を占めており、非国教徒(プロテスタントの他の宗派や無宗教など)も存在します。」(AIによる概要)
イングランド国教会の総本山、カンタベリー大聖堂(世界遺産、カンタベリー管区)

ロンドンはあまりに広い――散々な目にあった帰路
ロンドン観光を終え、帰路、三越に立ちより、カレーライスを。1皿8ポンド(約1600円—当時)。
ヒースロウ・エクスプレスでヒースロウまで戻り、ホテルまでバスだ。バスに乗車のとき、運転手に「ハウンズロウ(Hounslow)へ行きますか?」(You go to Hounslow?)と尋ねたのが間違いだった。かれ、ちゅうちょなく「後ろのバスだ」。いぶかしげに思いながらそのバスへ行き、運転手に「ハウンズロウに行きますか」とふたたび尋ねると「イエス」。運転手に「ハウンズロウに着けば教えてほしい」と頼んだが、この運転手、大まかな人で、「俺は忙しいから、自分で気をつけておけ!」。バスはほぼ満員。停留所3つ目ぐらいまで来たとき、50歳ぐらいの男が近づいてきて、「ハウンズロウだよ」「えっ?」おかしい。こんなに近くないし、周囲の風景が違う。一瞬そう思ったが、初めてのロンドン、信じるしかなく、降車した。だが、全然ちがうのだ。ホテルがない。あの男、風采が悪くなかったから信じたが、ペテンにかけられた。一体どういうつもりだったのだろう?
このバス停に、30歳ぐらいのインテリ風のバス待ち客が1人だけいた。ホテルの所在地とホテル付近の地図のコピーを見せて尋ねると、「~番のバスに乗るとよい」。かれが去ったあと、教えられたバスが来たので、運転手に例の地図等を見せた。真剣に眺めたあと、「乗れ」。しばらく走ってから、彼、ふたたびその地図を。広域地図でないからどうも正確には分からないらしい。しかし真剣に見てくれている。結局、バスの終点まで来てしまった。そして運転手が、向こうの乗り場でバスに乗れ、と指をさす。その停留所にゆき、中国系と思われる30歳ぐらいの男性に、「ハウンズロウへ行きたいのだが、ここに来るバスに乗ればよいか」(We want to go to Hounslow. Do you think we can take a bus here?)「ここがハウンズロウだ。ハウンズロウのどこへ行きたいのか」「えっ!?」。そうか、ハウンズロウといっても広いのだ。また地図を示すと、もっと向こうの停留所の~番のバスに乗れという。困った!仕方なくその方向へ移動していると、今度は60歳ぐらいの婦人が僕たちに気づいて親切に聞いてくれる。地図を見せ、「ここへ行きたいのです」(We want to go here.)というと、自分はその場所は知らないが、向こうの停留所に行って誰かに聞いてあげよう、と。そしてバス待ちの、優しそうな青年に聞いてくれた。例の地図を彼に見せると、この停留所でよい、バスは~番だ、と。このころ、日が暮れそうになっており、妻は不安げで、タクシーに乗ろうと言い出す。ぼくもその気になっていたので青年に「タクシーに乗る方がベターですか」(Do you think it is better to take a taxi?)「バスの方がベターだ。自分もそのバスに乗る。自分は途中で降りるが、大丈夫だ」と重ねて言う。間もなくバスが来たので彼と一緒に乗ることに。いくらかの停留所を過ぎる。だが、かれ、降りる様子はない。そしてあるバス停までくると、「ここがあなたたちのバス停だよ」。かれが降りるものだから一緒に降りた。バスが通り過ぎると、道路の反対側を指さし、「そらそのホテルだろ」「わっー!本当だ!本当だ!」(Oh, true, true!)。かれに深く礼を述べ、ホテルに入った。非常に疲れていた。部屋で落ち着きを取り戻したとき、「しまった!」。あの青年に、タクシー代ぐらい差し出すべきだったと、ひどく悔やまれた。
ロンドンは広い。広域地図を用意すべきだった。それに、最初のバスで「ハウンズロウ」と聞いたのが間違いだった。そのバスこそが、まさにホテルの若い女性が教えてくれたバスだったのに!大都会ロンドンで、旅の初めに悪人と善人に出会った。
部屋で少し休憩。飲み水がない、食料も欲しい。午後7時半ごろだったが、例のスーパーがまだ開いているようだ。徒歩で5分。そこへ行くしかない。道を歩いていると、途中で1人の若い女性がぼくたちに突然声をかけてきた。「えっ?」知人などいるはずがないのに。妻がすぐにあの娘だと分かった。ぼくは視力に自信がないものだから、瞬間的に “Hotel girl?” と口をついて出た。今朝、バス乗り場などを教えてくれた女性だ。20歳ぐらいだろう。「バスの運転手が間違った指示をしたので、バスに3回乗って、今やっと帰り着いたところだよ」(A bus driver misguided us. We took three buses, and just returned.)というと、彼女、本気で同情してくれた。嬉しかったから、握手を求めた。外出姿のこの女性、ホテルで見るよりずっと美しく見えた。妻もそう感じていた。明日はヨークへ移動。1ヶ月の貧乏旅行、険しい幕開けとなった。大丈夫だろうか?
8月31日(水) ヨークへ
晴れ。ホテルのフロントで支払いを済ませた。このホテル、日本で得た情報と異なり、落胆させられたが、それでもありがたかったことがある。ベッドのシーツが清潔だったこと、それにスタッフがすべて好感のもてる人たちだったことだ。遠来の客にとって、スタッフのていねいな態度に勝るサービスはない。ちなみに、昨日、枕チップのつもりで1ポンド置いておいたが、あの娘、手を付けていなかった。2つ星のホテルだが、スタッフは4つ星!
なぜヨークかダラムか
英国の形成
1 古代史に登場するヨークとダラム
人間がいつごろから住んだかではなく、歴史上いつごろから注目を浴びるようになったかということになると、ヨークはローマ人の支配時代、ダラムは7世紀末であろう。両地域はイングランドの古代に重要な役割を果たしているから、これらの歴史ある町に是非足を踏み入れたい、が長年の願望だった。
2 ローマ人の支配時代
ブリテン島(ブリタニア)の先住民はケルト人。ケルト人は元来、アルプス以北の中欧と東欧(今日の中部ドイツからボヘミア、オーストリア付近)を原住地としたが、紀元前7世紀、一部がブリテン島へ移住してきた。ドルイド教という宗教を信奉し、ドルイドという僧侶が宗教、教育、裁判をつかさどっていた。ケルト人に関する情報はカエサル著『ガリア戦記』(岩波文庫)でも得られる。
この島へ、紀元前55、54年、ローマ軍が押しよせた。大将はユリウス・カエサル(英語読みは「ジューリアス・シーザー」)。そして第4代ローマ皇帝クラウディウス(位41‐54)時代の紀元後43年、ローマ帝国はブリテン島を1属州とし、これを「ブリタニア」(Britannia)と呼んだ。以後約400年間、かれらがブリテン島の支配者であり、紀元後430年に撤退する。その間、商人や兵士がキリスト教を伝えた。ヨークもダラムもキリスト教と深い関係がある。
3 キリスト教の誕生と伸展
キリスト教はユダヤ(現パレスチナ)で誕生し、大きく飛躍するのはローマ帝国の時代。
イエスは紀元前4年ごろ誕生し、紀元後27、28年ごろ公的活動を開始する。かれはユダヤ教指導者の腐敗・堕落を批判し、ユダヤ教の刷新に努めるが、結果、紀元後30年から32年ごろ、ゴルゴタの丘で十字架刑に処せられる。直後に弟子のヤコブ、ペテロ、ヨハネらがユダヤ教の一派であるエルサレム原始教会(エルサレム教団、原始[キリスト]教会)を創設し、エルサレム神殿に日参する。だが所詮、ユダヤ教の批判勢力だから激しい弾圧にさらされる。弾圧側の1人はパウロだ。持ち前の能力と行動力で新興集団を徹底的につぶしにかかる。だが、32年から34年ごろ、不意にイエスの声に打たれ、一転、回心し、原始教団に加盟する。まもなくペテロらとともに異邦人宣教にのり出し、ローマ帝国内の各地を経て首都ローマにまで至る。
64年、ローマで大火災があったとき、時の皇帝ネロ(位54‐68)は、責任をキリスト教徒に転嫁し、パウロとペテロらを含むキリスト教徒を多数殺害したとされる。
ネロ帝時代の66年、ユダヤでは、自らメシア(救い主)預言者と自認する者たちが現れ、「神の子」の同胞に、「時は満ち、神の国は近づいた」(「マルコによる福音書」1章15節など)と説いてふるいたたせ、軍隊もないのに、世界の覇者たるローマ帝国に挑みかけ、紀元後70年、惨敗(第1次ユダヤ戦争)。それから約60年後、再び彼らの中からメシア預言者を名乗るシメオンという男が現れ、132年、またもやローマ帝国に挑み、135年、完敗(第2次ユダヤ戦争)。国を喪失させられ、ユダヤ人は世界を流浪する羽目に。
4 ローマの神々とヤハウェ
ローマは元来多神教で、建国前からユピテル(神々の王)、アポロン(太陽神)、ユノ(神々の女王)、マルス(軍神)、ウェスタ(かまどの女神)などを戴き、これらの神々は各地に存在するオリンポスの山に住み、神殿をかまえ、人間と同じように愛、嫉妬、復讐、王位争奪、自殺、殺害などを行った。ローマの神々は人格を有する人格神、地上の神(地上神)。他方、キリスト教はユダヤ教から誕生したから両者の戴く神は同一。つまり、天地万物創造の唯一天上神ヤハウェ。人間と截然と区別される。
ユダヤ人は国を失ったのだが、かれらの一部が信奉するキリスト教はローマでじょじょに支持を得る。当時のローマ社会は、人口の5分の3が奴隷という差別社会。ここで、神の前の平等、強者批判弱者救済、病気治癒を含む奇蹟行為、神の国の接近などを説いたのだから、下層階級にとってはまさに福音。キリスト教の教えは底辺から浸透し、ついに皇帝の心をも支配する。392年、ローマ帝国でキリスト教が国教とされるのだ。換言すれば、ユダヤの唯一天上神がローマの地上の神々に勝利したということ、あるいは紀元後135年、ユダヤはローマ帝国に物理的に滅ぼされたが、約250年後、精神的に勝利したということ。
5 ローマ帝国支配時代のヨーク
ローマ帝国の支配時代、ローマ軍はブリテン島のイングランド北東部ヨークに軍事司令部をおき、紀元後306年、のちにローマ帝国でキリスト教を公認するコンスタンティヌス1世(大帝)(位306‐37)がここを訪れている。それから8年後の314年、ヨーク司教が、南フランスのアルルの宗教会議(314年)に参加したことが議事録に残っている。ヨークは歴史ある古都だ。
6 ローマ軍の撤退
ローマ帝国のブリテン島支配時代、キリスト教が伝えられたわけだが、紀元後430年、かれらは完全撤退する。アングロ・サクソン人(アングル人、サクソン人、ジュート人の総称)が攻め寄せたためで、449年、かれらはブリテン島南部に7王国(449‐829)を成立させる。アングロ・サクソン人は現在のオランダ付近にすんでいた西ゲルマン民族で、固有の神々を信奉する民族。その結果、キリスト教は一時、壊滅状態になるが、完全に消えるわけではない。
7 アングロ・サクソン人時代のキリスト教
① 大西洋岸のアイオウナ島
ブリテン島からローマ軍が撤退したあとの561年、アイルランドの貴族コルンバ(Columba. c.521-97)は自らの不徳が原因で、かれの一族とアイルランド王との間に紛争を起こしてしまう。コルンバは後悔のあまり、苦行に身をさらすことを決意し、2年後、12人の弟子とアイオウナ島(またはイオナ島、ハイ島またはヒイ島とも;Isle of Iona or Isle of Hy)へ移住し、修道院を開く。そして礼拝と手仕事と著作にはげみ、ときどきスコットランド海岸地方や北イングランドへ伝道に出かけ、北方ピクト人らをドルイド教から改宗させ、そこに修道院・教会を建設する。
コルンバの名声が高まると、ブリトン人やサクソン人が訪れ、修道院は150人ほどの修道士を抱えるようになり、ケルト教会(アウグスティヌスが597年にブリテン島へ来る前から存在したキリスト教会)の中核に成長する。コルンバは終生、司教となることなく、院長職にとどまり、34年間を過ごし、後世、アイルランドとスコットランドの守護聖人としてあがめられる。
アイオウナ島はスコットランド西岸に浮かぶ小島だから、地図を相当拡大しないと見つからない。「iGoogle」の[Google マップ検索]をクリックし、つぎの画面で “scotland” を入力し、[Search Maps]クリック。スコットランド・グラスゴー(Glasgow)北西の大西洋岸、マル島(Isle of Mull)を見つけ、地図をさらに拡大し、赤色で示された道路の先端部分をたどるとアイオウナ島(Iona)が見つかる。ウィキペディアのアイオウナ島も参照。
ついでながら、アイオウナ島の修道院のその後をいえば、794年、ゲルマン民族の一派バイキング(デーン人ともいう)の襲撃にあい、さらに801年、スカンディナヴィア人に放火され、806年に68人の修道士が海賊に殺され、1204年に活動をおえる。他方、1203年にベネディクト派が修道院を建設したが、1561年、宗教改革下のスコットランド議会によって解散させられている。その後、廃墟となったが、1899年に復興が始まり、現在に至っている。
② ブリテン島の東海岸、ノーサンブリア王国
アングロ・サクソン人の7王国の1つのノーサンブリア王国(現在のノーサンバーランド州;Northumberland)にオズワルド王(Oswald. 605?-42)が現われ、キリスト教を復活させている。オズワルド王は王子の時代、父王の死(616年)で王国を南ノーサンブリアの王子エドウィン(Edwin)にうばわれたため、スコットランド西岸の小島アイオウナ島の修道院へ逃れ、子ども時代を過ごしてキリスト教に改宗する。他方、王国をうばったエドウィンは627年にキリスト教に改宗するのだが、異教徒の攻撃をうけ、633年に戦死。エドウィンの死で、オズワルドが帰国し、王位について異教徒を追いはらい、アイオウナ島のケルト人修道士エイダン(Aidan. ? - 651)をまねいて王国をキリスト教化する。まもなく王国に、後世に名をのこす偉大な聖職者・歴史家のベーダ(ベダ)(Beda or Bede)があらわれ、かの有名な『イギリス教会史』(731)を著し、「英国史の父」(Father of English History)と呼ばれる。
ノーサンブリア王国の位置をいえば、北海に面したブリテン島東岸で、スコットランドと国境を接するイングランドの最北部に存在する。
③ 北海沿岸のリンディスファーン島
リンディスファーン島(日本語でも読める)はイングランド最北部のノーサンバランド州の、北海に面する最北端の町ベリック・アポン・ツウィードよりやや南下した位置にある。小さい地図では、島というよりもほとんど陸続きのように見える。:
上述の宣教師エイダンは635年、リンディスファーン島(Lindisfarne)(上のサイトとは異なる)(11世紀以後「ホリー島;Holy Island」とも言う)の岩場の岬に修道院を建設し、司教にえらばれ、ここに司教座を創設する。そしてアイオウナの修道士たちをまねいて活動の拠点とし、全イングランドに宣教師を派遣し、各地で礼拝堂、修道院を建設する。ちなみに、エイダンは節制・制欲の人で、現世の物品に執着することなく、富者からえた金品はすべて貧者にほどこし、不正に買われた者を買いもどし、教育を与えて聖職者にまで高める。彼が弟子たちを伴って島外の司教区を巡回するとき、徒歩中でも弟子たちに詩編と聖書を学ばる。

664年、リンディスファーン島に聖職者カスバート(カスベルト)(Cuthbert)があらわれる。少年時代は羊飼いだったが、651年に「スコットランド南東部のボーダズ州(Scottish Borders)メルローズ(Melrose)」で修道士になり、10年後に修道院次長をつとめ、664年にリンディスファーン島にうつり、次長を務め、この修道院にローマ教会方式を取り入れ、修道院規律を改めている。

だが676年、孤独な生活を求め、リンディスファーン島の約9マイル南、ファーン諸島(the Farne Islands)の1つにすみつき、8年間、「強い制欲」の隠修士として生きる。ケルト的な高潔さを有した彼は、しばしば修道院を出て辺境の地や貧民地区へおもむき、宣教する。685年、リンディスファーンの司教にえらばれ、2年後にファーン島で死去。遺体はリンディスファーンからダラムへ運ばれ、遺体を安置するための大聖堂が建てられた。
リンディスファーン島は793年と875年にバイキング(デーン人)の略奪にあい、修道士たちは逃亡。875年、ダラム州のチェスター・リー・ストリートに司教区が定められたが、その20年後に首都ダラム市にうつされた。
ダラムの位置を言えば、リンディスファーン島からずっと南下したところにタイン・アンド・ウイア州の州都ニュキャッスル・アポン・タイン(Newcastle-upon-Tyne)があり、さらに南下したところにダラム州とその州都(county town)ダラムがある。そしてダラムからずっと南方に、北ヨークシャー州(North Yorkshire)の州都ヨークがある。
今日、リンディスファーン島にはホームページがあり、これを開くと「Hotel/B&B」があり、それほど高価でないようだ。ここに宿泊するのも一興だろう。
④ ローマからカンタベリーへ
ローマの修道院長、アウグスティヌス(またはオーガスティン)(Augustine or Austin)は、ローマ教皇グレゴリウス1世(Gregorius)の部下。596年、イングランドでの教会再建を教皇に命じられ、40人の修道士をつれてゲルマンの神々の君臨する7王国の1つ、ケント王国へ出向く。だが、王国を目前にして「蛮族」に恐れをなし、引きかえしてしまう。翌年、ふたたび教皇に説得され、おびえながらケント王国への上陸をこころみると、意外にも、エセルベルト王に歓迎されるのだ。王妃ベルタが、フランク王国(西ヨーロッパを支配した)出身のキリスト教徒だったからである。まもなく一行は、首都カンタベリー市での滞在を許され、説教の自由もえる。そして原始教会の使徒のように、けがれのない簡素な生活をおくっていると王も感化され、洗礼を受ける。
アウグスティヌスは司教区を創設し、各地におおくの教会を建て、首都城外に修道院(のちに聖アウグスティヌス修道院と改称)を設立する。彼はこの功績により教皇グレゴリウスから初代カンタベリー大司教に任命される。