
33. 黒子――説教する牧師と、語れない子ども
私には、SDAクリスチャンの家族の背後に、どす黒いものがあるように感じられていました。
教会を離れてからも、その気持ちの悪い、どす黒いものが、生活のあらゆるところからじりじりと近づいてくるように感じていました。
国内だけでなく、海外にまで逃れるようにして教会から距離を置いた人や、今も苦しんでいる人たちがいます。
私が知っている人の中には、親がSDA教会の牧師で、教会では真面目に活動している家庭もありました。
しかし、その子どもは教団内の組織で暴力を受け、親の立場や自分の帰る場所を守るために、経験したことを表に出せずにいました。それでも、ぽつり、ぽつりと話をしてくれながら、懸命に自分の人生を歩もうとしていました。
一方、私の家族のSDAクリスチャンらは、その親である牧師らを信頼し、説教を聞かせようと、私を一生懸命に教会へ連れて行こうとしました。
その頃、繰り返し聞かされたのが、新島襄と太宰治の比較です。
新島襄は、なぜ教会に行くのか分からなくても通い続け、後に同志社大学を創設した。一方、太宰治は教会に行かず、最後には自死した。だから太宰治のようにならず、新島襄のように成功しなさい、という説明でした。
もちろん、これは当時聞かされた話であって、二人の人生を正確に説明したものではありません。そもそも、何を成功と考えるかは人それぞれです。
しかし、私が気持ち悪いと感じたのは、そこではありません。
目の前には、教団内の組織で暴力を受け、親の立場や帰る場所を守るために、苦しみを表に出せずにいる子どもがいました。
その親である牧師の説教を、何事もなかったかのように聞くことなど、私にはできません。
そこまで自分の感覚を麻痺させることはできなかったのです。
そして、その矛盾を真面目に話そうとすると、今度は私が黙るように求められるのです。
家族かどうか、クリスチャンかどうかという以前に、その感覚が恐ろしかったのです。
こんな生活を数十年も続けていると、そもそも、この人間集団が何のために存在しているのか、分からなくなってきます。
こうした矛盾さえ、善と悪の大争闘という宗教的な物語の中で説明されてしまうのでしょうか。その牧師は、今も普通に説教を続けています。
第31回では、教団の物語の外に置かれた人々を「黒子」と表現しました。第32回では、動物たちについて書きました。
そして、ここにも黒子がいました。
牧師の説教は語られる。信仰によって成功した人の物語も語られる。
けれども、そのすぐそばで暴力を受け、苦しみながら生きている子どもの経験は語られない。
私には、教会の外にいる人たちの方が、よほど目の前の現実を見ているように思えました。
少なくとも私は、その子どもが確かにそこにいて、懸命に生きていたことを、なかったことにはしたくありません。