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すごい答えより「私もわからなかった」の方が届く。文章はもっと普通の場所から書いていい|書籍化ログ(#創作論 #note #はじめてのnote #noteの書き方 #エッセイ #メンタル)

    こんにちは。こんばんは。
    普段はラノベを書いている「うら表紙」と申します。

    生々しい告白をすると、noteを始めたばかりの頃、

    私は結構本気で、

    「ここではオブラートに包まれた優しさだけが求められていて、誰もちゃんと理解しようなんて思っていないんだ」

    と思っていました。

    そして、
    「だから、私の言葉は必要とされていないんだ」
    と。

    今思えば、失礼な話ですよね。

    そんなんだから読まれないんだよ。
    と、今なら思います(笑)

    でも、決してnoteをバカにしていたわけではありません。

    むしろ逆でした。

    当時の私は、
    今よりずっと丁寧に記事を書いていました。

    ものすごく考えて、調べて、
    何度も文章を直して、

    「これは絶対、誰かの役に立つ」
    と思えるものを書いていました。

    文字数も今よりずっと多かったです。

    とにかく、ちゃんとしたものを書こうとしていました。

    それなのに、全然読まれませんでした。

    ●数字が少ないことより、期待した自分が恥ずかしかった


    note初期って、本当に驚くほど読まれませんよね。

    今日は結構いいものが書けた。
    もしかしたら、
    少し反応があるかもしれない。

    そんなことを思いながら通知を見る。

    何もない。

    数字が少ないことも、もちろんつらかったです。

    でも、
    私が一番つらかったのは、

    「読んでもらえるかもしれない」
    と期待した自分でした。

    期待していた自分だけが、その場に取り残される感じ。

    「ああ、私、自分の記事が読まれると思ってたんだ」
    と気づく。

    それが、ものすごく恥ずかしかった。

    何度もありました。

    夜になっても気持ちが切り替えられなくて、
    深夜2時、3時まで、
    AIにずっと愚痴を言っていたこともあります。

    「自分だけ必死でバカみたい」
    「ここで書く意味あるのかな」

    そんなことばかり言っていました。

    するとAIは、

    「あなたの価値は数字では決まりません」とか、
    「それだけ本気で向き合っている証拠です」とか、

    それらしいことを返してくれる。

    でも、当時の私には、
    何の慰めにもならなかったんですよね。

    「そういうことじゃないんだよ……」
    と思いながら、またため息をつく。

    あの頃の気持ちは、今思い出しても結構つらいです。

    ●今、同じようにつらい人がいるかもしれない


    最近、noteのダッシュボード表示が変わりました。

    これまでより、
    PVなどの数字がかなりはっきり見えるようになりました。

    始めたばかりの方ほど、
    「え……こんなに少ないの?」
    と驚いているかもしれません。

    けれど、数字は気にしなくていいですよ。
    と、私は言えません。

    自分が散々気にしてきたからです。
    見なきゃいいと言われても見る。
    比較しなくていいと言われても比較する。

    スキが欲しい。
    読まれたい。

    誰かに「これ、よかった」と思ってほしい。

    それは、別に悪いことではないと思っています。
    ただ、昔の自分を振り返って、ひとつだけ気づいたことがあります。

    ●でも、私は「読者のため」に書いていたつもりだった


    ここが、少しややこしいところです。

    当時の私は、
    自分勝手に記事を書いているつもりなんて、
    まったくありませんでした。

    むしろ、
    本気で読者さんのことを考えていました。

    誰かの役に立ちたい。
    だから、間違ったことを書くわけにはいかない。
    そのためにはちゃんと説明したい。

    読んだ人に、
    何かひとつでも明日から実践できるものを持ち帰ってほしい。

    そう思っていました。

    だから、
    ものすごく丁寧に書いていたんです。

    では、そんなに読者さんのことを考えていたのに、
    なぜ届かなかったのか。

    最近になって、少しわかってきました。

    違っていたのは、丁寧さではありませんでした。

    丁寧さの視点

    だったんです。

    ●昔の丁寧さは「私をちゃんと理解して」だった


    当時の私の記事を思い返してみると、とにかく説明が多かった。

    「これはこういう意味です」
    「誤解しないでほしいのですが」
    「もちろん例外もあります」
    「ここで言いたいのは○○ではありません」

    自分では、親切にしているつもりでした。

    でも、今考えると、
    その丁寧さの中にかなり自分がいました。

    誤解されたくない。
    ちゃんと考えている人だと思われたい。
    正しいことを書いているとわかってほしい。
    役に立つ人間だと思われたい。
    価値のある記事だと思われたい。

    ここまで考えて書いたのだから、ちゃんと受け取ってほしい。

    もちろん、当時はそんなふうに自覚しながら書いていません。

    ただ、

    「読者さんのために丁寧に書いている」

    と思っていました。

    でも、文章の視線は明らかに、
    読者さんではなく、

    「読者さんから見られている私」
    へ向いていたんだと思います。

    読者さんのために書いているつもりで、
    ずっと自分を見ていた。

    これって、自分ではものすごく気づきにくいです。

    だって、文章は丁寧だから。
    手も抜いていない。

    むしろ、誰より真面目に書いている。

    だから、届かない理由がわからない。

    ●承認欲求があるからダメとは限らない


    「スキが欲しい」
    「認められたい」

    と思うと、自己顕示欲の強い文章になる。

    そういう話ではありません。

    むしろ逆です。
    承認されたい気持ちが強いほど、
    ものすごく丁寧になっていきます。

    誤解されたくないから、説明する。

    批判されたくないから、例外を書く。

    頭が悪いと思われたくないから、ちゃんと論理を積む。

    役に立たないと思われたくないから、断定する。

    そうすると、文章の完成度は上がるかもしれない。

    でも、読者さんへ近づいているかというと、
    別なんですよね。

    私は、ここをずっと勘違いしていました。

    丁寧に書くことと、相手を見ることは、
    同じではありませんでした。

    ●読者を見ることは、媚びることではない


    こういう話をすると、

    「読者の顔色を見ながら書けってこと?」

    と思われるかもしれません。

    私は、半分正解で半分間違いだと思っています。

    読者さんが喜ぶことだけを書く。
    反対されそうなことは言わない。
    誰にも嫌われないようにする。

    それも一つの方法ですが、今回の話とはちょっと違います。

    たとえば、
    進路に迷っている学生がいたとして、

    先生から、

    「君の成績ならこの学校がいい」
    「ここは〇〇の部活が強いから」
    「ここは〇〇の学科が充実している」

    と、正しい情報をたくさん教えてもらう。
    もちろん、それは大切なことです。

    でも、本当に自分の気持ちを整理できたのは、

    放課後に友達と、

    「結局どうするの?」
    「わからないんだよね…親はこっちに行けって言うんだけど」

    なんて話していた時間だった。

    そういうことってあると思うんです。

    友達のほうが、
    進路について詳しかったわけではありません。
    正しい答えを持っていたわけでもない。

    ただ、こちらが迷っている場所まで来て、
    一緒に悩んでくれた。

    だから、その会話のほうが自分の中に残る。

    文章も、似ているのではないかと思っています。

    昔の私は、「役に立たなければ」と思うあまり、
    先生の側に立とうとしていました。

    正しいことを言わなきゃ。
    間違いなく説明しなきゃ。
    ちゃんと答えを出さなきゃ。

    そうやって、相手がまだ迷っている場所から、
    どんどん先へ行ってしまっていた。

    でも、相手が欲しいのは、
    必ずしも完璧な答えとは限らないんですよね。

    「それ、私もわからなかった」
    「私もそこでつまずいた」
    「私はこうだったけど、あなたはどうだろう」

    そうやって、同じところから考えることのほうが、
    届くこともある。

    それは、読者さんに媚びることとは違います。
    自分の考えを曲げることでもありません。

    ただ、
    自分がどれだけ正しいかを証明する前に、
    相手がどこにいるのかを見る。

    昔の私は、
    それがほとんどできていなかったんだと思います。

    ●「これだけ書いたのに、なぜ伝わらない?」


    昔の私は、よく思っていました。
    「なぜ伝わらないんだろう」と。

    今なら、少しわかります。

    「これだけ書いたのだから伝わるはず」
    というところに、すでに自分がいたんですよね。

    自分がどれだけ考えたか。
    自分がどれだけ丁寧に書いたか。
    自分がどれだけ時間をかけたか。

    それは、読者さんには関係ありません。

    読者さんが受け取るのは、こちらがかけた時間ではなく、
    目の前にある文章だけです。

    たぶん、昔の私は、

    一生懸命書いた自分ごと、
    読者さんに受け取ってほしかったんだと思います。

    だから、反応がないと、
    記事が読まれなかった以上に、
    自分まで否定されたように感じていた。

    それで、あんなに苦しかったのかもしれません。

    冷静に考えてみると、読者さんに、
    自分まで受け取ってもらおうなんて贅沢過ぎますよね。

    ●数字を欲しがってもいい。でも、ときどき見る方向を確認する


    今でも、私は数字を見て一喜一憂します。

    スキが多ければうれしいです。
    PVが伸びれば、普通に喜びます。
    反応がなければ、普通にへこみます。

    だから、承認欲求なんて捨てましょう、
    とは絶対に言えません。

    私には無理です。

    でも、ひとつだけ、
    昔より気をつけるようになったことがあります。

    記事を書いている途中で、
    「今、私は誰を見ているんだろう」と考えることです。

    相手の負担になるほど伝えすぎようとしていないか。
    自分を理解してもらうことを優先していないか。
    誤解を恐れて正しさに固執していないか。
    価値がある人間だと思われようとしてないか。

    「私を見て」になっているのか。
    それとも、相手の視線に向いているのか。

    昔の私も、今の私も、
    丁寧に書こうとしていることは変わりません。

    でも、その丁寧さが向いている方向は、変わった気がしています。

    ある日突然変えようと思ったわけではないんです。
    読まれないnoteを書きながら本当に少しずつ変わっていったような気がします。

    だから、文章が届くかどうかを左右するのは、
    技巧よりも、むしろ書く時のメンタリティなのかもしれません。

    もし、noteを書いていて苦しくなったとき、
    数字を見るな、とは言いません。

    だって、見たくなくても見えちゃいますからね。
    となりに並ぶ記事と自分の記事、どうしても見比べちゃいます。

    ただ、そのときちょっとだけ、
    この記事のことを思い出してほしいんです。

    今、自分の文章は誰を見ているだろうか、と。

    その方向に気づくだけで、
    少しだけ書き方が変わることはあると思います。
    それで、少しだけ書くのがラクになればうれしいです。


    ●創作がつらくなったら、うら表紙のnoteへ

    ●サクッと読める毎日note(日替わり猫ちゃん付き♡)

    ●中の人はこんな感じです

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    また明日の投稿でお会いしましょう。
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    書籍化作家で、マーケター歴20年。 なのに中身はだいぶ繊細気質。 創作の裏側や、読まれる仕組み、時々ちょっと人生の話。 うまく言えない感情を、言葉にしていく場所です。

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