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【夫婦関係 夫婦のすれ違い】 一緒に来てくれたのに、寂しい

    例えば、妻は映画が大好きで、夫はそれほど興味がないとする。

    妻には見たい映画がある。できれば、夫と一緒に見たい。夫も、妻が楽しみにしているので、一緒に出かけることにする。

    映画が終わる。

    妻は感動している。あの場面がよかった。あの台詞が心に残った。夫にも感想を聞く。

    「まあ、面白かったよ」

    嘘ではない。ただ、妻が話したかったのは、その先だった。

    同じ場面で心を動かされて、登場人物の気持ちについて、帰り道にあれこれ語り合いたかった。

    「一緒に来てくれたのは、うれしいんだけど」

    その先を、どう言えばいいのか。

    夫も妻をがっかりさせたいわけではない。でも、心が動かなかった場面について、感動したとは言えない。

    せっかく一緒に来たのに、という気持ちが、二人に別々の意味で残る。


    同じ作品を見て、同じところで笑い、同じ場面に感動できたら、楽しい。自分が好きなものを、好きな人も好きになってくれたら、うれしい。

    だから、「一緒に見たい」には、隣の席に座ってほしい以上の期待が含まれていることがある。

    誘った本人も、最初からそこまでは意識していない。一緒に見終わって、相手との温度差に触れて、初めて気づく。

    自分は、時間だけでなく、気持ちも共有したかったのだ、と。

    一方、誘われた側は、一緒に過ごしたいという希望には応えたと思っている。

    「応えた」と「満たされた」が、食い違う。


    夫は映画には、それほど興味がない。

    でも、映画を楽しみにしている妻には、関心がある。

    自分一人なら選ばなかった休日の過ごし方を、妻と過ごすために選んだ。同じように楽しめなかったとしても、一緒に来たことに意思がなかったわけではない。

    自分にはそれほど響かないものを、相手が大切にしているから、大切に扱おうとする。自然に好みが一致することとは違う配慮が、そこにはある。

    ただ、その配慮が伝われば、妻の寂しさが消えるとも限らない。

    来てくれたことには感謝している。そのうえで、同じ気持ちで話したかった。

    その両方が、同時にある。


    相手が何を大切にしているのかを知ろうとすることはできる。そのために時間を使い、行動を変えることもできる。

    けれど、自分の中に同じ興味や感動が生まれるかは、別の話だ。

    「分かってほしい」と言うとき、気持ちを知ってほしいだけでなく、同じように感じてほしいとまで期待していることがある。自分でも、その違いに気づいていない。

    すると、相手は応えているのに、「まだ分かってくれない」が続いてしまう。

    寂しさを伝える側は、もっと気持ちを説明しようとする。応えようとする側は、何をすれば足りるのか分からなくなる。

    片方には「こんなに伝えているのに」が残り、もう片方には「何をしても足りない」が積もる。

    会話を増やしても、何を求めているのかが食い違ったままなら、すれ違いは繰り返される。

    相手が誠実に応えてくれても、残る寂しさはある。それは、寂しい側がわがままだからとも、応える側に愛情が足りないからとも、簡単には言えない。


    私も、妻のことがよく分かっているとは言えない。

    妻が大切にしていることを、私には実感しにくいことがある。逆に、私が面白いと思うことを話しても、思ったほど反応が返ってこなければ、物足りなく感じる。

    自分が応える側にいるときは、同じようには感じられなくても、応えようとしていることを分かってほしい。

    でも、自分が求める側になれば、応えてくれたことより、共有できなかった気持ちの方に目が向く。

    「分かってほしい」と願う自分は、相手が自分と同じようには感じないことを、どこまで受け止めているだろうか。

    同じ映画を見て、同じ気持ちで帰れたら、うれしい。

    そうならなかった日は、少し寂しい。


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    シクミニスト。夫婦や人間関係の「なんでそうなる?」を、しくみから考えています。恋愛、友人、職場、ときどき世の中のこと。妻を笑わせることが生甲斐。でも失言で激オコも多い。猫はいつも膝に乗ってくれる。

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