
水と焼石を入れた籠の側で、筵を被って頭を隠していると、「私たち」が起源する -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(109_『神話論理4 裸の人』-6)
クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を”創造的”に濫読する試みの第109回目です。『神話論理4 裸の人1』の第一部「家族の秘密」を読みます。
前回の記事はこちらです。
これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。
経験的な区別が概念の道具となる
レヴィ=ストロース氏は大部の『神話論理』の第1巻の冒頭に次のように書いている。
「生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせて命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」
経験的感覚的な区別(分別)を概念の道具として、観念を抽出するとは、いったい、どういうことだろうか?
仮に図1に示す「Δ」を最小で二つ、つないだもの(Δ1=Δ2)をひとつひとつの「観念」だと思っていただこう。図1のΔ1〜Δ4は私たち人間にとって経験的で感覚的な区別・分別される項である。例えば、
Δ1 暑い / Δ4 暑くない
|| ||
Δ2 わるい / Δ3 わるくない
といった具合になる。

私たちひとりひとりにとっての意味ある世界の起源
私たち人類にとっての「意味ある」経験的世界とは、このような二項対立関係の重なり合いからなる四項関係を意味分節の最小構成単位として織り上げられている。
人類は「経験的区別」を実行する機械のような仕組みとしてできている。
Δ自 / 他Δ
Δ生 / 死Δ
Δ好き / 嫌いΔ
Δ因 / 果Δ
Δある / ないΔ
Δうまい / まずいΔ
Δ高い / 安いΔ
Δ遠い / 近いΔ
Δ内 / 外Δ
特に経験的な区別を区切り出す上で決定的なのは、次の対立である。
区別があること / 区別がないこと
分節 / 無分節
分かれてあること / 分かれていないこと
分離している / 結合している
一である / 多である
同じである / 異なっている
区別すること / 区別しないこと
分離すること / 結合すること
そして、これらの対立する両極の間の転換を引き起こす、二種類の動きの対立。すなわち、
結合状態を分離状態に転じる動き / 分離状態を結合状態に転じる動き
この対立である。この二つの動きを分けつつつなぐ、分離しつつも結合したまま動かす動きこそが、私たち人類ひとりひとりにとっての経験的に意味ある世界が生成してくるプロセスのもっとも基本的なアルゴリズムであると考えられる。
マンダラ
そしてこの分離と結合を転換する、分離状態と結合状態のあいだで伸縮する動きが定常化して、二項対立関係の対立関係が浮かび上がってきた状態こそが「マンダラ」として図式化できるモードなのである。
例えば弘法大師空海は『吽字義』で、
因 / 果
有 / 無
損減 / 増益(生/滅)
我 / 非我
という四つの分別・二項対立と、
因/果を分けるでもなくわけないでもない
有/無を分けるでもなく分けないでもない
損減/増益(生/滅)を分けるでもなく分けないでもない
我/非我を分けるでもなく分けないでもない
という四つの分けるでもなく分けないでもない分別無分別どちらか不可得なモードとを二重化した心のモデルを示している。
およそ人間が分別(分けて、選んで、こだわろうと)して、しかしこだわりを貫徹することができずに苦しむ(選んで結合しようとしたものと分離されてしまう、分離しようとしたものと結合されてしまう、ということで人は苦しみ、迷うのである)、この苦しみから抜け出すために、仏教はここでいう四つの不可得、分けるでもなく分けないでもない、つまり「空」ということを覚るべしと教えるのである。
転識得智
仏教では、覚りの境地、無上正等覚を得るということを次のようにモデル化する。すなわち、分けて、選んで、拘って止むことのない表層の分別心ゆえに人間は迷い、苦しむ。そこでこの「心」を分けるでもなく分けないでもなく、選ぶでもなく選ばないでもなくというモードに変容させることで、人間が人間のまま、人間道にいながらにしてその深層に隠れた如来となるための種を活かすことができる。
特に密教ではこの分けるでもなく分けないでもなく、選ぶでもなく選ばないでもないモードに転換された心のあり方を「マンダラ」状のモデルとして説く。

ここで、人間の分けて、選んで、拘る分別心というものを、ユングが論じる意識の四機能に重ね合わせて考えてみるとおもしろい。
ユングは人間の意識の機能を「感覚」「思考」「感情」「直観」の四つに整理する。

「思考」:なにであるか/なにでないか、を分別
「感覚」:ある/ない、を分別
「感情」:好き/嫌い、を分別
「直観」:現れてくる/消えていく、を分別
この四つの機能がバランスよく、つかずはなれずに連動すると、私たち人類の精神(心)は大いに安定した調和のとれた状態になる。四つの心的機能間の「距離」が遠く離れすぎたり、また過度に近づきすぎてある機能が対立する別の機能を飲み込んでしまったりすると、四機能の調和は達成できない。
この調和のとれた心の状態を目指すことを、意識の表層に教えるのが「マンダラ夢」である。
この四機能は、仏教の唯識思想における八識と、興味深い対応関係を示す。
「前五識」(眼・耳・鼻・舌・身)|「感覚」:ある/ない、を分別
「第六意識」|「思考」:なにであるか/なにでないか、を分別
「第七末那識」|「感情」:好き/嫌い、を分別
「第八阿頼耶識」|「直観」:現れてくる/消えていく、を分別
多くの場合、人間が人間である以上、こうした分別でもって「分けて」、そして分けられた選択肢のうちのどちらかを選び、他を選ばないようにし、そして選んだものにこだわろうとする、という具合に人の心は動く。その上で、せっかく分けて選んで拘って、つまりずっと結合していたいと願っているのに、しかしそうもいかずに分離してゆくことに悲しみ、苦しむのであるし、同じようにせっかく分けて、選ばないと決めて分離したはずのものが向こうから結合してきてしまって、恐ろしくなったり逃げようにも逃げられないことに苦しむ。およそ人間的な苦しみとはそのようなあり方(分離したいものと結合したいものを分けたのに、分離したいものの方が結合してくるし、結合したいものの方が分離していく)をしている。
この苦しみから脱するために、分けて、選んで、拘っている、そのような心の使い方をモードチェンジする、というのが仏教の要訣である。すなわち、二辺を離れるでもなく離れないでもない、というモードへの分別識の転換である。
そもそも分けて、選んで、拘っているのは、心の表層の固着した様相である。心の表層の直下にひろがる深層では、心は、分けるでもなく分けないでもなく、選ぶでもなく選ばないでもなく、拘るでもなく拘らないでもなく、という具合に、ありとあらゆる二元的二項対立関係の両極を分離しつつ結合し結合しつつも分離するという伸縮自在なあり方をしている。
この伸縮自在なこころの深みの動き、述語的様相を、心の表面の直下にまで浮かび上がらせることができれば・・・。私たちの心はおのずから、分けて選んで拘ったところへ固着しようにもできないという苦しみから解かれることになる。
*
神話や夢こそ、この心の深みの分離と結合の自在な伸縮が、記憶されたイメージのストックを振動させて心の表層の一番下に描き出した影なのである。神話は、仏教が色即是空空即是色、一切皆空といった言葉で解こうとしたのと同じことを、別の言葉で、別の述語と主語で為さんとしているのである。
夢や神話の語りに現れた心の深層の動きを観察することは、分別する八識を絶対無分節の「智」へと変容する「転識得智」の行に(知らず知らずのうちに)なる。
前五識 → 成所作智 に転じて:「ある/ない」を分けつつも、その分別を固着しないモードへ
第六意識 → 妙観察智 に転じて:「なにである/なにでない」を分けつつも、選ばず拘らないモードへ
第七末那識 → 平等性智 に転じて:「好き/嫌い」(自と結合すべき/分離すべき)を分けつつも、固着しないモードへ
第八阿頼耶識 → 大円鏡智 に転じて:「現れる/消える」を分けつつも、どちらか片方にこだわることのないモードへ

この神話と仏教、一見するとまったく別の叡智にみえるもの同士に共通するアルゴリズムをモデル化しようとするときに、役にたつのが「マンダラ」である。
マンダラは分別を緩め、絶対無分節が分節するでもなくしないでもないゆらぎのモードに転換された「心」(三昧耶モードに励起された「心」)の象徴である。
マンダラ
この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の「神話の論理」、私たちの野生の思考が半分無意識のうちに“経験的感覚的な区別を概念の道具として観念を抽出する”プロセスを、動的に伸縮する「マンダラ」としてモデル化すべく試行している。
マンダラとは、図像にすると、次のような形をしたものである。

マンダラは、円と正方形を組み合わせた姿をしている。正方形ゆえにおのずから四項・四極が際立ち、その四項の中間に配される中間項四つが浮かび上がり、合わせた八項関係を描く。
図1で「Δ」と表記したものは、あるとかないとか、内とか外とか、入れるとか出すといった、経験的感覚的に対立関係を組む項である。例えば「自/他」「有/無」「内/外」「遠/近」「中身/容器」など、私たちにとっての日常的に意味ある世界を意味分節することを可能にしている二項対立関係の項である。
一方、図で「β」と表記したものが、神話の語りのなかで、経験的に対立する二極のあいだを行ったり来たりしながら、繋いだり分けたりするように動き回るものであり、「両義的媒介項」と呼ばれるものである。βは、経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をする。
両義的媒介項
両義的媒介項(β)は神話では、「火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間」「服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガー」「ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月」「下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間」、といった姿をしている。
こうしたものたちは、経験的感覚的には(Δ項としては)「存在しない」が、神話はこの経験的に何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。
そのために、まず分別/無分別の区別を区切り出すところから始める。
分かれているとも分かれていないとも言えないところからはじめて、結合しているところが分離に転じ、分離しているところが結合に転じ、という分離状態と結合状態の間で伸縮する動きを考える。

神話の語りの五つの相 ——βたちの伸縮運動
神話の語りは、しばしば次の五つの相をたどる。

1) ぎゅっと集まる: 語りの冒頭、両義的媒介項たちが一点に集合した状態から始まる。
2)〜3) 激しく伸縮する: βたちのうちの二項が、任意の軸上でながーく伸びたり、縮んだり、第二の軸上でも同様に伸縮する。
4) 付かず離れずに均衡する: なにかのはずみで、βたちが四方に引っ張り出され、β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力とがバランスする。ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。
5) Δが浮かび上がる: そうしてβ項同士の「あいだ」に、四つの領域、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが、持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。
「/」と「||」は同じ動きの二つの異なる様相である(真逆に対立する熟語のペア)。「/」は伸縮の「伸」の方に、「||」は伸縮の「縮」の方に対応する。
この分離を結合に転じたり、結合を分離に転じたりする動きは直接的には分けたり繋いだりする述語によって表現されるものであるが、この述語に乗っかる主語もまた、言語においては必要となる。その主語の役割を担うのが、両義的媒介項βたちなのである。
例えば、神話では、人間/動物、獲物/狩猟者といった経験的には真逆に対立するはずのΔ二項を短絡することで、どちらがどちらかわからない状態をあえて語り出す。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといった凄まじい話もこれである。こうして経験的に対立する両極の間で激しく振幅を描くものを、両義的媒介項(β)という。
「分けるから分かれる」 ——意味分節の起源
空間的な距離、「遠/近」など、人間が言語的に分節しようがしまいが、厳然とそれ自体としておのずから存在することだろうと思われるかもしれないが、神話の思考はそのようには考えない。遠/近、有/無、生/死、時間の分節も空間の分節も、「ある」と「ない」も、人間が分別するあらゆることは、分けるから分かれるのであり、分けなければ分かれない。
このようにして神話は、両義的媒介項どうしが分離したり結合したりする動き(伸縮する動き)を用いて、ありとあらゆる我々人類にとっての経験的で感覚的な世界の意味分節・存在分節を可能にする二項対立関係を、(両極を結合したまま分離し分離したまま結合するようにして)区切り出していく。
起源神話 —区別があること、それ自体の起源
神話は、人類が現に経験している、自分自身にとって「意味ある世界」を支えている意味分節・存在分節の体系の起源を、由来を、思考しようとする。
例えば、野生の思考が「人間」の起源を思考しようとすると、それは「人間」と「非-人間」がもともと区別されていなかったところから、区別されるようになるに至る経緯を上述の分離と結合の伸縮に即して語る、ということになる。「人間」に限らず、ありとあらゆる経験的感覚的に「他ではないそれ」として存在するものについて、それとそれ以外との区別のはじまりをどう語るかが神話の思考の関心事になる。
A / 非-A
こうなると、意味ある経験的世界の起源を語る神話の思考を突き詰めていくと、いずれ必ず区別があるということ、それ自体の起源を問うことになる。分節/無分節、分離/結合、一/多、同/異 —— これらは言い換え可能な対立であり、突き詰めれば「区別があること/区別がないこと」へと収斂する。
そしてこの区別が、神話では、
結合状態を分離状態に転じる動き / 分離状態を結合状態に転じる動き
という、真逆に対立する動きのペアとして表現されることになる。
神話の語りを分析する
私たち人類の意識は、この伸縮の結果として浮かび上がるΔたち、その主語的なあり方(「それが何であるか」)に目を奪われがちであるが、実はこれら主語的なものたちは、あくまでも引き離したり近づけたりする動き、動詞、述語のあとに、はじめてその姿が浮かび上がってくる、動きの痕跡である。

主語的なものが世界の始まりのポイントにあらかじめ設置されているわけではなく、グニャグニャと伸縮する波(述語)が重なり合い、共鳴しながらマンダラ状の波紋のようなものを浮かび上がらせる時に、その図のある部分、ある領域が、仮に主語の役割を課せられている。
神話の論理に通達することは、私たちが自分自身を含む世界を意味あるものとして経験することを可能にしている意味分節のパターンが、さまざまな様相で生成したり消滅したりする様を観察することを可能にし、またそうした分節のやり方を相当程度自覚的に組み立てることをも可能にするのである。

以上を踏まえ、 『神話論理4 裸の人』から、M540「アビ女」の神話をみてみよう。
M540 モドック アビ女
五人のオオヤマネコの兄弟とふたりの姉妹がいっしょに住んでいた。
兄弟たちは一番下の弟を除いてみな結婚していた。
弟は並外れて美しかったので、両親は籠に入れて地下に隠した。
毎晩、顔を洗い、髪を梳り、食事 を与えるために、両親は彼を連れ出し、兄弟や姉妹が起きてくる前にもとに戻した。
しかし、上の姉は末弟が赤ん坊のときからとても好きだったので、他の誰とも結婚しようとしなかった。
長兄がとても憤ったことに、彼女は籠を隠しもつ穴の近くに毎晩寝た。
首長の息子が彼女に結婚を求めたとき、彼女は怒り出した。
「もし、彼を家に入れたいというなら」彼女を納得させようとする母親に言った。「あんたが自分 で結婚すればいいじゃない」。
彼女はすべての人に、自分の言うことを聞いてもらいたかったのである。
ある日、声をかけるために姉が籠を開けにきたと、隠された少年は、両親に言った。
*
*
彼の懇願に応えて、人々は彼を海の真ん中にある小さな島に運んだ。長兄と下の姉が、秘かに食料を補給した。
*
姉は愛する人を、四方八方捜した。
ついに彼女は妹が守っている島をみつけた。
*
しかし、妹は中空のアシでつくった魔法のカヌーで、弟とともにそこから逃れることに成功した。
*
姉は怒りに駆られた。
ひざまずいて驚くべきスピードで回転し大火事をひき起こした。
両親の村も燃え上がった。
何人かの住民は動物となり、その他の人々は焼け死んだが、そのなかには火を起こした女の家族も含まれていた。
妹だけが炎から逃れた。なぜなら彼女もまた強力な魔女だったからである。
*
姉は犠牲者たちの心臓を拾い集め、それで首飾りをつくった。
そして彼女は、島に移り住んだ。
妹はひとりぼっちになった。長いあいだ、彼女は姉を監視した。
姉が寝ていることにつけ込んで、妹は心臓を奪い取り、姉の首を切り落とした。首は悲しげな長い泣き声をあげながらひとりでに身体にふたたびつながった。「好きなだけ泣け」。妹はひと掴みの灰を拾って姉に投げつけながら言った。
「あんたは二度と人々を焼くことはできない。 これからは水のなかで暮らすことになる。人々があんたを食べるとき、あんたの肉はまずいと言い、吐き出すようになる」
そして実際に、罪深い姉は大きな海鳥に姿を変え、湖から飛び去った。
*
少女は魔術を使って家を再建した。散らばった骸骨を拾い集め、籠に入れて煮はじめた。彼女自身は筵にくるまり、顔を隠した。夕暮れに死者はすべて蘇り、家に戻り、そこで人々は幸せに暮らした。
この話は前回の記事でじっくり読んだ「M539 モドック 天の兄弟」とほぼ同じ動的構造を反復している。
冒頭「五人のオオヤマネコの兄弟」と「ふたりの姉妹」と、そしてその母親、合わせて8名が「いっしょに、ひとつ屋根の下にギュッと集まって暮らしているところから語りが始まる。上の図2でいえば、諸項たちが過度に結合した凝集状態にある1)のモードである。
それと同時に、この8名のうちの何人かは結婚をしているという。
結婚をしているということは、つまりこの家ではない、別の、よその、外の家とも結合しているということである。
8名はこの自分達兄弟姉妹が生まれた家に強く結合されていると同時に、他方ではその結婚相手の家の方にも引っ張られている。この後者の様相においては、結婚済みの兄弟たちは、兄弟姉妹たちと暮らす家から、外へ外へ、と分離される動きも体現している。結合しつつ分離する、分離と結合の均衡である。

*
ここでこの均衡を破るのが、姉妹の「姉」の方と、末弟との間で動く、過度な結合へと向かおうとする動きと、それに反発して過度に分離しようとする動きとの反復的な交代運動である。
ここでおもしろいのは、姉は弟と結合しようと、その距離を縮めるように接近していく。それに対して弟の方は姉から分離しようと、その距離を伸ばすように逃げる。追いかけるものと逃げるもの、結合しようとするものと分離しようとするもの。昔話の「三枚のお札」にもあるような、鬼ごっこの述語的様相である。
隠され分離される末弟と、そこに近づこうとする姉
末弟は「籠」に入れられて、「地下に」「隠され」る。
末弟は、姉から分離されるのである。
しかし姉は、末弟が隠されている穴の「近く」で「毎晩寝る」という形で結合しようとしてくる。
さらにはこの姉に、良縁と思しき結婚話(外の、別の家族のものとの結婚)が舞い込んだ時にも、姉はそれを無下に断り、言うに事欠いて、その結婚話を母親に譲るとまでいう。
娘の代わりに母親が、娘の許嫁と結ばれるとは。
夫/婦、男/女、老/若、こちらの家とあちらの家、さまざまな付かず離れずの均衡が、この姉の言動によってごちゃごちゃに引っ掻き回されている。経験的に分離しておくべきところが結合し、経験的に結合しておくべきところが分離する。
そうした分別の秩序(分離の仕方と結合の仕方の秩序)の混乱を引き起こしながら、姉は末弟と結合すべく、迫っていく。
隠された籠を開ける=結合、からの、遠方への脱出: 結合→分離
そしてついに、姉が末弟の隠された籠を地中から取り出して、開けてしまう。
ついに結合である!
ここで末弟は両親に訴え、この姉とひとつ屋根の下に暮らす状態そのものから分離すべく、「遠くの島」へひとり離れて暮らすことにする。
この神話についてレヴィ=ストロース氏は、過度な結合へと向かおうとする動きが「鮮やか」に語られていると評する。
「インセストを犯す姉は、外婚を取り結ばずに、かたくなに独身を通そうとする。愛する弟から離れたくないので、彼女は良い結婚相手を家族の家を離れることを拒む。それに対してM538-M539において彼女に相当する女は、正しい習慣が求めるように家を訪問するにとどまる。M540においては結局、インセストを犯す姉のプロフィールはよりくっきりとれ、そのために神話はより鮮やかな色を用いている。」
姉と末弟の間は、姉が自分達兄弟姉妹の生まれた家の地中に隠された末弟の入った籠を「開けた」時点で、過度な結合の様相が最高潮に高まる。
そこから一挙に転じて、末弟はついにこの生まれた家から出て、遠くの島へ移住する。末弟と姉との間は、距離によって遠く分離されたのである。
過度な結合から過度な分離へ。まさに「鮮やか」な分離と結合の伸縮である。
姉が末弟を探す: 分離→結合
さてこうなると、神話であれば、まだ改めて、過度な結合の様相へと引き戻されるはずである。
それが姉による末弟の捜索である。
姉は、妹がこっそり遠くの島へ食糧を運んでいることを知り、その島に末弟が隠れていることを見抜く。そして島へと向かうのである。姉が末弟の隠れ住む島へ向かうことで、過度に分離していた関係が、また過度な結合へと向かおうとする。
そして過度な結合へと向かう動きが動くと、すみやかにその逆、また分離の動きが出てくる。
末弟は、姉の到来を待たずに島を脱出するのである。
こうして姉と末弟の間はまた分離される。
籠、中空の葦でつくったカヌー
この島からの脱出を可能にしたのが「中空のアシでつくった魔法のカヌー」である。このカヌーは姉妹のもう一人の方、インセスト・タブーを侵そうとする姉に対する妹であり、末弟からみたら二番目の姉が魔法で作ったものである。末弟はこの二番目の姉とともに中空の葦でつくったカヌーにのり、島を脱出して、またもといた生家に帰ってくるのである。

見事な鬼ごっこである。
遠方の小島と生家。
この二地点の間を、姉と末弟が、あちらからこちらへ、こちらからあちらへ移動して、両者の間の分離を保とうとする。
両義的媒介項、過度な分離と結合の伸縮の述語的様相を引き受ける主語的なもの
そしてこの結合へと向かう動きを分離へと転じる述語的様相の転換を仮に引き受ける主語的なものが、もともとの「籠」であったり、「中空の葦でつくったカヌー」といった媒介項である。
籠(特に蓋を閉じることができる籠)は、内/外という経験的に鋭く対立する二極の間を自在に結合したり分離したりできる。
またカヌーも、地上世界とおなじく人間が呼吸して生きることのできる水面上の世界と、その中では人間は呼吸することのできない水中の世界のちょうど境界にあって、両界を分離しつつ結合し結合しつつも分離する動きを体現する。中空の葦というのもまさにストローのようなもので、水中に空気を取り込むことができるインターフェースになることができる。
内/外、生/死
どちらも経験的感覚的にきわめて根源的な分節であるが、籠やカヌーは、この分節を所与の分けられ済みの定まった固定的なものとして処理するだけでなく、この分節自体を分けたり分けなかったりする動きを体現できる。未だ経験的感覚的に意味ある世界の分節システムが定常化していない世界が起源する手前を語ろうとする神話の思考において、この籠やカヌーのような主語的なものがその動きとして体現することができる、対立二極を分離したり結合したり、自在に切り替えることができる述語的様相は、抽象的な動的構造に具体的イメージや語りを与えるために、実に適切な、ブリコラージュに向いた素材なのである。
ひざまずいて高速回転
さて、せっかく末弟の居所を突き止めて、結合しようと向かっていった姉は、妹の画策で、またまた結局弟から分離されたままになる。
この鬼ごっこをいつまで続けても、妹の魔法が効いている限りは、決して過度な結合モード(図2の1))は実現しないだろう、ということに姉も気づく。
図2でいうと2)や3)の動き(逃げたり追いかけたり)が繰り返すばかりである。
そこで、とんでもないやり方で分離と結合の伸縮モードを過度な結合(図2の1))に転じる。姉は自分自身を火おこしの錐のように動かして、世界を飲み込むほどの大火を引き起こすのである。
その大火の中で、兄弟姉妹の生家も、生家がある村も、みんな焼けてしまったと、神話は語る。
大火から逃れた村の住人が動物に変身
この際、「何人かの住民」は、炎上する村から逃げ出すことに成功するが、なんとその住民たちは「動物」になったというのである。
このエピソード、姉と弟の激しい動き方からすると、おまけというか、別に言わなくても良い瑣末な付け足しのように見えなくもないが、実は神話的には、この住民たちの「動物」への変身は、分離と結合の伸縮モードの大転換を示唆する書くことのできない語りなのである。
ここでいう「動物」は、私たちが現に知っている、経験的で感覚的な、現世に存在する動物である。図2でいえばΔとしての動物である。
動物は、この大火、火おこし錐のように高速回転した「姉」が引き起こした大火の中からはじめて起源してくるものなのである。逆にいうと、つまりこの神話の冒頭から登場している八人が暮らしている生家のある村では、そもそも
Δ人間 / Δ動物
この分節、区別も未だ分けられていなかったのである。
それもそのはず、Δ/Δの分別が定常化するのは、図2でいえば、6)の様相である。

そして、この炎上した村と生家は、もともと姉と末弟が鬼ごっこを続けているモードでは、図2で言えば1)〜3)の世界であった。そこでは人間/動物はもちろん、時間(いま/非いま)の分節も、空間(遠/近)の分節も、未だ分かれているでもなく分かれていないのである。
そしてそもそ、分離/結合、分かれていること/分かれていないこと、この区別さえもまだ分かれているでもなく分かれていないでもない、対を絶した、絶対無分節であった。
それがこの「大火」によって、1)〜3)のモードが、4)へと転換されたのである。
* *
分節言語で無分節の分節をシミュレートする神話
神話は人間の言語で語られる。
人間の言語は、それ自体が分けられ「済み」の分節システムである。
つまり、言語は
Δ→Δ→Δ→Δ→Δ→Δ→Δ→Δ→Δ…
という互いに分節済みの項を線形に配列して非同非異に繋いでいくことで(言い換えていくことで)、何事かを意味するということができている。
ところで神話はそもそもこの諸のΔを「起源」させようとしている。
Δは起源したからΔとして現れている。
もともとなかったものが、あるようになる。
このあるようになる動きを語るのが神話、起源神話である。
この際神話は、人間の言語という分けられ「済み」の仕組みを転用、流用、ブリコラージュして、分けるでもなく分けないでもない絶対無分節の境地(図2でいう1)〜3)あたりの動き)から、自在に多様な分かれ方が分かれ出てきたりまた消えていったりする様(図2でいう図2でいう4)から5)あたりの動き)を仮にシミュレートするように、表現しようとする。
脱出した村人が動物になる?
神話の語りも人間に「わかる」言葉で語られる以上、そこに登場する主人公やモノたち、つまり主語的なものたちは、すでに他のものと異なったものとして分けられ済みの姿をして登場せざるを得ないが、それらをくっつけたりひきはなしたり、分離したり結合したりする述語を激しく動かすことで、分けられ済みの言語というシステムを利用して、分かれるでもなく分かれないでもない、ありとあらる分節、意味分節の可能性が萌芽する意味ある世界の起源のざわめきを言葉で思考し、イメージしようとする。それが神話の思考ということなのである。

さて、「動物」が出てきたことで、神話は5)のモードに入ろうとしていることがわかる。引き続き、分離と結合の伸縮を見てみよう。
β=/=β
|| ||
/ /
|| ||
β=/=β
まず、兄弟姉妹や両親たちのうち、姉の起こした大火で焼かれてしまった人たちは、どういうものかはよくわからないが、それを数珠繋ぎにして首飾りにできる珠のようなのである「心臓」に変容する。
要するに、固まって、動かなくなっているのである。
この数珠繋ぎ、つまり輪っかになるように結ばれた心臓たちは、図2の4)のモード、付かず離れずに連なりあって円を内接(外接)させることができるように配置された両義的媒介項たちの姿である。
*
Δ ← β → Δ
さて、このその心臓の首飾り
β=/=β
|| ||
/ /
|| ||
β=/=β
を姉から奪い返すべく、逃げ延びていた妹がやってくる。
妹は姉の首を搔く。
とんでもない話である。
首が取れるとなると経験的な世界では非常に物騒なことであるが、しかし、神話の世界ではそれほどでもない。そもそもここで首を取られている「姉」は、経験的感覚的な現世で私たちが親しんでいるΔ女の人では全くなく、分離と結合の述語的様相を体現する両義的媒介項β姉である。
実際、取れた首は首だけになりながらも「悲しげな長い泣き声をあげ」て、つまり引き続き生きていて、そうして「ひとりでに身体にふたたびつながった」りしている。「転がる頭」である。
Δ ← β → Δ
そして神話では、この両義的媒介項自体を長く引き延ばして、それを二つに分離することで(首をかかなくても、頭皮を剥がしたり、髪の毛が抜けたり、靴を無くしたり、膝のできものが取れるのでもよい)、経験的感覚的に分節された存在者たち(図2でいうΔ)を発生させるということがしばしば行われる。
この神話の場合、一旦切り落とされて「Δ ← β → Δ」になったのに、また首の方から動いてきて「Δ → β ← Δ」に戻ったりしている。分離したら結合しないと気が済まない神話である。
β灰→ ←β姉(火おこし錐)
首切り方式「Δ ← β → Δ」では、安定したΔを定常的に維持できないとさとった妹は、今度は「灰」を「投げつける」ことで、つまりβ姉をβ灰に結合することで、β→Δ←β という処理によってΔ項を作り出そうとする。
すなわち、以下のような処理である。
β灰→ ←β姉(火おこし錐)
↓
Δ海鳥
灰というのは火の中から、火によって生み出される火と不可分一体に結合したものでありながら、同時に灰をたくさん投げつけると火は消えてしまう。まるで水をかけたようにである。
灰は火と不可分一体的に「同じ」ものでありながら、火と真逆に対立するものでもある。
そうした矛盾した述語的様相を体現する灰は、これまた古今東西の神話によく登場する両義的媒介項である。
そういう灰と、姉(火おこしの錐に変容していた、着火する述語的様相を体現する)とを、結合するのである。そうして燃える火としての姉は完全に消火されて、そして火と真逆に対立する「水」の世界に属するものであるΔ水鳥に変容するのである。
とはいえ水鳥は経験的感覚的に存在する存在者でありながら、同時に、空中の世界と水中の世界の間を行ったり来たり媒介することができる、分離を結合へと媒介する述語的様相を体現するものではある。
経験的で感覚的な世界のなかにその存在する位置を占めるΔ項に変容した後も、ひきつづき媒介する動きを失わないというのがこの姉の強いところである。
+ +
Δ起源の煮込み
そうして最後、妹は最後の魔法を使う。
まず焼け跡に生家を再建する。
そうして家族の骨を集めて「籠に入れて煮る」。

植物性の材料で作られた「籠」を火にかけたら燃えてしまうのではないかと思うところだが、これはどうやら、籠を直接火にかけるのではなく、目の詰まった籠の中に水を入れ、そこに焼石を放り込んで沸騰させて煮込むというやり方らしい。


煮込みというのは、固いものを柔らかくしたり、そのままでは食べられないものを食べられるようにしたりと、対立する二極の間で転換を引き起こす媒介作用を担う両義的媒介項である。
そしてここはまだ神話の世界、Δ分節が固着していない世界なので、骨を煮込むことで、その骨になった人たちの、生/死さえもひっくり返すことができるのである。
そしてその骨の煮込みの間、妹はおもしろいことに「筵」にくるまって、顔を隠す。顔を隠すとあえて書いてあるということは、尻の方は筵に車っていなかったのかもしれない。
そうしてじっくりことこと魔法の煮込みの結果、家族たちはみな生き返る。
β骸骨→ <<煮込む>> ←β籠
↓
Δ人間
また、妹は煮込まれていないので、このままだとβ魔法使いのままでΔ世界に生きられないはずであるが、どうやら「頭」を「筵」でくるんでつつみこむというβ結合術を使ったことで、
β筵→ <<くるむ>> ←β妹
↓
Δ妹
という具合にしてΔ分節が固まった現世の一角にその存在する場所を確保した者に変容する。
そうしてΔ化した家族たちは、おそらくこの現世、私たちが経験的によく知るこの人間たちの祖になったのであろう。
++

我々にとっての意味ある現実が、「AはΒである」式に“意味する”ことができることのうえに成立して…いや、定常的な振動から同じようなパターンの波紋が浮かび上がるように、あやうくかろうじて日々再生産されつつ浮かび上がっているとすれば、そこには次のような、
Δ = Δ
/ /
Δ = Δ
という形の意味分節の最小構成単位が安定的に、定常波が描く波紋のように浮かび上がり続けている。
この状態は、この神話が語るような分離と結合の伸縮から起源するのである。
そして神話が言語でもって語られる以上、この分離と結合の伸縮をシミュレートするために、すでに分けられすみ、分節済みの意味分節の最小構成単位たちを転用、流用、「ブリコラージュ」せざるを得ない。
そのために神話の語りは、経験的感覚的にそれ自体として他から区別されて「ある」と認識されるものたちを、例えば二つ、通常ありえないほど過度に結合して二つのまま一つにしたり、あるいは一つ、通常あり得ないほど過度に引き伸ばして一つのまま二つに分離したりする。
この結合したり分離したり、距離を縮めたり、引き伸ばしたりする動き=述語的様相は、経験的な私たちの自/他境界、「わたし」であることの輪郭を破ったり、開いたり、伸ばしたり、広げたり、そこに得体の知れない「他」を流し込んだりするために、反射的に第七末那識による分離反応を引き起こすのであるが、神話はおそらくあえてそうすることで、自/他の分別が定まる手前、すなわち自分たちがすでにあるようになる手前の「起源」を、語りうるようになるのである。
Translator's note on key terms
この記事は note の AI 自動翻訳による英語版が併存しています。訳語が段落ごとに揺れることがあるため、中核となる四語について、著者が意図する英語訳を以下に固定します。英語版の読者は、揺れた訳語をこの表に読み替えてください。 The English version of this article is produced by note's automatic AI translation, and the rendering of key terms varies between paragraphs. The four terms below are the author's fixed equivalents. English readers are asked to map any variant wording back to this table.
両義的媒介項(β)= ambiguous mediating term (β)
経験的に対立する二極の「どちらでもあり、どちらでもない」ものとして、両極の間を激しく往復する項。Lévi-Strauss の médiateur ambigu。
自動翻訳に現れる揺れ:ambivalent mediating term / ambiguous mediator結合 = conjunction
分離した二極を接近させ、ひとつに向かわせる動き。Lévi-Strauss の conjonction。
自動翻訳に現れる揺れ:combination / union / joining分離 = disjunction
結合した二極を引き離す動き。Lévi-Strauss の disjonction。conjunction と必ず対で読むこと。
自動翻訳に現れる揺れ:separation / detachment分節 = articulation
未だ分かれていないものに区別を入れ、「他ではないそれ」を切り出すこと。井筒俊彦の「意味分節」の標準訳。
自動翻訳に現れる揺れ:segmentation / division
派生形も同じ語幹で統一します / Derived forms follow the same stems:
無分節 → non-articulation/絶対無分節 → absolute non-articulation
意味分節 → semantic articulation/存在分節 → existential articulation
分別 → discrimination(分節 articulation とは別語。心が分けて選んで拘るはたらきを指す)
分離と結合の伸縮 → the expansion and contraction of disjunction and conjunction