
満開のハナモモが散り始めたころ、うちのネコちゃんが死にましたー肉親の死であったらどうだろうか、それが突然戦火で亡くなるとしたらどうだろうか
うちのネコちゃんが死にました。まだ、3歳ちょっと。原因はがんで、若い分進行も早く、気づいた時には転移して、もうだめでした。最後は家族に看取られました。
悲しくて悲しくて、いっぱい泣いて、泣いて。頑張ったねって声をかけるだけで涙があふれて。まだ早すぎる、若いペットの突然の死というのは、やはりつらいものです。
戦時下、飛行服のため、食糧のためとして、ペットの犬が供出されました。飼い主は、買い上げられるお金を先にもらってお店に走って最後の肉を買い与えたり、しのびなくて処分する場所の木に括り付けて帰ったり。長野県須坂市の方は、出征することになったと言って、愛犬を連れて行きました。そして、こたつに頭を突っ込んで泣きました。
ペットとの突然の、それでもがんが判明してから2週間ほど、お別れに向けて心構えを整えていたつもりです。少しづつ弱っていく姿をみながら、それでも声をかけ、かわいがって。それだけの準備が貴重な時間でした。
でも、戦争の死は突然です。予兆もありません。そして、その理不尽さからは逃げようがありません。今、ネコちゃんの死、それも予定されていた短い命とのお別れの時間があってもつらい。これが、肉親であり、友であったらどうか。子どもや青年であったならどうか。パレスチナの子どもの夢は、大人になるまで生きること。こんな極限に追い込むことなんて、誰もしてはいけない。
イランでも、何千人という人が突然の攻撃で亡くなっています。そして、その犠牲は、ほんの思い付きで権力者が振り回した軍事力によるものでした。自分たちが選んだ、覚悟していたことなんかじゃない。
台湾有事には中国と戦争すると断言する首相が、今の日本の首相です。そして先制攻撃能力として、巡航ミサイルを配備する予定です。アメリカにべったりで、アメリカの世界戦略、というか、思いつきのコマにされるため、改憲をして軍事力を増大させ、国家権力を永続させて反抗する国民の監視を行なえる組織もつくると。その先にあるのは、主体性のない戦争への巻き込まれであり、犠牲です。戦争とは、国同士の戦いであり、個人の個は無視され、数字化されます。戦争をする人は、数字しかみないのです。その数字の比較で勝った負けたなどと。
戦前の日本では、乳幼児の死亡率が高かったうえ、若者が結核で死ぬことも多かったのです。死が身近にありすぎて、そして戦争をやりすぎて、死をもはや運命と受け入れさせられていたようなものです。
近年、日本では、死を身近に感じにくくなっています。それだけに、戦争で無差別に人が死ぬということにも、鈍感になっているのではないでしょうか。死を実感できなければ、戦争へのハードルは下がります。そして、相手の命を考えることもおろそかになるでしょう。
今、自分は死ぬ係ではないというような勢いで、なし崩しに政治と軍事が接近しているように思えてなりません。戦争は天災ではなく、回避可能な人災です。そして、その回避のための不断の努力こそが、必要なのです。その原点が、あらゆる命を守るという意思なのではないか、と。
戦争はこりごりだと言った先人の思いを、また次世代にさせることは絶対にしたくない。そのためのアプローチを、憲法を足場に、戦時下の現実を背景に、進めていきます。共に。