
優秀だったあの人は、なぜ「戸籍」を売り飛ばして消えたのか
真面目で優秀だったあの人が社会から消えたのは、借金のせいでも悪意のせいでもなく、ただ「誰にも弱音を吐けない夜」に耐えられなかったからだ。
人はどこまで孤独をこじらせると、自分の人生を売り飛ばしてしまうのだろうか。
今日もスナックゆきで、一杯だけ頼んだ。
オクトモアの16.1にした。
ブルックラディ蒸留所が生み出す、「世界最強のピート香」を誇るカルト的なウイスキー。 グラスを口元に近づけただけで、底なしの黒い煙と、舌を刺すような灰の香りが立ち上る。
一口含むと、圧倒的なアルコールの熱量と濃厚なスモーキーさが喉を焼き尽くし、奥底に冷たい潮風のような塩気が残る。
人が一度落ちたら二度と戻れない、底知れぬ深淵をそのままグラスに注ぎ込んだような酒。 胸の奥にぽっかりと開いた冷たい穴を、アルコールの熱さで無理やり塞ぐような一杯だと思う。

「あんた、今夜は一段と顔色が悪いわね。何かあった?」
グラスの丸氷を指先で回しながら、ゆきママが静かに声をかけてきた。
「いえ。昔、会社をやっていた頃によく仕事を頼んでいた、フリーライターの噂を聞いてしまって」
かつて私の周りにいたその人は、非常に優秀でプロ意識の高い女性だった。 どんな急ぎの案件でも嫌な顔ひとつせず引き受けてくれ、誤字脱字ひとつなく正確に、読者目線で質の高い記事を仕上げてくれる。クライアントからの信頼も絶大だった。
だが、ある時期を境に、彼女の様子が少しずつ変わり始めた。
打ち合わせもかねて食事をしたとき、「最近彼氏ができて順調なんです」と、照れくさそうに笑っていたのを覚えている。 それまでの地味で真面目な装いから一変して服装が華やかになり、机の上には身の丈に合わないハイブランドのバッグが置かれるようになっていた。
恋人ができて毎日が充実しているのなら良いことだと、当時の私は無邪気に思っていたのだ。
だが、歯車はそこから狂っていった。

いつの日だったか、普段の支払い期日より前に彼女から電話があり、「申し訳ないが、今月の原稿料を前倒しで振り込んでもらえないか」と頼まれた。
さらにその翌月には、「口座が一時的に使えなくなったので、現金の手渡しかPayPayで受け取ることは可能か」と、焦った声で連絡が入った。
おかしい、と胸騒ぎがした。 だが当時の私は、自分の事業のことで頭がいっぱいで、とても人の面倒事を引き受ける余裕などなかった。
「フリーランスの私生活に深入りするのは野暮だ」と自分に都合のいい言い訳をして、踏み込んだ確認を避けてしまったのだ。
そしてその後、彼女とはプツリと連絡が取れなくなってしまった。
そのすべての顛末を、先週末、当時の共通の仕事仲間から聞かされた。 背筋が凍りつくような転落の記録だった。
始まりは、激務と孤独を埋めるための「レンタル彼氏」だったという。 締め切りに追われ、誰とも会話のない部屋で夜を明かす日々に耐えかね、月に一度、話し相手を頼んだのがきっかけだった。
「この人は私の仕事を本当に理解してくれている」
「これはお金の関係じゃない。本物の愛だ」
思い込むのに時間はかからなかった。利用頻度は跳ね上がり、休日の長時間拘束や高額なオプションで、月に数十万が消えていった。
貯金が底をつき、カードの枠が埋まっても、優秀なクリエイターとしてのプライドが邪魔をして、親や友人には一言も助けを求められない。 やがてネットで見つけた甘い言葉に誘われ、自分の名義の銀行口座を数十万円で売り渡してしまった。
その口座が詐欺グループに使われ、彼女名義のすべての口座が凍結された。 生活のライフラインを完全に断たれ、追い詰められた彼女が最後に手を出したのは、ブローカーを介した「戸籍(偽装結婚の名義貸し)」の売買だったという。
数百万円の現金と引き換えに身分証一式を売り払い、彼女はそのまま、街から跡形もなく消息を絶った。

「その話を聞いたとき、私、ゾッとしたんです」
私はオクトモアを喉に流し込みながら、震える声でママに言った。
「なんて馬鹿なことをしたんだ、なんて少しも思えなかった。彼女を闇に追いやったのは孤独かもしれないけれど、最後のSOSを見過ごしたのは、私の保身だったのかもしれない。
それに……休日の夜、ワンルームで誰とも喋らずに天井を見つめているとき、私の胸の奥にも、彼女と同じ『底の抜けた孤独』が口を開けているのを感じるからです。
もし私がもっと追い詰められて、誰にも助けを求められなくなったら……同じようにその暗闇に落ちていかないと、どうしても言い切れないんです」
私は自分の無様な怯えと後悔を隠すこともできず、ただカウンターの上に視線を落とした。
いつものように「あんたの自意識過剰よ」と笑い飛ばされるか、「情けないこと言ってんじゃないわよ」と叱られるかと思っていた。
だが、ママは何も言わず、静かにオクトモアのボトルを傾け、私のグラスに黒ずんだ琥珀色の液体を少しだけ足した。
氷がカランと、低く澄んだ音を立てる。
「……怖がれるうちは、まだ大丈夫よ」
ママの静かな声が、店内に染み渡るように響いた。
「本当にその穴に落ちちゃうのはね、自分だけは絶対に大丈夫だって、分厚い見栄を最後まで脱げなかった人間よ。
寂しいのも、怖いのも、全部生きてる人間の当たり前の弱さじゃない。それを誰にも見せられないまま意地を張るから、偽物のぬくもりに人生ごと持っていかれるの」
ママはカウンター越しに私の顔をまっすぐに見つめ、小さく微笑んだ。
「あんたはここで、ちゃんと『怖い』って言えたんだから。今夜はそれで十分よ」
オクトモアの濃厚な煙と塩気が、胸の奥の冷たい穴にじんわりと染み込んでいく。

その通りだ。 保身のために見て見ぬふりをしたり、孤独から逃げるために見栄を張り続けていても、胸の穴は絶対に埋まらない。
求めなければいけないのは、お金で買える都合のいい温もりではない。 自分の無様さや寂しさを誤魔化さず、この痛みを抱えたまま、泥臭く人と向き合って生きていくことなのだ。
彼女は今、何を考え、どこで夜を越しているのだろう。
グラスが空いた。
今日はここまでにする。
【今夜の1杯】オクトモア 16.1(シングルモルト・スコッチ)
世界最強のピート香を誇る、アイラ島の深淵。 底知れぬ孤独の暗闇に足がすくむ夜、自分の弱さと生々しく向き合うための一杯。
【今夜のカウンター席のあなたへ】
「ふと寂しくなった夜、あなたの『駆け込み寺(逃げ場)』は何ですか? (アイス、深夜の動画、お風呂、寝るなど、単語ひとつでも気軽に置いていってください)」
【スナックゆき 自主出版プロジェクト】
・目標:フォロワー1,000人達成で自費印刷
・現在のフォロワー:810人 / 1,000人(あと190人)
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