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経験的に意味ある現世の起源神話、その雛形〜分離と結合の分節、時間・空間の分節、周期性と非周期性の分節 -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(108_『神話論理4 裸の人』-5)

    クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を”創造的”に濫読する試みの第108回目です。『神話論理4 裸の人1』の第一部「家族の秘密」を読みます。

    前回の記事はこちらです。

    これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。

    経験的な区別が概念の道具となる

    レヴィ=ストロース氏は大部の『神話論理』の第1巻の冒頭に次のように書いている。

    「生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせて命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」

    クロード・レヴィ=ストロース『神話論理1 生のものと火を通したもの』p.5

    経験的感覚的な区別(分別)を概念の道具として、観念を抽出するとは、いったい、どういうことだろうか?

    仮に図1に示す「Δ」を最小で二つ、つないだもの(Δ1=Δ2)をひとつひとつの「観念」だと思っていただこう。図1のΔ1〜Δ4は私たち人間にとって経験的で感覚的な区別・分別される項である。例えば、

    Δ1 寒い / Δ4 寒くない
    ||       ||
    Δ2 わるい / Δ3 わるくない

    といった具合になる。

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    私たちひとりひとりにとっての意味ある世界の起源

    私たち人類にとっての「意味ある」経験的世界とは、このような二項対立関係の重なり合いからなる四項関係を意味分節の最小構成単位として織り上げられている。

    人類は「経験的区別」を実行する機械のような仕組みとしてできている。

    Δ自 / 他Δ
    Δ生 / 死Δ
    Δ好き / 嫌いΔ
    Δ因 / 果Δ
    Δある / ないΔ
    Δうまい / まずいΔ
    Δ高い / 安いΔ
    Δ遠い / 近いΔ
    Δ内 / 外Δ

    特に経験的な区別を区切り出す上で決定的なのは、次の対立である。

    区別があること / 区別がないこと
    分節 / 無分節
    分かれてあること / 分かれていないこと
    分離している / 結合している
    一である / 多である
    同じである / 異なっている
    区別すること / 区別しないこと
    分離すること / 結合すること

    そして、これらの対立する両極の間の転換を引き起こす、二種類の動きの対立。すなわち、

    結合状態を分離状態に転じる動き / 分離状態を結合状態に転じる動き

    この対立である。この二つの動きを分けつつつなぐ、分離しつつも結合したまま動かす動きこそが、私たち人類ひとりひとりにとっての経験的に意味ある世界が生成してくるプロセスのもっとも基本的なアルゴリズムであると考えられる。

    マンダラ

    そしてこの分離と結合を転換する、分離状態と結合状態のあいだで伸縮する動きが定常化して、二項対立関係の対立関係が浮かび上がってきた状態こそが「マンダラ」として図式化できるモードなのである。

    例えば弘法大師空海は『吽字義』で、

    • 因 / 果

    • 有 / 無

    • 損減 / 増益(生/滅)

    • 我 / 非我

    という四つの分別・二項対立と、

    • 因/果を分けるでもなくわけないでもない

    • 有/無を分けるでもなく分けないでもない

    • 損減/増益(生/滅)を分けるでもなく分けないでもない

    • 我/非我を分けるでもなく分けないでもない

    という四つの分けるでもなく分けないでもない分別無分別どちらか不可得なモードとを二重化した心のモデルを示している。

    およそ人間が分別(分けて、選んで、こだわろうと)して、しかしこだわりを貫徹することができずに苦しむ(選んで結合しようとしたものと分離されてしまう、分離しようとしたものと結合されてしまう、ということで人は苦しみ、迷うのである)、この苦しみから抜け出すために、仏教はここでいう四つの不可得、分けるでもなく分けないでもない、つまり「空」ということを覚るべしと教えるのである。

    転識得智

    仏教では、覚りの境地、無上正等覚を得るということを次のようにモデル化する。すなわち、分けて、選んで、拘って止むことのない人間の表層の分別心を分けるでもなく分けないでもなく、選ぶでもなく選ばないでもなく、というモードに変容させることで、人間が人間のまま、人間道にいながらにしてその深層に隠れた如来となるための種を活かすことができる。特に密教ではこの分けるでもなく分けないでもなく、選ぶでもなく選ばないでもないモードに転換された心のあり方を「マンダラ」状のモデルとして説く。

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    ここで、人間の分けて、選んで、拘る分別心というものを、ユングが論じる意識の四機能に重ね合わせて考えてみるとおもしろい。

    ユングは人間の意識の機能を「感覚」「思考」「感情」「直観」の四つに整理する。

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    • 「思考」:なにであるか/なにでないか、を分別

    • 「感覚」:ある/ない、を分別

    • 「感情」:好き/嫌い、を分別

    • 「直観」:現れてくる/消えていく、を分別

    この四つの機能がバランスよく、つかずはなれずに連動すると、私たち人類の精神(心)は大いに安定した調和のとれた状態になる。四つの心的機能間の「距離」が遠く離れすぎたり、また過度に近づきすぎてある機能が対立する別の機能を飲み込んでしまったりすると、四機能の調和は達成できない。
    この調和のとれた心の状態を目指すことを、意識の表層に教えるのが「マンダラ夢」である。

    この四機能は、仏教の唯識思想における八識と、興味深い対応関係を示す。

    • 「前五識」(眼・耳・鼻・舌・身)|「感覚」:ある/ない、を分別

    • 「第六意識」|「思考」:なにであるか/なにでないか、を分別

    • 「第七末那識」|「感情」:好き/嫌い、を分別

    • 「第八阿頼耶識」|「直観」:現れてくる/消えていく、を分別

    多くの場合、人間が人間である以上、こうした分別でもって「分けて」、そして分けられた選択肢のうちのどちらかを選び、他を選ばないようにし、そして選んだものにこだわろうとする、という具合に人の心は動く。その上で、せっかく分けて選んで拘って、つまりずっと結合していたいと願っているのに、しかしそうもいかずに分離してゆくことに悲しみ、苦しむのであるし、同じようにせっかく分けて、選ばないと決めて分離したはずのものが向こうから結合してきてしまって、恐ろしくなったり逃げようにも逃げられないことに苦しむ。およそ人間的な苦しみとはそのようなあり方(分離したいものと結合したいものを分けたのに、分離したいものの方が結合してくるし、結合したいものの方が分離していく)をしている。

    この苦しみから脱するために、分けて、選んで、拘っている、そのような心の使い方をモードチェンジする、というのが仏教の要訣である。すなわち、二辺を離れるでもなく離れないでもない、というモードへの分別識の転換である。

    そもそも分けて、選んで、拘っているのは、心の表層の固着した様相である。心の表層の直下にひろがる深層では、心は、分けるでもなく分けないでもなく、選ぶでもなく選ばないでもなく、拘るでもなく拘らないでもなく、という具合に、ありとあらゆる二元的二項対立関係の両極を分離しつつ結合し結合しつつも分離するという伸縮自在なあり方をしている。
    この伸縮自在なこころの深みの動き、述語的様相を、心の表面の直下にまで浮かび上がらせることができれば・・・。私たちの心はおのずから、分けて選んで拘ったところへ固着しようにもできないという苦しみから解かれることになる。

    *

    神話や夢こそ、この心の深みの分離と結合の自在な伸縮が、記憶されたイメージのストックを振動させて心の表層の一番下に描き出した影なのである。神話は、仏教が色即是空空即是色、一切皆空といった言葉で解こうとしたのと同じことを、別の言葉で、別の述語と主語で為さんとしているのである。
    夢や神話の語りに現れた心の深層の動きを観察することは、分別する八識を絶対無分節の「智」へと変容する「転識得智」の行に(知らず知らずのうちに)なる。

    • 前五識 → 成所作智 に転じて:「ある/ない」を分けつつも、その分別を固着しないモードへ

    • 第六意識 → 妙観察智 に転じて:「なにである/なにでない」を分けつつも、選ばず拘らないモードへ

    • 第七末那識 → 平等性智 に転じて:「好き/嫌い」(自と結合すべき/分離すべき)を分けつつも、固着しないモードへ

    • 第八阿頼耶識 → 大円鏡智 に転じて:「現れる/消える」を分けつつも、どちらか片方にこだわることのないモードへ

    この神話と仏教、一見するとまったく別の叡智にみえるもの同士に共通するアルゴリズムをモデル化しようとするときに、役にたつのが「マンダラ」である。

    + +

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    マンダラは分別を緩め、絶対無分節が分節するでもなくしないでもないゆらぎのモードに転換された「心」(三昧耶モードに励起された「心」)の象徴である。

    マンダラ

    この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の「神話の論理」、私たちの野生の思考が半分無意識のうちに“経験的感覚的な区別を概念の道具として観念を抽出する”プロセスを、動的に伸縮する「マンダラ」としてモデル化すべく試行している。

    マンダラとは、図像にすると、次のような形をしたものである。

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    再掲:図1

    マンダラは、円と正方形を組み合わせた姿をしている。正方形ゆえにおのずから四項・四極が際立ち、その四項の中間に配される中間項四つが浮かび上がり、合わせた八項関係を描く。

    図1で「Δ」と表記したものは、あるとかないとか、内とか外とか、入れるとか出すといった、経験的感覚的に対立関係を組む項である。例えば「自/他」「有/無」「内/外」「遠/近」「中身/容器」など、私たちにとっての日常的に意味ある世界を意味分節することを可能にしている二項対立関係の項である。

    一方、図で「β」と表記したものが、神話の語りのなかで、経験的に対立する二極のあいだを行ったり来たりしながら、繋いだり分けたりするように動き回るものであり、「両義的媒介項」と呼ばれるものである。βは、経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をする。

    両義的媒介項

    両義的媒介項(β)は神話では、「火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間」「服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガー」「ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月」「下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間」、といった姿をしている。

    こうしたものたちは、経験的感覚的には(Δ項としては)「存在しない」が、神話はこの経験的に何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。

    そのために、まず分別/無分別の区別を区切り出すところから始める。

    分かれているとも分かれていないとも言えないところからはじめて、結合しているところが分離に転じ、分離しているところが結合に転じ、という分離状態と結合状態の間で伸縮する動きを考える。

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    神話の語りの五つの相 ——βたちの伸縮運動

    神話の語りは、しばしば次の五つの相をたどる。

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    1) ぎゅっと集まる: 語りの冒頭、両義的媒介項たちが一点に集合した状態から始まる。

    2)〜3) 激しく伸縮する: βたちのうちの二項が、任意の軸上でながーく伸びたり、縮んだり、第二の軸上でも同様に伸縮する。

    4) 付かず離れずに均衡する: なにかのはずみで、βたちが四方に引っ張り出され、β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力とがバランスする。ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。

    5) Δが浮かび上がる: そうしてβ項同士の「あいだ」に、四つの領域、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが、持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。

    「/」と「||」は同じ動きの二つの異なる様相である(真逆に対立する熟語のペア)。「/」は伸縮の「伸」の方に、「||」は伸縮の「縮」の方に対応する。

    この分離を結合に転じたり、結合を分離に転じたりする動きは直接的には分けたり繋いだりする述語によって表現されるものであるが、この述語に乗っかる主語もまた、言語においては必要となる。その主語の役割を担うのが、両義的媒介項βたちなのである。

    例えば、神話では、人間/動物、獲物/狩猟者といった経験的には真逆に対立するはずのΔ二項を短絡することで、どちらがどちらかわからない状態をあえて語り出す。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといった凄まじい話もこれである。こうして経験的に対立する両極の間で激しく振幅を描くものを、両義的媒介項(β)という。

    「分けるから分かれる」 ——意味分節の起源

    空間的な距離、「遠/近」など、人間が言語的に分節しようがしまいが、厳然とそれ自体としておのずから存在することだろうと思われるかもしれないが、神話の思考はそのようには考えない。遠/近、有/無、生/死、時間の分節も空間の分節も、「ある」と「ない」も、人間が分別するあらゆることは、分けるから分かれるのであり、分けなければ分かれない。

    このようにして神話は、両義的媒介項どうしが分離したり結合したりする動き(伸縮する動き)を用いて、ありとあらゆる我々人類にとっての経験的で感覚的な世界の意味分節・存在分節を可能にする二項対立関係を、(両極を結合したまま分離し分離したまま結合するようにして)区切り出していく。

    起源神話 —区別があること、それ自体の起源

    神話は、人類が現に経験している、自分自身にとって「意味ある世界」を支えている意味分節・存在分節の体系の起源を、由来を、思考しようとする。

    例えば、野生の思考が「人間」の起源を思考しようとすると、それは「人間」と「非-人間」がもともと区別されていなかったところから、区別されるようになるに至る経緯を上述の分離と結合の伸縮に即して語る、ということになる。「人間」に限らず、ありとあらゆる経験的感覚的に「他ではないそれ」として存在するものについて、それとそれ以外との区別のはじまりをどう語るかが神話の思考の関心事になる。

    A  /  非-A

    こうなると、意味ある経験的世界の起源を語る神話の思考を突き詰めていくと、いずれ必ず区別があるということ、それ自体の起源を問うことになる。分節/無分節、分離/結合、一/多、同/異 —— これらは言い換え可能な対立であり、突き詰めれば「区別があること/区別がないこと」へと収斂する。

    そしてこの区別が、神話では、

    結合状態を分離状態に転じる動き / 分離状態を結合状態に転じる動き

    という、真逆に対立する動きのペアとして表現されることになる。

    神話の語りを分析する

    私たち人類の意識は、この伸縮の結果として浮かび上がるΔたち、その主語的なあり方(「それが何であるか」)に目を奪われがちであるが、実はこれら主語的なものたちは、あくまでも引き離したり近づけたりする動き、動詞、述語のあとに、はじめてその姿が浮かび上がってくる、動きの痕跡である。

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    主語的なものが世界の始まりのポイントにあらかじめ設置されているわけではなく、グニャグニャと伸縮する波(述語)が重なり合い、共鳴しながらマンダラ状の波紋のようなものを浮かび上がらせる時に、その図のある部分、ある領域が、仮に主語の役割を課せられている。

    神話の論理に通達することは、私たちが自分自身を含む世界を意味あるものとして経験することを可能にしている意味分節のパターンが、さまざまな様相で生成したり消滅したりする様を観察することを可能にし、またそうした分節のやり方を相当程度自覚的に組み立てることをも可能にするのである。

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    この分離と結合の伸縮が、前回の記事で取り上げた『神話論理4 裸の人1』pp46-51に掲載された神話「M538 アイシシュの武勲詩」では、人間と鳥たち、そして昆虫たちからなる家族の五世代にわたるインセストと愛/憎、食いあいという様相で描かれた。レヴィ=ストロース氏は「M538 アイシシュの武勲詩」が「三回の連続的なインセスト」を繰り返す、「周期的な構造」で動いていることを指摘する(p.52)。

    • 第一のインセストは「結婚して遠くに住む女と、家に留まっている彼女の弟のあいだの成就しない」関係である。

    • 第二のインセストは「兄弟と彼に貼りついて成長した姉妹のあいだの完遂したインセスト」である。

    • 第三のインセストは「 義理の父と、ある意味では彼に貼りついて生まれた息子の妻とのあいだのもの」である。

    そしてレヴィ=ストロース氏は「二組の近親者は、結合と分離を交互に被る」と書く。

    「二組の近親者は、結合と分離を交互に被る。兄弟と姉妹は彼らをたがいに貼りつけている樹脂によって結合し、彼らを切り離す矢によって分離する。母と息子は(いっしょに死なんとする瞬間に)火によって結合し、造化の神の木槌によって分離する。父と息子は父がみずから息子を身ごもるときに結合し、反対に息子の妻と快楽を味わうために息子を取り除こうとしたときに分離する。分離させる矢は、樹脂と反対の機能を果たす。それは上から下に落ちることによって双子を切り離す。しかし、下から上に打ち上げられるとき、クイナの上に上から下に流れ落ちた樹脂が果たすのと同じ役割を、太陽に対して矢は果たす。なぜなら、どちらの場合にも、犠牲者の顔の上に黒い印が残るからである。クイナの場合、その印は空と大地がタールによって一時的に結合されたことを証明している。太陽の場合にはその印は、樹脂によってひとつの存在へと繋げられていたにもかかわらず、兄弟と姉妹が切り離されたことを証拠だてている。」

    クロード・レヴィ=ストロース『神話論理4 裸の人1』p.53

    ここでレヴィ=ストロース氏は、この神話の分離する動きと結合する動き、分離を結合に転じ、結合を分離に転じようと、経験的感覚的に対立する二極のあいだの距離を遠ざけたり近づけたり伸縮する述語的様相を一挙に捉えている。

    ここで特に、レヴィ=ストロース氏は、この分離と結合の伸縮から浮かび上がる「体系」が、「二重に対照的な意味論的機能、すなわち、結合/分離および垂直軸/水平軸によって限定されているのである」と書いている。

    結合/分離

    垂直軸/水平軸

    分離と結合(非-分離)とを分離すること、そして垂直方向と水平方向、つまり経験的な空間の感覚を分別すること。この二つの分節、分別は、人間にとって経験的に意味ある現実の世界が「ある」(ないではなくある)ということにして言葉を紡いでいく上で、最初に設定しておく必要のある対立関係のうちの二つである。

    時間や空間は、人間による意味分節の産物などではなく、それ自体として客観的に存在する自明な自然であると、現代人はついつい無自覚に措定しがちだが、しかし時間と空間こそ、人間に特有の身体・感覚、仏教で言えば八識の多重化された分節システムが作り出す意味分節体系である。

    そうであるからして、このインセストを反復にはじまる分離と結合の過度な伸縮を適度な付かず離れずに均衡させる神話が、天/地の区別・対立の設立という基本的な分節を引き開き、太陽と月の起源という朝から夜への1日の時間の分節システムを均衡させるに至る、時間と空間の起源神話になるのである。

    レヴィ=ストロース氏は「クムカムチュが太陽を、彼の息子アイシシュが月を意味する」ことを指摘する(クロード・レヴィ=ストロース『神話論理4 裸の人1』p.43)

    「太陽と月は世代を異にせず兄と弟であり、ときには馬鹿げた冒険に巻きこまれ、弟は無分別さゆえに死に、賢い兄は弟を生き返らせる仕事を任せられる」

    クロード・レヴィ=ストロース『神話論理4 裸の人1』p.44

    太陽 / 月
    兄 / 弟
    分別がある / 分別がない

    これらの対立二極が、神話の語りの最初の方では過度に結合したり過度に分離したりしながらも、そのうち次第に、適度な付かず離れずに均衡していく。

    この付かず離れずの均衡により、経験的に安定した意味分節・存在分節の体系が浮かび上がってくるのである。経験的に安定した意味分節・存在分節の最たるものが、時間の分節(現在/過去、現在/未来)、そして空間の分節(遠/近、ここ/そこ 等)である。

    ちなみに、時間の分節も分けるから分かれるのであり、分けなければ分かれないのだ、などというと非科学的な話、つまり現代社会においては取るに足らない話だと思われるかもしれない。しかし、時間の分節は分けるから分かれるのだ、という話は理論物理学の世界でもすでに詳しく検討されていることである。例えばカルロ・ロヴェッリ氏の著書などが参考になる。

    また堀田昌寛先生の『無とは何か』も、理論物理学の近年の到達点を知る上で非常に参考になる。


    主語を透かして述語にフォーカス

    さて、この分離すること、分離と結合自体を分離すること(原初の絶対無分節の分節)、この動きはその主語の位置を占める何かの存在を、所与のものとして要求できない。

    主語的なものは、「私」でもよいし「神」でもよいし「存在」でもよいが、それが人間の言葉で呼ばれる限り、あるXは、非-Xと区別される限りで、Xは、Xではないもの-ではないもの、としてその輪郭を定められ、そうして他ではないそのXとして、主語の位置に収まりうるものになる。

    ところが、このXを非Xと区別しておくためには、あらかじめ、区別すること、分離すること、分節すること、この動き、この述語的様相が動きうるということが定義されていなければならない。そして神話はなによりもまずここから、分離と結合を分離することから始めようとしているのである。

    そうなると、この分離と結合を分離しようという動きについて、その動きを担う主語的なものを、あらかじめ他と分離されてどこかに転がっているものとして、もってくることはできないのである。

    分離と結合の分離を語る原初モードの神話では、経験的で感覚的な主語的なものを利用することができないのである。

    +

    とはいえ、神話があくまでも、人間の言語、意識的な言語で語り、聞かれるものである以上、主語と述語と繋ぎ合わせて行かないことには何の話だか訳が分からなくなってしまう。もちろん、分ける手前の話をしているのだから「分からない」のが本来というか、下手に分かってしまってはむしろ望ましくないのであるが、とはいえまったく分からないようでは口伝えに神話を伝承することもできなくなってしまう。

    そこで神話もやむを得ず、分離と結合を伸縮させる述語を動かし続けるために、仮の主語を立てるのである。ただし、人は、なにか主語的なものの名を聞くと、途端にもうそれが、そういうものが、常にすでに所与として「ある」のだと思い込みがちである。

    そういうわけで、同じひとつの動き、同じ一つの述語的な様相を、次々に交代するあれこれの主語的なものたちによって交代で担わせることで、「誰が」それをやっているのか、の「誰が」の部分を次々と交換して、結局誰が誰だか分からない様にして、より純粋に繰り返される分離と結合を伸縮させる述語だけを意識の表層に強く浮かび上がらせるのである。

    「この体系のなかでは、筋が進むにつれて、母親は死んだ娘に代わって人喰い鬼の女の役目を果たすようになる(これは、娘の場合には比喩的で性的なものであり、母親の場合にはまさにそのままのもので、食物にかかわるものである)。同時に、この娘は、彼女が占めていた位置から母親によって追い払われたために、これまたインセストを犯す姉妹である姪の位置を占めるようになる。同時にまた、前者の誘惑に抵抗する兄弟は、後者の誘惑に身を任せる甥に転換するのだ。
     語りの時間のなかでこのような置換は連鎖するのであるが、それぞれの論理的な基礎はそのあいだできわだっ た対称性をしめしている。」

    クロード・レヴィ=ストロース『神話論理4 裸の人1』p.54

    分離する機能と結合する機能がある。
    結合を分離に転換する機能と、分離を結合に転換する機能である。

    この二つの述語的様相を、ある同じひとつの主語的な存在者が、次から次へと順番に引き受け、担う。

    ある登場人物が、まず初めに分離を過度な結合に転じる機能を担い(分離を結合に転じるよう動く述語をうける主語の位置に現れ)、そうかとおもえば次の場面では、結合を分離に転じる機能を担う(結合を分離に転じるよう動く述語をうける主語の位置に現れる)。


    インセストを犯す姉妹/貼り合わされた子どもたち

    『神話論理4 裸の人』から、「M539 モドック 天の兄弟」という神話を見てみよう。今回も両義的媒介項が呈する述語的様相に注目しよう。

    動物が人間と区別されなかったとき、五人の兄弟がクラマス湖の南岸に住んでいた。

    彼らは悪い男だった。
    長兄はマキバドリと結婚していたが、残りの四人には妻がいなかった。
    末弟はトゥタツという名前だった。

    あまり遠くないところに住むカワウソと結婚していた(五人兄弟の)姉妹のテケワスは、幼年期からトゥタツのことが狂おしいほど好きだった。

    家族を訪ねるたびに、彼女は長居しようとしたが、母親がトゥタツを大きな樹皮の籠に入れて地中に隠し、こっそりとそこから出していたので、愛する弟に会うことがなかった。

    ある日、川に水浴びに連れて行かれたとき、少年は髪の毛を一本なくした。

    つぎに訪問したときテケワスはそれを見つけ、母親に尋ねた。

    「何だっておまえはいつも兄弟を迷惑がらせに来るんだい」と母親は答えた。「おまえはカワウソの妻なんだ。だから、自分の家にいたほうがいい」。

    つぎのとき、(テケワスは)贈り物をたくさん担いで戻ってきて、夫の家に連れて帰ってくれる兄弟にはビーズをあげると約束した。

    しかし、テケワスは(彼女を嫁ぎ先まで送ると申し出る兄弟たちの申し出を)ひとりひとり断っていき、トゥタツにいっしょに行って欲しいとしつこく求めた。

    同時に、足取りを速めて早く沈んでしまうように太陽に頼んだ。

    兄弟たちは、彼女が一晩中留まることをもっとも怖れていたので、トゥタツに姿を現わさせることに決めた。
    彼らは足まで達する彼の長い髪を梳き、彼を姉妹に委ねたが、少年の涙も抗議も斟酌しなかった。

    彼は彼女のあとを泣きながら歩いた。

    テケワスは太陽に非常に厳しく言ったので、太陽は恐れを抱き、地平線の下に姿を隠した。
    彼らは野営しなければならなくなった。
    弟と姉は地面に横たわり、彼が眠りに落ちると、彼女はそのかたわらに滑りこんだ。そのために少年は目を覚ました。
    姉が眠っていることをさいわいに、彼は彼女のかたわらに丸太を置き、急いで帰って、彼らを脅かしている危険について警告した。
    なぜなら、彼の姉が全員を殺すだろうと思ったからである。

    兄弟は彼らを籠に入れて空にもち上げてくれるようにクモに頼んだ。

    そこにやって来たテケワスは、先を越されたことに非常に怒り、家に火を点けた。

    上昇が終わるまで下を見ることをクモに禁じられていたのに、兄弟のひとりが下を見ようと身を乗り出した。あっという間にクモの巣は破れ、五人の乗客は火のなかに落下した。

    そのあいだ、母親と娘は櫂を使って闘っていた。
    テケワスは相手(母親)の櫂を火のなかに叩き落とし、彼女の櫂を使って兄弟をひとりひとり火のなかに押しこんだ。
    母親は炎の南側に、テケワスは北側に立って、ふたりの女は闘っていた。

    母親はトゥタツの心臓を何とか火から引き出し、彼をシャスタ山に変えた。そして、残りの四つの心臓を回収し、それぞれの心臓はそれより低い山に変えた。

    *

    兄弟たちを殺してしまったと確信して、テケワスは夫のもとに戻った。

    母親はマキバドリ(長男の妻)を探したが、双子を産んだのちにマキバドリも死んでいた。

    老女はふたりをたがいに押しつけ、彼らはウェアフジュケワスという名のひとりの子供になった。彼女は穴を掘って彼を隠した。

    テケワスが家にやって来てふたたび母親を悩ませるようになるまで、たいして時間はかからなかった。

    祖母が忘れた小さな毛布を見て、テケワスはマキバドリの子供がまだ生きていることを悟った。老女はそれを認めなかったが、魔術的な方法を使って急いで孫を早く成長させた。そして、丈の長い草のなかにいつでも隠れているようにと言っておいた。

    子供は鳥を狩りはじめ、鳥の言葉を学んだ。
    ある日、彼は自分の影が二重であることに気づいた。
    彼は矢を垂直に打ち上げ、それが戻って来ると、彼をつくっていたふたつの身体を切り離した。彼は自分の弟を赤ん坊に変え、密かに育てた。
    すべての身の回り品を失ったとよそおって、祖母から余分の食物、衣服、狩猟道具をだまして追加してもらったのである。
    祖母はとうとう彼がひとつの頭しかもっていないことに気がついた。
    彼は祖母に彼の秘密を告げなければならなかった。
    老女はふたりの子供の世話をし、子供たちを前より注意深く隠した。

    *

    テケワスは母親を悩ませつづけた。
    「出ておいき」と母親が叫んだが無駄だった。

    「おまえは兄弟たちを殺してしまった。わたしは老いた。もしそうしたいなら、わたしを殺しておしまい。だけど、わたしを苦しませるのは やめておくれ。わたしをそっとしておいておくれ」。

    しかし、邪悪な女(テケワス)は子供たちの足跡を見つけていた。

    ある日、子供たちは白首のカモに傷を負わせたが、カモは、傷口から矢を抜いてくれたら彼らに教えることを約束した。
    矢が抜かれると、カモは彼らの両親についての物語を語り、おばが彼らをもまた殺そうとしていると警告した。
    おば(テケワス)はそのときカモの姿をして、ある湖に住んでいた。
    彼女が人間の姿をとるときには、長く赤い髪をしていた。彼らはその気になれば彼女を殺すことができた。しかし、祖母に彼らの意図を知らせることはなかった。 彼女はきっとそれを許さなかったことだろう。なぜなら、もし欲すれば、娘を殺し彼らの父親を救うかどうかは祖母しだいだったからである。

    若者たちはカモ狩りに出かけ、祖母からカヌー、強い弓、鋭いナイフを手に入れた。ある日、水面におばの長く赤い髪と醜い顔が浮いているのを見た。女は彼らを挑発し、脅した。
    また彼女は平舷に全体重をかけ、彼らをひっくり返そうとした。
    祖母は彼らの恐怖の叫び声を聞いたが、「わたしたちは大地に属している。彼女がわたしたちに害を及ぼすことはない」と言って、彼らは祖母を安心させた。
    つぎにテケワスがカヌーをひっくり返そうとしたときに、彼らは彼女の首を切った。血で水は黒くなり、その場所では今でもそのままである。
    彼らは、
    岩に囲まれた水の渦に彼女の身体を戻し、彼女に言った。

    「おまえはもはや恐ろしくなることはない。おまえは小さく、弱くなり、おまえの肉は食べるにはまずすぎると人々は言うだろう」。死者の魂は醜い鳥となって飛び立った。

    そこで、少年たちは大量のカモを射た。

    祖母がカモを運びこむ準備をしているあいだに、子供たちは家のなかのすべてのもの、火、水、材木、弓矢、杵、籠、掘り棒に、助けてくれるように頼んだ。しかし、錐のことを忘れた。

    (祖母が)娘の切り取られた頭がカモの山の下にあるのを見つけて、怒りの叫び声をあげた時、錐は、ふたりの少年が火の近くの穴を通って逃げたことをあばいた。

    *

    彼らは、太陽の従者になりたかったので、東に向かって進んだ。
    トゥレ湖の南岸で彼らは最初に、カモでありヘビ(bull snake)の妻であるおばを訪ねた。彼らはおばやその他のすべての動物たちに、子供を額から生まないようにと教えた。彼らはおじを殺し、遺体を岩やヘビに変えた。

     東に向かって旅をつづけながら、彼らは途中で一連の冒険を経験し、いくつもの場所がそれ以後現在の地形となった。
    途中で、彼らはじっくり話し合った。兄は太陽の方に仕えたいと言い、弟は、目立たないと気づかれずにすむから月の方を好んだ。

    「しかし」兄は反駁した。「人々はいつもわれわれを見、われわれを待ち構え、われわれが姿を現わすと満足するだろう」。

    *

    彼らは人喰い鬼ヤウクルの家に着いた。
    ヤウクルには、ハシボソガラスとシラミのふたりの従者がいた。
    兄は格闘して人喰い鬼を打ち破り、殺した。
    人喰い鬼を、死んだ魚を食べる猛禽に変えた。
    兄はふたりの従者を、名前どおりの生き物に変えた。

    おばのカモの勧めに反して、進みたいと思っている東の方向からはずれないように、彼らは山々を越えた。

    そしてそこでより手強い敵である一本足の巨人ヤヒャハアスにぶつかった。五回つづけて彼らは立ち向かい、自分たちのパイプがどんな打撃にも耐えたいっぽう巨人のパイプを折ることに成功し、格闘して勝利者となった。最後に、彼らは巨人を永久に山のなかをさまようようにさせ、そして彼の従者となったシャーマンの夢に現われるようにさせた。その代わりに、巨人は彼ら自身を出現するもの、すなわち星になるように運命づけた。

    「その星をめぐって、夏と冬のあいだに、人々は争うだろう」

    事実、兄弟は冬の終わりの夜明け前に見える星になった。
    そして、これらの星が春を告げるのである(Curtin 1, p. 95-117)°

    クロード・レヴィ=ストロース『神話論理4 裸の人1』pp.56-59

    この神話、まず一見して、前回の記事で取り上げた「M538 アイシシュの武勲詩」ときわめてよく似たモチーフに溢れていることがわかる。このことについて、レヴィ=ストロース氏は次の様に書く。

    「神話とは、他と孤立し、経験でとらえられる表現で特徴づけることのできるような言説ではなく、同じ必然性に支配されていくつもの変形を生み出す、ひとつの変形の地方的あるいは一時的な状態にすぎない」

    クロード・レヴィ=ストロース『神話論理4 裸の人1』p.61

    同じ一つのアルゴリズムが、経験的で感覚的に知られた対立二極の分離と結合の動きを利用して、意味ある現実の世界が分節システムとして発生するプロセスをシミュレートしようとする。

    画像

    この神話、最終的には、時間と空間の分節体系の起源、我々人間の生きた経験の基盤となる時空間の起源を語る。そして時空間の分節に至るまでの過程として、分離する動きと結合する動きをつぎつぎと転換しながら分離されたり結合されたりする二極の間の距離を激しく伸縮させる動きについて語る。

    冒頭、まず過度な結合から始まる。

    「動物が人間と区別されなかった」

    つまり人間と非人間の区別がまだないのである。
    したがってここで長兄とか末弟とか姉妹といった主語で呼ばれている者たちは、私たちが日常的に知っている様な兄や弟、姉妹ではなく、人間あるでもなくないでもない、動物と結婚することのできる者たちである。まさに神話的な存在者たちである。

    さてここに最初の分別が分かれる。

    「五人」、という、数の分別である。

    一、二、三、四、と数を数えられるということは、1+1ができるということである。1+1ができるということは、ひとつめの1とふたつめの1を分けることができ、かつこれを結合することができる、ということである。抽象的な「数」について考えることで、分離しながら結合する述語的様相の蠢きがあきらかになる。

    そしてさらに、彼らの居住地が「南」であるという話も登場する。

    南というからには、南/北の区別があり、東/西の区別もあるということになろう。

    西
    南   北  
    東

    ここに二項対立関係の二重化、というモチーフが出てくる。
    二項対立関係は、最小二つが重なり合うことで、AはΒであり、非Aは非Βであるという意味分節の最小単位を成す。

    動物と人間の区別もないような絶対無分節のところから、分離することと結合すること、分離と結合の区別がゆらゆらと見え始める。

    次に、この分離することと結合することが、大きく、激しく、動き始める。

    分離/結合、一方の極への偏り

    さて、分離しつつもぎゅっとまとまって結合している五人兄弟に、最初の区別が画される。兄弟が、結婚している者としていない者とに分かれるのである。

    結婚していない / 結婚している
    ||     ||
    4人 /  1人
    ||     ||
    βββββ/  β

    ここで結婚している方と結婚していない方の人数の配分が、均等ではなく、一方に偏っている。結婚しているのは長兄だけで、その妻が「マキバドリ」である。

    結婚という、男/女の結合に関しては、この結合がなされていない、つまり分離の様相が勝っているのである。

    *

    次にこの分離と結合の偏りが、別の様相でもって、この同じ家族に生じる。末弟トゥタツと姉テケワスとのインセストである。

    この五人兄弟の姉に当たるテケワスは、すでにカワウソと結婚しているのであるが、カワウソのもとから頻繁に実家に戻ってきては、末弟トゥタツと結ばれようとする。

    五人兄弟とテケワスの母は、インセストを回避すべく、テケワスが実家に帰ってくる都度、末弟トゥタツを「大きな樹皮の籠に入れて地中に隠し」、姉と顔を合わせない様に分離していた。

    画像

    *

    ところがある日、末弟は、水浴びをする川に、一本の髪の毛を落としてしまう。そしてその毛髪をテケワスが発見し、末弟が実家のどこかに隠されていることをさとる。隠されて分離していたところが、隠蔽を暴かれて結合に転じはじめる。

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    テケワスは一計を案じ、嫁ぎ先であるカワウソの家まで弟が同行してくれたなら土産にビーズを与えるといって兄弟たちを誘う。そうして同行するのは末弟トゥタツでなければならないと指定する。面倒をおそれた兄弟たちは、母が隠していた末弟トゥタツを引っ張り出して、無理矢理に姉について行かせることにした。ついに分離されていた姉と弟の間が結合するに至る。分離モードが結合モードへ。

    β ←  ー  ー  ー  → β
    ↓
    ↓
    ββ

    ここでテケワスは、太陽に早く沈む様に依頼する。カワウソの家に着く前に日が暮れて仕舞えば、姉と弟は途中でキャンプをすることになり、共に寝ることになるだろう。迫り来る過度な結合!

    ここで太陽と会話ができる、コミュニケーションが取れる、地上の者が太陽に「非常に厳しく」命じて太陽を恐れさせることまでできるということに注目しよう。経験的には言葉による意思疎通ができない関係に分離している地上の者たちと太陽であるが、ここで神話的な太陽は地上のものの言葉を聞いてそのいうとおりにすることができる。その関係は経験的な相よりも、はるかに近く、結合している。

    1. こうして早々に太陽が逃げ去ったためテケワスとトゥタツは二人で野宿をすることになるが、しかしここですかさず、末弟トゥタツは寝ている姉を一人放置して、母親と兄弟たちがいる家に逃げ帰る。

    姉と弟は、元々隠されて分離していたところが、結合へと転じるものの、すかさずまた分離へと戻っている。

         ββ:  結合
    ↓
       β     β: 分離
    ↓
         ββ:  結合

    さて、逃げ帰った末弟トゥタツは、家族たちに危険を知らせる。末弟が逃げたことに怒り狂った姉が、家族を「全員を殺す」べく、こちらに向かってくると予想されるからである。末弟トゥタツを含む五人兄弟は蜘蛛に頼み、蜘蛛の糸でもって、自分たち五人がその中に入った「籠」を、空高く引っ張り上げてもらおうとする。

    天
    /
    地

    この経験的で感覚的な対立二極の間を分離するような動きである。

    ↑
    β
    βββ
    β

    |
    |
    |
    |

    β

    五人兄弟が籠に入って空へと引き上げられている途中に、怒ったテケワスが戻ってきて、実家に火を放つ。その様子を兄弟の誰が籠から「身を乗り出し」て見ようとした。その途端、蜘蛛の糸は切れて、五人兄弟は燃え盛る家の中にまっさかさま。

    この娘の狼藉に対して母親が抵抗する。二人は「櫂」を使って、燃える家の南側/北側に分かれて戦う形になる。

    北
    /
    南

    垂直方向の天/地、水平方向の南/北で、母/娘が櫂を用いた叩き合いという様相で、分離しつつも結合し、結合しつつも分離する、付かず離れずの様相にはいる。

    戦いの最中、母親は自分の櫂を、娘テケワスによって叩き落とされてしまう。テケワスは、母が火の中に落とした櫂をつかって、落ちてきた兄弟たちを火の中に焚べる。

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    母親はこれに抵抗し、なんとか兄弟たちの「心臓」を、火の中から回収する。そしてこれらの心臓を、「シャスタ山」とその周囲の山に変容させる。ここに地形、経験的に知られた現実の地上世界の秩序(低地と山地の区別)が起源する。

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    第二世代

    兄弟たちが心臓だけになり、山に変容したことを確認したテケワスは、嫁ぎ先であるカワウソのところへ帰っていく。焼け跡に残された母親は、長男の嫁であった「マキバドリ」もまた火に巻かれてしまったことを知るが、マキバドリが焼かれる前に双子を産んでいたことを知る。

    ここでマキバドリは経験的には鳥である。人間ではなく、動物の鳥。

    この神話のこの段では、人間と動物は結婚し、子供をつくることができる。これは経験的な動物と人間の区別、分離に比べて、はるかに過度に結合した様相である。

    人間/動物

    Δ人間→(β人間と動物の結婚β)←動物Δ
    ↓
    β双子β

    このマキバドリから生まれた長兄の子である双子は、祖母によって育てられることになる。祖母は双子を「たがいに押しつけ」、結合し、「ひとりの子供」にする。双子は二即一にして一即二の関係に入る。祖母はこの一人に結合された双子を育てるのであるが、そこにまたテケワスがやってくる。祖母はこの双子もまた隠す。

    テケワスは、どうやら再建された実家に「小さな毛布」があるのをみて、長兄とマキバドリのあいだの赤ん坊が実家のどこかに隠されていると勘づく。

    こうしてまた子供を隠し=分離する動きと、その子供を探し出して結合しようとする動きとが、真逆に対立しながら拮抗することになる。

    二人で一人になっている双子は、おばであるテケワスからうまい具合に隠れ=分離しつつ成長する。そうして狩猟ができるようになり、鳥の言葉を学び、鳥とコミュニケーションも取れる様になる。

    動物と言語でコミュニケーションできること。

    人間 / 動物

    ここでも人間と動物の距離感が、経験的なそれよりも、より過度に結合した様相になっている。この神話の冒頭から、人間と動物が自在に結婚していたり、人間と天体(太陽)が会話できていたりするのと同じ、経験的な分離の様相をより過度な結合に転じたあり方である。

    人間 →/← 非-人間


    結合モードから分離モードへ

    さて、ここから諸々の過度な結合の様相が、分離へと転じ始める。

    まずこの「たがいに押しつけ」られて「ひとりの子供」になっていた双子が、実は自分が一人ではなく、二人であることに気づく。

    「彼は自分の影が二重であることに気づいた」のである。

    *

    画像

    そしてこの子は、「矢を垂直に打ち上げ」、そしてその矢が落下してくるところにわざと当たって、身体をふたつに「切り離した」。祖母が押し付けて結合していたところが、落下してきた矢によって切り離され分離する。

    この結合モードから分離モードへの転換を引き起こすために、例えば直接刃物のようなもので身体を真っ二つにするといったやり方ではなく、わざわざ一度、矢を天に向かって射て、それが落ちてきたものに当たる、というやり方を採る。

    天
    ↑ ↓
    ↑ ↓
    ↑ ↓
    ↑ ↓
    ↑ ↓
    地

    この矢の動き、天/地の二極のあいだで、地から天に上昇し、天から地へ落下する、という動きは、天/地のあいだを分離しつつも結合する、近くに結合しすぎず、遠くに分離しすぎない、という均衡モードをつくりだしている。もしこの矢が天高く(あるいは樹上くらいの高さでもよいが)上がったまま、どこかに引っかかって、落下してこないことになると(前回の記事で取り上げた神話にはそういう場面があった)、天/地あるいは上/下のあいだは往復できないほどの過度な分離モードになっているということになる。

    画像

    *

    さて、二人に戻った双子であるが、一方はもうすでに成長しており、他方はまだ赤ん坊、というあり方であった。双子なのに年齢差がある、双子なのに歳の離れた兄と弟の様である。

    双子であって、双子でない

    結合していないでもなく、結合しているでもない

    曖昧で、対立二極のどちらであるかを選びようがない不可得なあり方が、経験的で感覚的なものを用いて見事に表現されている。

    やがて、双子の兄が、まだ赤ん坊のままの双子の弟を育てていることが祖母にも知られることになる。祖母は二人に分離した双子を引き続き守ろうとする。

    カモ取り

    さて、双子の祖母は、引き続き、その娘テケワスの動きを警戒し続けている。一方、双子は、次第に狩の名手となる。

    ある時、双子はカモ猟にゆく。カモは水中から空中までを自在に往来する、水界と天界という、どちらも人間がそこで暮らすことはできないふたつの世界のあいだを自由に往来できるという点で、神話によく登場する媒介者、両義的媒介項である。

    双子は、一羽のカモに矢を命中させる。矢もまた天/地のあいだを行ったり来たりできる点で、カモとよく似た述語的様相で動く両義的媒介項である。

    ここで両義的媒介カモと両義的媒介矢が、結合し、そして分離するのである。

    天
    ↑↓↑↓ 
    鴨β→ ←β矢
    ↑↓↑↓
    地

    この矢で射落とされたカモが双子に交換を申し出る。矢を抜いて助けてくれたら、秘密を教える、というのである。双子はカモと交換、取引をする。そして双子の両親やおじたちが双子にとってのおばであるテケワスによって焼かれた経緯を知らされ、しかもテケワスが双子たちのことも狙っていると教えられる。

    この交換、取引というのも、双子とカモ、人間と動物、あちらとこちら、二極のあいだで一方からは命が与えられ、他方からは情報が与えられる、という形での双方向のコミュニケーションになっている。双方向のコミュニケーションの成立は二極のあいだを分離しつつも結合する、分離と結合の均衡モードの象徴となる。

    *

    双子たちはやられる前にやる。テケワスを討つことにする。ただし、祖母には相談せずにである。どうやら祖母はたびたび訪ねてくるテケワスをくるたびに追い返す、という形で、結合→分離→結合→分離、という述語的な関係を続けているのである。つまりテケワスを討ってしまっては、この述語的関係は終了する。祖母はどうやら、そうなることを望んでいるとは思えなかったのである。

    *

    画像

    ここでどういうわけかテケワスは「カモの姿をして、ある湖に住んでい」ることになる。テケワスはカモの仲間、あるいはカモの大将のようなものに変身している。

    人間 / 動物(非-人間)
    狩猟者 / 獲物

    このような経験的な対立二極が、テケワスにおいては結合し、人間でもありカモでもある、狩猟者(食べる側)でもありながら獲物(食べられる側)でもある、という両義的な様相が励起されている。

    そこで双子たちはカモ狩りに託けてテケワスを討つことにする。カモたちのいる湖でカヌーの上にいる双子と水中にいるテケワスの戦いになる。水中のテケワスは双子ののるカヌーをひっくり返そうとするが、すかさず双子はテケワスの首を刎ねて、頭と体を分離する。首を失ったテケワスの体から黒いドロドロとしたものが流れ出す。そしてひとしきり悪いものを出し切ると、テケワスの首なし胴体は、小さく、弱くなり、「醜い鳥」に変容して飛び立つ。ここで興味深いことに、黒いドロドロや醜い鳥は経験的感覚的に現世に存在するものたち、図1でいうΔだということである。

    過度な分離と結合の伸縮の述語的様相そのものであったテケワスは、その伸縮の動きを次第に減衰させて、カヌーを揺らす波程度のものになり、そうして分離を確定されて(分離された頭部が再度胴体にくっつくことはなかったのである)、経験的に意味あるこの世界の分節体系、Δたちの関係を定常化させるに至る。

    * *

    現世の起源へ

    βテケワスのΔ化によって、いよいよ神話は、図2の1)〜3)のようなβ伸縮のモードから、4)以降の経験的で感覚的なあれこれの存在者が定常的に存在する、現世の秩序の設定へとモードチェンジする。

    そのために重要なチューニングのポイントは、双子の祖母、この神話の冒頭から一貫して分離と結合の伸縮の述語的様相に対する主語の位置を占めてきた「祖母」である。この祖母を、どうにかΔ化しなければならない。

    +

    ここで神話は、双子と祖母の「鬼ごっこ」へと展開する。
    「三枚のお札」のように、神話的な思考がβの分離と結合の伸縮を定常化して、Δを安定的に浮かび上がらせる様にするときに、しばしば鬼ごっこのモチーフが登場する。鬼ごっこでは、逃げるものと追うもののあいだが近づいたり、遠かったり、分離が結合にむかったり、結合が分離にむかったり、という動きが繰り返されつつ、両者の間の距離はほぼ一定の幅で振幅を描く場合が多い。

    双子は討ち取ったテケワスの「首」を、祖母と暮らす家において、そして家から逃げ出す。

    逃げるに際しては家の道具たち、自然と文化を分節する道具たちに、言葉でもって依頼をして、どこから逃げたか、祖母には言わない様に頼む。

    しかし、この神話でも道具たちのうちの「錐」には話が通っていない。

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    分離する壁を貫通することができる、分離を結合に転じることができる「錐」が、祖母のもとから分離していった双子の居所を祖母に教える。「錐」が分離しようとしているところに、それとは反対の動き、結合へと引き戻す述語的様相を展開させるのである。

    β→・・・→β

    双子は、祖母に追いつかれることなく、逃走を続ける。

    そしてこの、いわば追う者と追われる者のあいだが等距離に固定し、相対的には静止しているように見える動きの途上で、経験的で感覚的なこの現世を意味分節するあれこれの存在者たちΔが分節されてくる。

    まず、東/西、方角、空間の分節。

    そして双子は、ここで新しい登場人物ヘビ(bull snake)の妻である、おば(テケワスとは別のおばらしい)のもとを尋ねる。このおばもカモであった。テケワスと同じ様で、同じではない。このような人でもありカモでもあり、動物と結婚する様な存在は、神話では両義的媒介項βである。そしてこの時点では双子たちもΔ→β←Δのβなので、β二項がもともと遠く分離していたところが結合に転じた、という分離と結合の伸縮モードの語りになっている。

    ここで双子は、カモであるおばに代表される人間でもあり動物でもあるような両義的な者たちに、「子供を額から生まない」ことを教える。動物の子供は経験的には下半身から生まれる場合が多いが、神話の世界、β脈動モードでは、あべこべに子供は「額」から産まれていたのである。

    双子は、経験的な世界と真逆にひっくり返ることもあるβモードの世界を、経験的な現世の向きに正すのである。

    ここで双子は、カモであるおばの夫である「蛇」(β蛇)を、岩や、経験的に知られているこの現世のΔ蛇に変容させる。このくだり、「彼らはおじを殺し、遺体を岩やヘビに変えた」とあるが、このおじはもともとヘビだと言われているのである。“ヘビをヘビに変える”と言われても、なにも変わっていないじゃないかと思われるだろうが、ここはβヘビがΔヘビにモードチェンジしたと読んでおきたいところである。

    +

    そのようにして「 東に向かって旅をつづけながら、彼らは途中で一連の冒険を経験し、いくつもの場所がそれ以後現在の地形となった」という話になる。双子の東に向かう旅を通じて、「現在の地形」、つまり空間的に安定した分節が生成したのであり、双子の東への旅が始まる前にはこの現在の地形はなかったことになる。

    + +

    太陽と月/長い周期と短い周期・・時間の分節

    こうして経験的で感覚的に現に存在する空間の分節を画した双子は、次に、時間の分節を画することになる。

    おそらく、兄は太陽に、弟は月になる。

    特に兄は「人々はいつもわれわれを見、われわれを待ち構え、われわれが姿を現わすと満足するだろう」と述べ、要するに周期的に現れたり消えたりするように動くことを決める。

    ところで、日の出から日没、太陽の一日単位の周期は、どちらかといえば短い周期である。そして月の満ち欠けは、「月」単位の周期である。

    こうなると次は、年単位の周期も分節しておく必要がある。

    ここでハシボソガラスとシラミという二人の従者と暮らす「人喰い鬼ヤウクル」というのが登場する。人喰いは、狩猟者と獲物、人間と人間の食べ物である動物という経験的な区別をひっくり返す(狩猟者を獲物として食うのである)経験的な分離を結合に転じる述語の権化である。

    さてこの「人喰い鬼ヤウクル」、登場するや否や双子の兄によって討たれる(この場面で双子の弟が兄から分離して、兄だけが戦っていることに注目しよう)。そうして両義的媒介的βであった人喰いは、経験的なΔ「死んだ魚を食べる猛禽」に、そして神話的な人間だったβハシボソガラスとβシラミも、経験的に存在する今日のわれわれにもよく知られたあのΔハシボソガラスとΔシラミへと主語化される。ハシボソガラスとシラミと猛禽は、経験的感覚的な現世において、実際に動物の死骸を食べたり、動物の身体から血液を吸ったりするものである。彼らは、現実に存在する緩和された「人喰い」であると言えるかもしれない。ここではっきりとは言われていないが、神話のこのくだりでは、生/死の分節が画されたものと考えられる。

    次々と産まれそして死へと向かう人間の一生が次々と繰り返されることも、経験的に重要な周期性の一つである。

    ついで、この神話の最後には、年単位の周期性、春夏秋冬がめぐる周期性、夜空の天体の運行が分節される。

    双子は東に向かって進み続け、つまり一直線に、出発地と到達地の間を分離し続けながら、最後に年単位の周期性を分節する。

    双子は「一本足の巨人ヤヒャハアス」なるものに出会う。一本足の巨人というのも、経験的に二本セットになる場合が多い足というものを β←Δ→β という形で分離して作り出された両義的媒介項である。この一本足というのは「周期性の欠如を象徴」しているのではないかと、レヴィ=ストロース氏は指摘する(p.119)。

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    双子はこのβ巨人と「パイプ」を用いて戦う。

    「パイプ」というのは一体的なあり方をしている火と煙を分離すると同時に、火から分離された煙を人間に結合する道具である。パイプは一方で分離し他方で結合する、分離する述語的様相と結合する述語的様相を二即一にした両義的媒介項である。

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    このパイプ、双子たちも所有しているし、「一本足の巨人ヤヒャハアス」も所有していたのであるが、巨人の方のパイプは壊され、双子たちのパイプだけが残る。いまや、パイプを自在に吸ったり吸わなかったりして、分離と結合を自在に転換させる力を発揮できるのは双子たちだけになった。

    つまり、双子たちが、分離と結合が激しく伸縮するβ脈動の領域から、自在にいくつのもの意味ある世界、Δ意味分節された世界を発生させる力を保持し、他の者たちはそうした力をもたない世界が始まろうとしている。

    こうなると、双子たちが一旦、意味ある現実の世界の秩序を作り上げた後には、もう双子たち以外にだれも、その秩序を緩めてβ脈動へと送り返すことはできないようになった。

    ここで巨人が、「星」に、天体に、年単位の周期的運動にされることになる。ついでに巨人は意味ある現実の世界の秩序から完全に姿を消すのではなく、山奥を彷徨っていたり、シャーマンの夢に現れるといった限定された形で、現世にもかすかに姿を現し続けることになる。

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    そしてついに、最後に、この双子たち自身が「兄弟は冬の終わりの夜明け前に見える星」になる。冬の終わり、つまり冬から春へ、季節の周期的な交代のパターンを規則正しく動的に分節する、Δ分節を安定的に発生させる振動子へと、双子は変容する。

    こうして、空間の分節体系と時間の分節体系が、常時定常的に発生し続けるしくみが完成し、この世が起源するのである。

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    時間の分節(いま/非いま)も、空間の分節(遠/近)も、分けるから分かれる

    *

    我々にとっての意味ある現実、「AはΒである」式に“意味する”ことができること、つまり

    Δ = Δ
    /   /
    Δ = Δ

    という形の意味分節の最小構成単位が安定的に、定常波が描く波紋のように浮かび上がり続けている状態というのは、この神話の思考が明確に語っているような分離と結合の伸縮から起源するのである。

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    つづく



    ##A Note for Readers of the AI-Translated Version

    This article is written in Japanese and automatically translated by note's AI system. The author cannot edit the translated text directly, so please keep the following points in mind.

    1. On the myth's title: The myth discussed in the previous installment and referenced here is "M538: The Epic (Gesta) of Aishish" from The Naked Man (Mythologiques IV), concerning the Klamath-Modoc hero Aishish. If the translation renders it as "The Epic of Asdiwal," this is an AI error — the Story of Asdiwal is a different, Tsimshian myth analyzed by Lévi-Strauss in a separate essay, and is not the subject of this series of articles.

    2. Key terms: The AI translation may render the same Japanese term inconsistently. For reference:

    • β (beta) = the ambivalent mediating term (両義的媒介項): a mythical figure that oscillates between empirically opposed poles (e.g., a being that is both human and animal). Also translated as "ambiguous mediator."

    • Δ (delta) = an empirically articulated term (Δ項): a stable term of everyday binary oppositions (self/other, life/death, near/far).

    • 意味分節 = semantic articulation: the process by which a meaningful world is carved out through binary distinctions.

    • 分別 = differentiation / discriminating cognition (Skt. vikalpa): the Buddhist term for the mind's act of dividing, choosing, and clinging — not "discrimination" in the social sense.

    • 分けるでもなく分けないでもない = neither dividing nor not-dividing: the mode of thought prior to fixed distinctions, central to both mythical logic and Esoteric Buddhist (Shingon) thought.

    • 野生の思考 = wild thought (Lévi-Strauss, La Pensée sauvage; English retranslation Wild Thought, 2021).

    3. Quotations: Passages from Mythologiques are quoted from the Japanese edition and rendered into English by AI; they are not the wording of the published English translation by John and Doreen Weightman. Line breaks within long quotations are artifacts of text extraction, not of the original.

    4. Names: Character names follow the Japanese edition's transliterations (Aishish, Tutats, Tekewas, Kumukamch/Kmukamch, Lattkakawas). Minor spelling variations in the translation refer to the same figures.


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    意味ということの謎に憑かれ濫読の途上で博士(学術)号取得。コミュニケーションを考える法人の代表兼大学非常勤講師。主な業績はコロナ禍の遠隔授業を乳幼児2名在宅中に実施したこと。高専出身柔道初段 https://note.com/way_finding/n/n5af3a19375b7

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