
第3話|本性が見えた頃には、もう引き返せなかった。
ドン、という音で、心臓が跳ねた。
私の目の前で、椅子が音をたてて倒れたのです。
彼が思いきり蹴った椅子が。
発端は、その日の職場での出来事でした。
同じ職場に勤めていた私たちは、その関係を周囲には明かしていませんでした。
職場にいるときは、普通の先輩後輩という関係。
仕事なので、当然ほかの社員と会話をしたり、コミュニケーションをとる場面はあります。
しかし、彼には私がほかの男性社員と接している光景が、許せなかったようで。
決して度を越した接し方はしていない。
ボディタッチがあったわけでもない。
ただ、話しかけられたから、それに答え、ほんの1分ぐらい談笑していた、
本当にそんな状況でした。
もちろん、私には彼を怒らせた自覚など、まったくありませんでした。
だから、家に帰ってから彼の顔色の変化に気づいたとき、
正直何に対して怒っているのか、理解することができませんでした。
「お前、あいつのこと好きなの?」
「なんであんなベタベタしてんの?」
「気持ち悪いんだよ」
彼は、職場で私がほかの男性社員と話していたことを、
強い口調で責めてきました。
突然のことで、言葉を失った私。
喉が詰まって、何も言えない。
なんて返したらいいか分からない。
何かが震える感覚が、全身に走りました。
「…ごめんね。ただ話しかけられたから少し会話してただけだよ。
別に大したことは話してないよ…」
その瞬間、目の前にあった椅子を思いきり蹴飛ばした彼。
彼の顔は少し赤く、怒りの感情で溢れていました。
「ほかの奴とベタベタしたいならもう俺たち終わろう」
「まじでお前気持ち悪い。無理。」
怒鳴るわけでもなく、低くて冷たいトーンで飛んでくる言葉の数々。
それらは、私の胸に強く強く突き刺さりました。
自然と涙が溢れ、頬をつたいました。
冷たくて、虚しい涙。
彼に泣かされたのは、これが初めてでした。
彼はイライラした様子のまま、お風呂へ。
私は胸を押さえながら、呼吸を整えるのに必死でした。
どうしよう…。どうすればいいの…?
数分が経ち、お風呂から出てきた彼は、さっきとはまったく違う表情でした。
いつも通りの、普通の彼。怒ってない。
頭の中が混乱状態の私を、彼は抱きしめてきました。
「なち、ごめんね。」
「俺、なちが大好きすぎるんだよ。」
私の心はぐちゃぐちゃになり、理由の分からない涙が大量に溢れ出しました。
「強く怒ってごめんね。」
「大好きすぎて強く言っちゃたの、俺の気持ち分かって」
「ずっと一緒にいるから、もう泣かないで」
さっきとはまったく違う彼が、いま目の前にいる。
あんなに怖かったのに、優しい。
優しいのに、怖い。
このときはもう、引き返せない場所まで、来てしまっていました。
同棲して生活を共にしているこの状況。
情。そして怖さ。
簡単に引き返せる段階は、もうとっくに過ぎ去っていました。
私は、本当はこの時点で気づいていたんだと思います。
彼の本性に。そして、このまま関係を続けてはいけないということに。
でも、それを認めてしまったら、すべてが壊れてしまう気がして、
見ないふりをしました。
そしてその数週間後、彼の手が、初めて私に向けられました。
次の話↓
完結済み連載はこちら↓
最初から読みたい方はこちら↓