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AI時代の創作メモ|人が減ったのはダッシュボードの影響か。創作を続けるには何を大切にすればいいのだろう(#創作論 #Web小説 #note #エッセイ #書籍化 #生成AI #画像生成AI)

    最近、noteの「フォロー数」が減っていることに気づきました。

    フォロワーではありません。
    私が誰かをフォローしている人数の方です。

    こんにちは。こんばんは。
    普段はラノベを書いている「うら表紙」と申します。

    自分がフォローしていた人が退会し、
    アカウントそのものがnoteから消えた。

    もちろん、その人たちがなぜnoteをやめたのかは分かりません。
    ただ、時期的に気になったことがあります。

    新しいダッシュボードです。

    「実際にはどれくらい読まれていたのか」
    が、以前よりはっきり見えるようになりました。

    そこで、ショックを受けた人もいると思います。
    私も7日間のページビューを一日分と勘違いしていたくらいです。

    もしかしたら、
    それまで自分が思っていた「読まれている感覚」と、
    新しく見えるようになった数字との差を見て、

    続ける意味を見失ってしまった人もいるのではないか。

    フォロー数が減ったのを見ながら、
    そんなことを考えました。

    数字を見て傷付く感覚そのものは、すごく分かります。
    私も数字を見る人間だからです。

    PVが少ない。
    スキが少ない。
    フォロワーが少ない。

    すると、記事だけじゃなく、
    それを書いた自分まで小さくなったように感じることがあります。

    さらに厄介なのが、
    「数字を気にしている自分って俗っぽいな」
    という、もう一段上の恥ずかしさまでついてくることです。

    でも、
    数字が目の前に並んでいたら気になるのは普通だと思うんです。
    人間なので。

    それで、数字にのたうち回っているうちに思ったことがあるんです。

    その数字は、そもそも何を測るための数字なんだろう、と。

    インプレッション。
    ページビュー。
    再生数。
    フォロワー数。

    こういう数字は、今の世の中ではとても重要とされています。

    なぜなら、
    たくさん表示される。
    たくさん再生される。
    たくさん人が集まる。

    それによって収益が生まれる仕組みがあるからです。

    その中の価値観においては、

    「たくさん見られるものほど価値が高い」

    という考え方が、とても合理的になります。

    でも、
    ここで一回立ち止まって欲しいんです。

    その数字は、
    プラットフォームにとって価値があるものを測る物差し
    ではあっても、

    私にとって良い文章とは何かを決める物差しではない
    はずなんです。

    それなのに、なぜか自分の文章を測る物差しにしてしまっている。

    数字に意味がないわけではありません。

    でも、ページビューが測っているのは、
    「どれだけ開かれたか」です。

    「私はこの文章を書けて満足しているか」ではない。

    スキが測っているのは、
    「どれだけ反応されたか」です。

    「この文章を残せてよかったと思えるか」ではない。

    結局、何を見るかは
    どこにプライドを置くかで変わると思うのです。

    たとえば私が
    「この記事はできるだけ広く読んでほしい」
    と思ったとします。

    その時は、
    多くの人が関心を持ちそうなテーマを選びます。

    そして、クリックしてもらえそうなタイトルを考える。
    入口を分かりやすくする。
    読者さんが選びやすい形にする。
    数字を見て、どこが届かなかったのかを考える。

    一方で、
    「これはどうしても書いておきたい」
    という文章があったとします。

    その時は、
    どうやればそれを言語化できるのか。
    それは自分が好きだと思える文章になっているか。
    自分が残したかったものが残せているかを考える。

    この場合、
    ページビューが小さくても、
    インプレッションが少なくても、
    本来、気にする必要はないはずです。

    目的が違うのですから。

    ここを混ぜるから
    ものすごく苦しくなるんだと思います。

    本当は広く読まれたかった文章を、
    「書けたから満足」で終わらせたら、
    自分が欲しかったものをごまかすことになる。

    逆に、
    どうしても書きたかった文章を、
    「ページビューが少ないから失敗」
    としたら、
    今度は数字に、自分の目的そのものを書き換えられてしまう。

    自分が何を欲しかったのかを自分自身が自覚していない時、
    私たちはつい、誰かの物差しに自分をあてはめてしまいます。

    本当は、
    「たとえ読まれなくても、これは書きたかった」
    と思っていたのに、

    いざ投稿すると、PVを見て、
    「こんなに読まれないなら書かなければよかった」
    と思ってしまう。

    ……ありますよね。
    私はあります(笑)

    この苦しみって、単に結果が悪いからというよりも、
    自分がそれに何を求めていたのかを、自分自身が定めていないから苦しい
    のだと思います。

    何が欲しかったのかが分からなければ、
    どんな結果が出ても満足できません。

    PVが伸びても、「スキが少ない」と思う。

    スキが多くても、「もっと読まれたかった」と思う。

    一人に深く届いても、「でも数字は小さい」と思う。

    逆に数字が伸びても、「本当に書きたかったものとは違う」と感じる。

    自分の物差しが決まっていないから、
    結果が出るたびに、
    その場で別の誰かの物差しを持ち出してしまう。

    それでは、どんな結果でも心は苦しいままです。

    だから私は何かを書く前に、
    「この文章で、自分は何が欲しいのか」
    を明確にするようになりました。

    広く読まれたいのか。
    自分の考えを残したいのか。
    誰か一人でも届けばいいのか。
    その全部なのか。

    目的は毎回違っていい。
    でも、発信する前に、書く前に、それを決めておく。

    おそらく、
    私たちが苦しんでいるのは、数字が小さいことではなく、

    自分が何を欲しかったのか分からないまま、結果だけを見て自分を採点し続けること

    なのだと思います。

    自分の作品を、何をもって成功と呼ぶのか。
    そこくらいは、
    自分の心のために自分で決めてもいいんじゃないかと思っています。


    あとがき:
    数字と価値って、同じようで本当に違うんですよね。私はYouTubeで古民家再生などを見るのが好きなのですが、以前、東南アジアの森で一から家を建て、自然と暮らす海外動画に夢中になりました。再生数は400万超え。でも途中から「スコップだけでこんな道できる?」「土壌改良なしで作物って育つ?」と気になり、調べてみたんです。すると、実際には制作会社が重機やセメントを使って大掛かりに建築し、撮影後はその場を放置。環境破壊や動物虐待が問題となり、摘発されているのだと知りました。あんなに癒やされていた映像が、一瞬でつらいものに変わりました。ああいう動画を好むのは、きっと自然が好きな人たちです。その気持ちを利用して、本質とは真逆のことをしていた。その再生数の一つに自分も加担していたことが、何より悔しかったです。

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    また明日の投稿でお会いしましょう。
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    ── 創作純喫茶「ミケ」のドアを開ける。

    カランコロン

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    創作純喫茶ミケの看板娘“みっちゃん”
    ※セリフがバグっています。正しくは「むぅ……なんかうまくできないです。」

    明日も創作純喫茶ミケでお待ちしております♪

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    書籍化作家で、マーケター歴20年。 なのに中身はだいぶ繊細気質。 創作の裏側や、読まれる仕組み、時々ちょっと人生の話。 うまく言えない感情を、言葉にしていく場所です。

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