
40. 黒子――「気持ちの悪いSDA世界」はどこから来るのか
私はSDA教会の家庭に生まれ育ち、三育学院に進みました。高校卒業後は教会の外の社会で生活してきましたが、家族では私以外がSDAのクリスチャンで、身内にはSDAの牧師もいます。
38回では「気持ちの悪い大人」、39回では、牧師が信徒を見る「目」について書きました。
私という一人の人間ではなく、「導くべき羊」「正しい信仰へ戻すべき対象」として見られているように感じること。私にとっては、それが怖かったのです。
27回を書いた後、1996年の北米SDA教会の公式議事録を確認しました。そこでは、若者の「信仰の成熟」と「教派への忠誠」を育てるため、キリスト教教育にシステムズ・アプローチを取り入れる方針が採択されています。さらに、出生から22歳までの子どもや若者を対象とする 追跡システム や、教会の各レベルが連携する切れ目のない育成プロセスも提案されていました。
私は、この「システムズ・アプローチ」という言葉から、極端な比喩としてスタンフォード監獄実験を思い浮かべます。
もちろん、システムズ・アプローチとスタンフォード監獄実験に直接の関係があると述べているわけではありません。SDA教会が監獄であるとか、実際に社会実験をしていると主張しているわけでもありません。また、スタンフォード監獄実験自体、現在ではその方法や従来の解釈について大きな批判があります。
それでも、「人が置かれた役割や構造によって、相手を見る目や行動が変わる」という問題を考える材料にはなります。
SDAでは、牧師は「羊飼い」、信徒は「羊」にたとえられます。
教会の中で生まれた子どもは、まず「導かれる側」から始まります。聖書を教えられ、教会へ連れて行かれ、洗礼を勧められる。そして大人になり、次の世代を持つと、今度は自分が「導く側」になる。
かつて自分が教えられた言葉を、次の世代へ伝える。かつて自分が従うことを求められた仕組みを、今度は自分が運用する。
そうして、誰か一人が意図して作ったわけではなくても、同じ構造が世代を越えて再生産されていく。
私は、そこに怖さを感じています。
誰か一人を「悪い牧師」「悪い親」「悪い教師」として吊し上げれば解決するのであれば、話は簡単です。
私が考えたいのは、なぜ善意で行動しているはずの人が、目の前の子どもから見ると「気持ちの悪い大人」になってしまうのか。
なぜ、人を守ろうとしているはずの牧師が、一人の人間ではなく「導くべき羊」を見ているように感じられるのか。
そして、なぜその構造が繰り返されるのか、ということです。
私は、信仰の有無にかかわらず、一生懸命に働き、他者に敬意を払う人が最も尊いと考えています。
だからこそ、人を「羊」「信徒」「未信者」「救うべき人」として見る前に、まず、目の前にいる一人の人間として見ること。
そこから始める必要があるのだと思います。