
普通のフリ
波瀾万丈は秘するもの。そんな過去は誰にでもあって、みんなそれでも普通のフリをして生きているのよ。
会社員だったとき、お局先輩と話していると、ときどき、不幸自慢バトルを挑まれているような錯覚に陥ったことがあった。
でもね、過去にそんなことがあっても、私はこんなに、常識的で、まともでしょう? これが、普通なんだよ、と。
高度経済成長期の終わりからバブル景気に至る、そんな時代の潮流のころに生まれ、ひとりっ子で何不自由なく育った。
母は私が失敗しないようにと、なんでも先回りしてちゃんとしたレールを敷こうと必死だった。
親の期待に無意識に応えていた。
子どもの頃はアニメ全盛期の時代だったと思う。皆が夢中になったものは漏れなく私も夢中になった。クリィミーマミ、キャッツアイ、うる星やつら、ドラゴンボール。ドラえもんやサザエさんは日常に溶け込んでいた。母がどんなに阻止しようと、母に内緒で友達の家で『スケバン刑事』を観たりもした。あ、これはアニメではないけど。
なかでも幼い頃の私に多大な影響を与え、今でもアイデンティティの根幹を成しているであろうアニメは、『まんが日本昔ばなし』と『世界名作劇場』だと思う。
その中でも特に強烈な印象を残しているのが、『小公女セーラ』だ。
セーラは鮮烈だった。毎週、日曜夜。大河ドラマが始まる前の30分間。テレビの前で息を呑むようにして観ていたのではないかと思う。
私には両親がいる。食べるものがあり、物にあふれている。自分を取り巻く当たり前の風景が、画面の向こうの少女セーラには何ひとつ与えられていないように見える。自分とセーラとの間のコントラストが痛烈に響いていた。
なぜ自分だけ恵まれているんだろう。
愛されていて、豊かであることに、どこか少し罪悪感めいたものを感じていたかもしれない。
それから少し時を経て、小学生のいつの頃だったか、ふと『苦労は買ってでもしろ』という格言を耳にした。
苦労──
その言葉に、幼き日に見たセーラの姿が重なる。
『日本の安全神話』といわれるような、ある意味平和な時代だった。そんな平和を享受して、のん気にのほほんと生きていた。このままでいいのだろうか、苦労をしていない私はなにかとんでもなく欠けた人間になってしまいはしないか。そんな小さな不安が、子ども心のどこかにあった。
「実はね……」と、家庭内の秘密を打ち明けてくれる友の話に耳を傾けていたとき、そんな苦労話の秘密を持っている彼女を、少し羨ましく思ったこともある。
中学に上がって学校に行けなくなったとき、これで私も「悲劇のヒロイン」の仲間入りができる。私にも話せる「苦労話」がひとつできた、と心のどこかで思った。
苦労する。
でも最後には報われる。
そんな王道のわかりやすいストーリーを自分の人生にも落とし込めるような気がして、これでいいのだとさえ思えた。
実際は、日常の中で自分の過去を語る機会なんてあまりない。当然、秘するものとして口をつぐみ、それでもときどき会話の端にちょろっと現れる。
お局先輩は過去を克服した今はちゃんと「普通」の人。
私はいまだに過去に囚われた「普通」から少し外れた人。
王道のストーリーに乗り切れない。
無職になって1年が過ぎた。
Kindleで小説を出したり、キャンプ動画を投稿したり、noteに過去を晒して爆死し、マチアプという誘惑にちらちらとほだされながら、もう少しそうじゃない居場所を見つけたいと抗って立っている。
『苦労は買ってでもしろ』
という格言を、私はどうやら履き違えていたのだろうと思う。
だけど、私なりに集めた私の『苦労コレクション』は、ちゃんと人生の引き出しに深みを与えてくれていて、それなりに面白い色とカタチを持っているから、ありっちゃアリだろう。
報われてなくても、肯定はしておく。
負け惜しみである。
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次回|就職氷河期クライシス、或いは、売れ残りのマッチングアプリ
このエッセイは、note創作大賞2026への応募作品として、 無職の一年を18の物語で綴る連載です。
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残り2回、なんとか連載完走できそうです。