
「あなたの心にグロテスクをもっと」混沌の中の活力としてのグロテスク
今までにボスもゴヤもとりあげてきた。どちらの回も自分で気に入っている。下線部のリンクからぜひ読んでほしい。
私はグロテスクについて考えるのが好きなのだが。こういうグロテスクは好まないというのがハッキリとあったり、「これのどこがグロテスクなの?」と人から言われそうなものにグロテスクを感じて、それを好んだりする。
みんなそんな感じなのではないかと思う。人それぞれ精神的に、摂取してセーフなラインとアウトなラインがあると言うか。

だから、グロテスクについて歴史や概念の深掘りや最新情報を書くが、グロテスクな画像を貼ったりはしない。解説に必要で出すビジュアルで気分が悪くなる人はいないと、断言できる。
これを読み終えた後、知ることを通じて、あなたの中の「グロテスク」が変化していることを約束する。今回も長尺になりそう。あきずに読み続けられるように工夫してみる。
では、いってみよう。
過去回で、こんな話をしたことがある。



グロテスクだよね。
クリステヴァ氏は、男性が女性を舞台に上がらせたがらない傾向を語るのにも、自身の提唱した概念を使ったりしたわけだが。私はそれには同意しない。
おぞましいから異性を排除するのは女性だ。逆に女性は、椅子取りゲームに参加してほしくなくて異性を排除したりしない。
いや、男性も女性に負けたくないというより、女性に負けている自分を同性陣に観測されたくないだけなのかもしれないが。スカウターを外しながらベジータが言っていた。「こいつらは戦いに応じて戦闘力を変化させる。こんな数値はあてにならん」たとえばプライベートの様子からビジネスの能力をはかることなどできないと、本人たちもわかっていても、本能的にね。
女性陣が ex(元〇〇)を時間的・空間的・精神的距離を経て気色悪がり出す傾向、しかも極めて高い傾向について、これーー自己と一体だったものをおぞましく感じ出し拒絶するーーとの関連を研究などした人はいるのだろうか。

三島由紀夫曰く。これ系で男が女に薄情だと言うのはお門違いで、おまえらは給油しなくても車が走り続けると思うのかと(彼の語りをまとめて比喩的に言うとこう)、女の燃料とは習慣だぞと。それはそうなのだが。
平たく見て異常な人と交際や婚姻をしていたわけではないのに、相手が自分の習慣でなくなると黒歴史とまで言い放つのが女性だ。ここには必ず何かある。Somedayの男とTodayの女以外にも、忘却のメカニズム(この過去回で詳しく書いた)以外にも、何かある。
男性は女性よりもエロを感じる対象が多く範囲が広く、自動的にある程度のグロもエロに分類しがちなくらいだが。


おそらく私たちは、彼らを状況(恋愛感情など)に応じて一時的にエロに分類している/していたにすぎず、基本的にはグロに分類している。社会生活で人間を人間だととらえているのとは別に。
私の文章を読んでくれる人は、こういう表現方法を好むのかもしれないが。いろんな人がいるからね。こっち↓のがわかりやすくていい、という人もいるだろう。笑いは大切なものだ。
わざと異端者を演じるわけではなく、私は男性の性質の方が好きだ。由紀夫(友達風😂)の言うこともわかるが、女性はやはり薄情ぎみかと。それに、時に邪魔なほどの身体の奥底からの鳴り止まない報せなんて、イケているし。
(これは性的傾向の話ではなく)そういうのをうまく飼い慣らして人生をおくれないと、社会規範を悪い意味で逸脱してしまう可能性があり。すごくうまくあつかえると、鬼才などと呼ばれる存在にもなり得る。

いわゆる「レス」問題について、習慣であり続けているのになぜと、特に男性は熟考してはいけない。もはやグロにカテゴライズされている薄情状態なのに・ATMとしては使われ・自由や幸福追求などの極めて基本的な人権も妨げられ……精神衛生上よくないため、このグロテスクは深追いするな。
Chronic 慢性的な。Acute 急性の。どちらも好ましくないことに使われることが多い形容詞。

美術におけるグロテスクの定義は、いくつかの辞書によると、こうだ。
人間と動物と植物が幻想的にからみあった装飾的な絵画や彫刻。滑稽に歪んだ人物像やデザイン。

グロテスクの重要な要素であると私たちの大半が思っている(であろう)恐ろしさや不気味さについては、なんらふれられていない。
語源はイタリア語の grotte(洞窟)。15世紀末の発掘調査から、古代ローマの建築装飾がどのようであったかを知った人々が、それを grottesco(洞窟っぽい)と呼びはじめた。

現存する最古の建築理論書(紀元前25年頃に書かれたものだから共和政ローマ末期・帝政ローマ初期だね)の中で、当時の芸術家たちの「堕落した趣味」について、次のように書かれている。
(内容はそのまま現代口調にしてみる)
今や、怪物はフレスコ画に描かれている。葦(あし)が柱の代わりになるか?細いアカンサスの芽の上に像が乗るか?そんなわけないだろ。らせん状に生えたやわらかそうな草に、何の理由があって、いつも小さな人が寄りそっているんだよ。人頭の獣とか獣頭の人とか、存在しないしかつて存在したこともないだろ。ふざけてないで、正しい原則で世界を認識しろよ。
芸術にそんなに怒らないで🥲と思ったが、これを読んでリアルに想像できた。


紀元前に生きた建築関係者らからしたら、非現実的なアイディアが自分たちの分野に浸透することは、心配の種だったのだ。まだサイエンスが定まっていない・具象と抽象の区別が社会全体であいまいだと、たとえば、重要インフラがデザインによって機能しないものや危険性のあるものに仕上がってしまうかもしれない。
現代人からしてもわからなくない話だ。

世間から安全性を疑う声があがっていた記憶。
古代ローマの著述家たちも、壁や柱を奇怪な形で飾る者たちは非難されていたと記述していたが。彼らは、64年のローマ大火後に建設されたネロ帝の宮殿を主に、批判していたのだ。



その様式を模倣する作品が数多くつくられていき、grottesco は他のヨーロッパ諸国にも広まった。(これは15世紀や16世紀のこと、リバイバルしたグロテスクのことね)

当初、この言葉の使用は視覚芸術に限られていたが。後々、文学や一般的な現象に対しても用いられるようになっていった。
グロテスクという言葉がはじめて文学的に使われたのは、フランス人哲学者モンテーニュの『エセー』(1580年)の中でだった。
フランス語 essai は、試みや実験や判断力の試験を意味し。英語 essay は、筆者の体験や知識にもとづき思想を自由に述べる文学ジャンルを意味する。
モンテーニュ的グロテスクを考察したトーマス・マンは、それを「真の反ブルジョワ様式」と呼んだ。


過去回から関連箇所をもち出すのに、これでじゅうぶんなのだが。もう少し貼る。


ジョン・ドライデン(英国の詩人で劇作家。王政復古時代の英国は文学的にはドライデンの時代だった、とまで言われている)は、このように言っていた。
「低俗な種類の詩というのはある。絵画におけるグロテスクに相当する詩だ」

彼は王室のイメージを美化し、最高の国王のもとに団結する忠実な国民ーー的な概念を強化するような作品をつくっていた。
前回とのつながり感でも出してみようか。

ドライデンが『Annus Mirabilis』(驚異の年や奇跡の年。Annus horribilis なら、ひどい年や恐怖の年)という300以上の十音節四行連句を出したのは1667年で、ロンドン大火がありペストも大流行していたため、ぜんぜん horribilis の方な気がするが。
意味が伝わるだろうか。大御所先生が奇跡の年だって言ったら奇跡の年なんだよ!ってこと。
十音節四行連句で先に知られていたのは、別の英国人作家の『汝、自身を知れ』だ。ちょっと前々回ともつなげてみた。
ナチス時代にナチ党に忠誠を示したドイツの文学者で文学研究者のヴォルフガング・カイザーも、グロテスクを「不気味で恐怖を誘うもの」と定義した。
一方、ミハイル・バフチンは、民衆の笑いと再生をともなう「グロテスク・リアリズム」としてとらえ直した。


バフチンは「カーニバル」をこのように考察したりもした。
ある社会的/文化的状況で突如として起こり、既存の秩序を転倒させるような社会的な力。コミュニティーの通常のルールが一時的に適用されなくなり(それが祭りというもののエモさだよね)、既存の階層構造がうち破られて平準化される(初期の過去回で書いたけど日本の花見もそうだよ)。政府による統制が強化される総力戦は「カーニバル戦争」で最も起きやすい。
彼とこの過去回でガッツリとりあげたバタイユは似ているが、少し見解が違う。バフチンの方が、言うて俺たちは似たり寄ったりの場所へ集合してしまうのさ的なことを言っていると思う。私は2人とも好きだよ。
小ネタをはさみつつ、ヒトのサガを追ってみよう。
バーソロミュー祭に現れるようなものを、群衆は口を開けて見つめる。

バーソロミュー祭の夜かもう1つの大きな祭りの夜。
バーソロミュー・フェス:聖バーソロミュー修道院への資金援助をもとにはじまり、聖バーソロミュー祭あたりに開かれていた、ロンドンの有名な市。劇・楽器演奏・酒場・レスリング・賭博場・ゲーム場・見世物など、娯楽要素が増して派手になっていった。

この人どうしたの?なんで赤いの?
皮を剥がれる刑に処されて殉職した(と言われている)から。肩にかけてるの、ストールか何かだと思ったでしょう。皮膚だよ。
ミケランジェロの『最後の審判』にも彼はいる。自分の皮とナイフを持って。




1562年に製作された有名な彫刻は、皮のはがれた聖人をよりリアルに表現できていてすごい。

ちなみに。1850年頃には、ジョヴァンニ・ストラッツァのベールのシリーズに見られるように、職人技は大根のかつらむきですかというレベルに達する。


教会の美術は、重苦しい説教の間に人々の目を覚まさせておくために利用されていた。


喜悲劇作家らは虚の数々を用いて、あかぬけない田舎者からコヴェント・ガーデンの紳士までを楽しませていた。
また。良識のある人々もそこへおもむくかもしれないが、彼ら彼女らは野蛮人ではない自分たちに酔っている。



つまり。グロテスクは、太古から人間に内在する自然な傾向の結果である。まさに、それは洞窟からきたのだ。

18世紀初頭までに、風刺画や茶番劇と結びつくようになると。グロテスクという言葉は、ばかげているという意味あいももつように。このようなグロテスク観は約200年にわたって支配的な地位をしめた。
20世紀初頭、Art Nouveau(アール・ヌーヴォー)がグロテスクの要素を取入れると。圧倒的な美しさがそれを侵食した。


エミール・ガレは確実にその立役者の1人だ。


エミール・ガレ × アール・ヌーヴォー × ジャポニズムについて、書こうかと思ったが。画像もたくさん見せてくれる、アンティークに詳しい人から聞いた方がいい。
動画をお借りする。産業革命と職人たちのせめぎあいだけではなく、植物とのかねあいなんてものも語られていて。すばらしい構成だ。
いつかも書いたが。私は時々、わざとリサーチをしないという手段をとる。明確な答えを得るよりもずっと魅力的なものに誘惑されて。
自分の思考に深くダイブするのは最高にきもちいい。その時、水中はダーク・ブルーで静かでないといけない。キラキラからどんどん遠ざかっていきたい。普段は大好きな珊瑚礁やニモみたいなクラスメイトもいらないんだ。

サンゴ礁は海洋で最も種の多様性が高い生態系で、高い光合成生産と石灰化……この話をしはじめたら本線に戻ってこれなくなりそうだ。またいつかの機会に。
恋人どおしなどが仲違いをして叫ぶ Leave me alone は、真逆の意味であることも多いが。これだけは私の本気の Leave me alone だ。
生まれてからーーいや、生まれる前から。本当にひとりで生きていた日など1日たりともないのに。私はおかしなことを言っている。
グロテスクーーこの様式に内在する矛盾も、解き明かしたりする必要はない。
植物の曲線には規則性があるし、女性の曲線にも絶対的な「これが美だから」というのがあるのだろうが。




グロテスクという主題には多様性があって、それでいいのだ。曖昧であることなしに誘惑は成立し得ないし(主観)。
ある批評家が「絵画はついに、モダニズムにおける抽象と具象の分離という二日酔いから、解放された」と主張した。
露骨だったりヒステリックだったりと、多様な形態をとっていていい。それこそ、植物や動物や架空の生物が人間を包みこんでいた、古代の様式のように。決して説明的や教訓的ではなく、感傷的でさえなくてもいい。




グロテスクは、抽象と具象の間にある幻想を克服しているのだ。「くだらない超現象」だ。


非合理こそ合理であるとは思わないが。実際、混沌こそが現実である。
私の「グロテスクのススメ」が、少しでも伝わったらうれしい。


今まで書いてきたようなことを知らずに、たとえば、メディチ家のある女性のためにつくられたフィレンツェのボボリ庭園にある作品を見たら。キモいの一言で終わっているだろう。
実際、この作品↓はキモいよ。けれど、私は端的な感情しかもちあわせていないわけではない。そういう違いが百・千とくり返されれば。思考や価値観、からの行動や選択、人生全体に大きな差が生まれる。
一見、古典的なヴィーナス像が立っているのだが。彼女を下からながめる4体の人型像によって、それは、均衡のとれたルネサンス的形態とグロテスクのかけあわせになっている。

マスケローネ(イタリア語で大きな仮面や怪人面という意味)は建築の装飾だ。1文字間違えて maccherone と打ったら、これの画像が並んでいた。笑

16世紀の裕福な家族は、このような装飾を大層好んだ。



遊び心に焦点をあてているように見える。ルネサンス様式の厳格さに対する反発だったのかもしれない。
『悲嘆の門』を読み返したくなるような、有名なこれなどはグロテスクで。

これらはガーゴイル(雨樋)だが。

いずれも「グロテスクに」仕上げられている。
古いものが遺っているだけどなく、現代もグロテスクな装飾はつくり続けられている。

先述したボボリ庭園の噴水は、ジャン・ボローニャという彫刻家の作品だ。
彼は独自のマニエリスムを構築した・それは自然を凌駕する芸術的手法だった、と言われている。(マニエリスム:ルネサンス後期の美術でイタリアに見られる傾向をさす言葉。マンネリズムと語源が同じ)
ボローニャは、フィレンツェ郊外のプラトリーノ庭園(メディチ家の別荘の庭だった)に、アペニンの巨人像もつくった。

これは要するに、アペニン山脈の擬人化だ。

(現在は入れないようだが)巨人の裏から巨人の内部に入れて、人工の洞窟にはさまざまなしかけがある。

16世紀後半から17世紀初頭にかけてヨーロッパで活躍したサロモン・ド・コーズは、建築家・発明家・水力技師で、噴水・庭園・人工洞窟を数多く設計した。
彼はこの巨人像を見学したことがあるのだろう。以下、コーズの『Les Raisons des Forces Mouvantes』(動く力の理由)にある挿絵。




訪問者を楽しませるために洞窟などに設置された機械装置について、図解つきで多くのことが書かれている。それらはグロテスクなデザインだとも。
金持ちの道楽ばかりじゃんと思う人がいるかもしれない。こんなものをつくれた人が、より基礎的なものをつくれなかったと思うか。たとえばコーズの設計した消火ポンプは、火災時に大いに役立っていた。
グロテスクな庭園や人工洞窟は、大人から子供まで楽しめる遊び場だった。レジャー施設はくだらないものか?そんなことないでしょう。

ちなみに。彼の他の著作(日時計についてなど書かれたもの)に、興味深い一節がある。「あなたが私の奉仕に見あう以上の愛を私に抱いてくださっているという思いが、私があなたに負っている奉仕を果たそうと、コンパスと定規を手に取る理由となっています。ですから、閣下、この小さな作品をお受取りください。閣下が私にもっと大きな作品を依頼してくださるまで、この作品で私の義務を果たせるよう願っております」
営業をかけている。この本は、誰か権力と資金をもっている人に渡したものなのだろう。先立つものがないとね。

イタリア中部にあるボマルツォ庭園、通称「怪物公園」については動画をお借りする。
「招いた客に一度変な気持ちになってから、次にすばらしい庭を見てもらいたかったから、気持ち悪い部屋をつくった」斬新なおもてなしで笑う。「(近くの別の観光スポットにて)石けんを売っている。レモンの味と麻薬の味と」ガイドさんの日本語の間違いでさらにおもろい。
ルネサンスのウォーター・パラダイスと呼ばれるヴィラ・デステ(これもイタリア)には、鳥の群れをあしらった噴水などがあった。現存しているはかわからない。
水力を利用したしかけで。フクロウが目をそらしている間、小鳥たちは歌を歌った。フクロウがふり返ると、小鳥たちは歌うのをやめた。

宗教的な空間も装飾していたグロテスク。
施設の理念と一致するとは限らないモチーフたち、それらは異例の存在だった。
下品なユーモアを使用することで悪を追いはらおうとしたのではないか、とある学者は解釈している。
そんなことはどうでもいい。(主観)
打算と欲望うずまく大人の世界だよ、伝統的(にまでなれた)宗教は。愚考に見えるものを全てまんま愚考だと思うのは、術中にハマるのと大差ない。彼らの一部はわざとファンタジーを用いて、現実的に勢力を拡大した。

一般人にはもっと誇張しないと響かないだろ、こんな感じのストーリーなら大衆ウケするやろってね。
教会の建築様式が、教義と切り離された形で発展することが可能になるのは。ある宗教が、じゅうぶんに大きくなった・ついに一貫性をもてた・ゆとりをもてるほど安定した、その後だ。
(ライバルと差別化をはかる時にも、教義を逸脱するようなムーブを見せてきたが。それは、一時わざとそのように打ち出しているのであって。また別)
「奇妙な形態」は変容する力をもっているからね。こういうことは、考えてみるのによほど意味がある。



前段にイタリアの例ばかりがあげられていたのは、私のピックアップがかたよっていたからではない。イタリアにグロテスク様式が数多く存在するのは、当時、ヴェネツィアの教会はより確立されていたからだ。
また。偶像崇拝がかたく禁じられている宗教と、具象芸術(具体的な人や物が出てくる)の相性が悪いのは、少し考えれば誰もが気づくことだろう。そんな時も、抽象美術の出番だ。

1600年代にフランスの貴婦人たちが体験していた、水遊び。その詳細な記録が残っているため、紹介する。
暗い洞窟を出て気をぬいていた私たちに向かって、突然どこからか水が噴き出した。1人のご婦人がびっくりして転んで、他のご婦人がたがその上に重なった。服も仮面も泥だらけになっていて、彼女らはこの世で一番こっけいなほど混乱していたが。その後、大笑いしていた。私も笑った。私はこの事故をユーモアとして受け止め、その晩は疲れてぐっすりと眠った。
いいね。遠い昔 × 赤の他人 × 1日でも、確実に誰かが幸せだったことを知るの、好きだ。

マネキンみたいな絵では材料に欠ける。


「女に友人はいない」の部分を出したくて貼った。女性が複数集まって雑談をするとか、交流の機会さえ乏しければ。そりゃあ、そんなふうに見える人も出てくるだろうよ。これは、事情わかってあげなよというイヤミだ。古代のすばらしい学者も中世のすばらしい学者も、本当にすばらしいのに本当にバカみたいだ。

あえて、「奇妙なグロテスク」について書く。
人間は、未知なるものを恐れるようにできている。未知が危険に直結していた時代に根ざして。
理解できぬものは予測できず、予測できぬものは制御できないからな。
産業革命の時代、機械は嫌われたかもしれない。人間と機械の違いについての疑問・人類が機械にとって代わられるのではないかという恐怖などが生じている、現代では。そういう感覚はさらに増しているかもしれない。
これはコンピューターがつくったマシーンだ。馴染みのある物に似せて次の新しい物を設計する傾向のある私たちには、つくれないようなものだ。

童心にかえるようなニュアンスをもった言葉だったグロテスクが、より何か不気味なものを連想させる言葉へと変化していったことは、これらと無関係ではないのかもしれない。
移民や難民の増加にいらだち、利己的で排他的なムードに傾く民衆。そうした負の感情をあおることで、権力を強固なものにしようとする政治家たち。
世界の多くが今直面しているのは、デモスのゆがみとクラティアのゆがみの複合危機だ。
(デモクラシーの語源はギリシャ語の demokratia だ。民衆を意味する demos と、権力を意味する kratia を結合した言葉)
ネットでレスバとか、混沌をそんなふうにしかあつかえない人には、グロさもエロさもない。端からそれを笑う阿呆にもなりたくない。(米津さんの歌詞ね)
別に、個別具体的な事例を叫ばなくたって。わかっている。はじめからおわりまでみんなに苦悩があること。
全ての男性と女性の集合的無意識は、深い傷を負っている。
私たちの感情は、そもそもアンビバレントなものだ。
仮面の下に隠された弱さや脆さ。
グロテスクな表現は、一種の暴露の儀式のように機能しているのかもしれない。私たちはグロテスクを通して = 不協和音や疎外感を通じて、ある種の浄化を求めているのかもしれない。
疎外感の中に調和を垣間見て、不協和音の中にカタルシスを見出しているのかもしれない。


ドイツ語で「不気味な」。
フランシス・ベーコンの、人間性に対する哲学的な姿勢について。

フランシス・ベーコン
1945年以降のベーコンの作品は、神なしでは人は衝動に獣のように支配されるーーという彼の理念を反映していた。

(1945年)
彼の最も有名な絵画の1つは、叫ぶ教皇シリーズ(約50点)の、『ベラスケスの教皇インノケンティウス10世の肖像にもとづく習作』だ。
先に、ベラスケスの話をする。
ディエゴ・ベラスケスは17世紀スペインの宮廷画家だ。その卓越した技術で、画家の中の画家と称されていた。

スペイン語で「女官たち」というタイトルだが、この絵の主役は絵の光景を見ている人たちだ。私たち?そういうねらいもあると思う。だが、実際にこれを見ていたのは国王夫妻だ。

2人は胸をはって、やや顎をあげていたようだ。描き手はその目線が高めであることをも考慮したのだ。
奥の鏡に映っているのは実際の国王夫妻ではなく、ベラスケスが描いている最中の絵なのではないか、とも言われている。
すると、真の主人公は作者か。カッコよ。ベラスケスの最高傑作・自意識過剰で計算し尽くされた絵・イーゼル画による示威行動などと言われるわけだ。
フェリペ4世がベラスケスに与えたアトリエで、本作は描かれた。王はひんぱんにアトリエをおとずれ、椅子に座って彼が絵を描くのをながめていたと言う。

ちなみに。バルボラは王宮で働いていた軟骨無形成症の人だ。ペルトサートが犬に足を乗せていることを非難したら、この犬は絵の中からでもあなたにうなるだろう。子犬の頃に彼に命を救われて以来、大切に飼われていたそうだから。
ピカソはこの作品を観るために、何度もプラド美術館へ足を運び。彼なりの「ラス・メニーナス」を60枚近く描いた。

そんなベラスケスの保守的な教皇の肖像画をとりあげ、ベーコンは全く新しい文脈を付与した。

カーテンと呼ばれたりもするこの描写は、たしかに、何かが隠されているような感覚を私たちに与える。誰なのかわからないほど顔全体は隠されているし、目も隠されているが。口だけは例外だ。椅子は、六角形の囲いの一部のようになっており。自発的にそこに座っているのではなく、縛りつけられているように見える。
そうして、この、檻に入れられている人が叫び声をあげているような絵が生まれている。
彼は、権力者の不安をあらわにしようとしたのだ。大きく開けた口で人間の体内とまわりの空間とをつなごうとした、とも言われている。
ベーコンの作品は何重にもグロテスクなのだ。
これまでもこの絵をグロテスクだと思っていただろうが。グロテスクについて深く知った今、どうグロテスクなのか、何通りかで言葉にできるようになっていると思う。

これはきっと、ベーコンのオマージュだよね。

ステキな楽曲にケチをつける気は誓ってないが。消してリライトして?Rewrite とは大幅に書き直すことだ。先人たちの生きた証、今までに自分が関わった人たち、消すことなどできないし消す必要などない。
私たちはみんなつながっているのだから。
本当にディスる気など全くない。私には逆立ちしたって詩など書けないし。この道具たちを目の前におかれても、私にはメロディーなど一切奏でられない。聞かせてくれてありがたい。

レンブラントが自分の未完の作品について言っていたように。「真の核心はすでにそこにある」のかもしれない。だから、焼き増しだとしたって、全バージョンがすばらしいんだよ。
ラスト。
グロテスクなものは、今や、デジタル文化の中で隆盛を極めている。かつての石の代わりをビットと粒子が担っている。
ミハエル・ハンスマイヤー氏は、アルゴリズム建築技術・ジェネレーティブアートの考え方・CADソフトウェアを用いて複雑な構造物を生成する、ポストモダン建築家だ。
彼は、人工物と自然物の間に存在する洞窟という概念を探求していると言う。アルゴリズムを活用することで、アーティストらは、自然界に匹敵するほどの複雑さをもつ構造物を生み出すことができるとも。
選択的再分割アルゴリズム(局所的に高精度に領域を再分割する)を使用して、イスラム建築装飾のムカルナスを計画生成した『Muqarna Mutation』は、ハンスマイヤー氏の作品だ。

永遠に続くかのようなパターンは見る者に感覚の過負荷を起こさせ、方向感覚をまひさせるらしい。
装飾的持ち送り構造としてはじまり、ドーム全体を飾るようになったムカルナス。


コンピューターを使うと、これら伝統的デザインに含まれる数百個のタイルと同じレベルで、数百万個の小さなタイルを作成することができるのだ。


BMWアート・クラブで開催されたデジタル・グロテスク展にて、鑑賞者らは、絶えず変化する形態の生成過程を見ることができた。
これは、3Dプリンターで砂から装飾的な柱がつくられる様子。
デジタル・グロテスクも人工と自然の間で模索されているということは、それもまた、混沌と混沌の間をさまよっているということだが。
それがグロテスクの真髄なのだから大正解だ。

キャンベル氏は比較神話学と比較宗教学に長けた学者で、彼のモットーは Follow your bliss(至福を追え・至福に従え)だ。
消したのが2~3個はあるため、ぴったり200ではないし。そのつもりで(200回記念として特別な気持ちで)書いてもいなかったけれど。これが200回めらしい。いつもありがとう。
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