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さよなら、ヘゲモニー

    世界が丸ごと蕩け堕ちたかのような日に、僕は部屋の片隅で綿埃を突つつき回している。

    健全な土曜の昼下がりに、ただひたすら埃と君の横顔とを見比べ微睡むというのは怠惰でも背徳でもなく、むしろ勤勉だと言ってもらいたい。

    君はもう、かれこれ一時間はこんな調子だ。
    炬燵にうずくまり、天板に顎を乗せ、唇を尖とんがらせている。
    咽喉のどからは苦悶とも憤怒ともとれる呻うめきが漏れている。
    目は座り、緩み蛇口の如く垂れ流される映像に「ケッ」と肺の膿を吐く。

    ──カタカタカタカタカタ……

    僕は咄嗟に左手で本棚を押さえる。

    ──カタカタカタカタカタ!

    両手で本棚の全てを抱きとめる。

    ──バン!

    「お前らの声なんかな、買ってもらったエフェクターでいきった中坊の出すしょうもねえオーバードライブみたいなもんなんだよ!」

    みかんの皮が五、六宙を舞い、君は真っ黒な目の下のまま拳を振るわせている。

    僕は微動だにしない本棚を抱き止めたまま、足元で絶命している橙色の皮を見つめる。

    「なあ!」

    ……一体僕は何をしているのだろう。

    「なんだ? “さよならヘゲモニー”って! いけすかねえ……どうせあれだろ! 真っ昼間にぶどうジュース飲みながら汚ねえTシャツに砂糖とカカオの成れの果てみてえなの擦り付けてパパとママにどやされながら書いたんだろ!」

    君は寝癖頭を振り乱して咆哮を続ける。

    僕は君の「いけすかなさ」の解像度の高さに慄いた。
    左心房の混乱が全身をめぐる。
    マヌケな姿勢のまま僕はつい、また君を見てしまう。

    ──さよならヘゲモニー
    (Tschüss!  Hegemonie!)

    「甘い! そんなんじゃさよならできないだろ!」
    君は左手でギリギリとみかんを握りつぶさんとしている。
    そのあまりにも細い指がかえって痛々しさを深くする。

    やめて……やめてください……
    なぜだろうか、なぜ僕は、みかんの気持ちを代弁しているのだろうか。
    刹那に湧き起こる絶望を脊髄反射で叩きのめす。
    しかし、僕は苦しい!

    ──さよならヘゲモニー
    (Tschüss!  Hegemonie!)
    情感たっぷりにハーモニカが泣く。

    「ヘゲモニカめ! クソッタレが!」

    君が画面に向かって人差し指を向けたその瞬間、ややくぐもった硬い音が響いた。

    天板を転がり落ちるマグカップ。

    途端、封印を解かれたように左肩甲骨を目指す右肘と上昇していく左肩に狼狽しつつも、頭で思うより滑らかに右足を引き込んでいた。

    僕の悶絶などお構いなしに銀のボウルをかき混ぜていた後ろ姿の立ち上がった前髪、そして黒縁の眼鏡の曇り、半開きの口、持ち上げたヘラから滴る艶やかなとろみ、こだわりの黒きエプロン、二年は履いていそうな靴下……

    そしてその手前で依然として人差し指を振るわせている君の横顔。

    途方もない時間をかけて、それこそ世界の溶け落ちるのを無関心に傍観するような、諦念にも似た景色を眺めていた。

    ──さよならヘゲモニー
    (Tschüss!  Hegemonie!)

    次に僕が見たのは、黒に染まりゆく灰だった。
    じっとりと腕にまとわりつく布地の気味の悪さ。
    右肘から全身へと広がっていく綻びの如き痛み。

    「何回言うんだ! ああ! お前らの前途なんて茫洋だ! 茫洋であれ! 茫洋であるべきだ!」

    君は理不尽を撒き散らし、床を踏み鳴らす。
    その度に転げたマグカップが小刻みに揺れる。

    あれほどやめてほしいと言ったじゃないか……
    下の階には……

    やめよう……
    ああ……
    甘い甘い、脳のどろどろになるような疲労が押し寄せた。

    歪んだギターと物哀しいハーモニカに飲み込まれかけたその瞬間とき。

    そこに、君にだけは絶対に見られてはならない不都合な真実を見つける。

    それが「さよなら」と去るのを断じて許さぬ速度で僕は捕まえた。
    思考回路を半周、否、何千何万周も追い越して。

    とはいえ、その粒子の如き時間の中には嬉々として黄色に赤字のレコードショップから出てきた火曜日の僕がいて、さらにそれを呪う僕がいる。
    そのまたさらに、呪いを袖で床を拭いている僕がいる。

    そして、罪の意識に濡れた腹に……
    いいや、いくらなんだって格好つけすぎだ。
    ヨレたスウェットと可哀想なほどの痩せ腹の間にそいつを仕舞い込んだのだ。

    ひんやりと腸が冷やされていく。
    安堵からか落ちてくる瞼。
    暗転する手前、湯気と眼鏡のレンズの奥で深く頷く瞳と視線がぶつかった。

    束の間、世界は停止した。

    「上履きの踵すら踏み潰したことないくせに!」

    君の「いけすがなさ」の解像度はどんどん下がっていく。

    しかし、そんなことはもうどうだってよかった。

    甘い甘い、砂糖とカカオの成れの果てに前頭葉を貫かれ声無き慟哭は滑らかに溶けていく。

    ──さよならヘゲモニー……

    あまりの静けさに目を覚ます。
    チョコレートフレイバーの冷気が僕の気管を冷やす。
    むず痒さに咳払いをひとつ。

    すっかりゴミ箱に収まっているみかんの皮と、朝よりも整った台所とが間違ったメランコリーを連れてくる。

    すっかり陽は落ちている。
    向かいからのもらい灯に、浮かび上がる文字を見る。

    飄々とした「召し上がれ」、そして意地っ張りな「食え」。

    砂糖とカカオは随分とよく成れ果てている。

    ひとつは薔薇型、ひとつは肝を試すようなもの。

    一口、二口と舌で溶かせば、甘いやら苦いやら。
    僕は窓の外、星を二、三数えてあとはもう諦めた。

    ふう、とため息をついた後、再び目を閉じつぶやいた。

    ──さよなら、チョコレート……

    街はまだ、固まり切らずに蕩けているのだろう。

    ↑
    これの人たちのバレンタインの話です。

    ↑
    そろそろ山場ですよ。

    ↑
    底抜けにふざけている!

    ↑
    ゆきお様・作
    YukiO the Beat
    YukiO's beat
    ノッてけ!ノッてけ!
    暴れろ、暴れるんだ!
    止まるな、溶け落ちるんだ!
    そのリズムに揺れ溶け落ちて液体となれ!

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    ラブラドールの匂いで肺を満たしたいアラウンドサーティ。 9歳児に親育てされている本末転倒人間。 文字に嫌われた人間が、しつこく文字を掻き集める滑稽な姿を東京の片隅からお送りしております。 ※連載小説も基本的には一話完結として読める構成を目指しているので、おじけづくことなかれ。

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