
プロの評価と読者需要は、もう同じ方向を向いていない。私たちは、どこを目指して書けばいいのだろう|書籍化ログ
先日、私の電子書籍が読めなくなりました。
正確には、私がKindle以外で唯一利用している「コミックシーモア」が不正アクセスを受け、サービスを停止したのです。
このnoteを書いている時点でも、正確な再開日時はまだ発表されていません。
私の周囲ではクレカよりも、
「腐った本棚が流出したら社会的に終わる」
という別方向の恐怖に震えている人たちがいました。
すっごいわかる。
かくいう私も、決して胸を張って人様にお見せできるような本棚ではありません(笑)
こんにちは。こんばんは。
普段はラノベを書いている「うら表紙」と申します。
●買った本なのに、今日は読めない
最近はRenta!も不正アクセスの可能性からサービスを停止し、ゲオでも第三者による不正アクセスを受けて一部サービスが停止しています。
つい先日も高市首相がPHPについての注意喚起をXでポストしたばかりです。
お金を払って買った本なのに、プラットフォームが止まれば読めなくなる。
電子書籍はとても便利ですが、「本と私」の間にはサービスを提供する仕組みが存在しています。
私は創作市場にも、これとよく似た構造があると思っています。
作品は作品だけで評価されているように見えて、その間にはランキング、アルゴリズム、レビュー、SNS、公募、選考委員、書店と、いくつもの仕組みが存在している。
しかも、それぞれが同じものを測っているわけではありません。
私は、創作市場では「一つの物差しで作品の価値を測る」という前提そのものが、だんだん壊れ始めていると思っています。
●ランキングの数字は、作品だけを測っていない
Web小説にはランキングがあります。
読まれた数や評価が数字になり、上位へ行けばさらに多くの人の目に触れる。
とても分かりやすい仕組みです。
その一方で、作品の認知を広げるために読み合い企画へ参加する人もいます。
最近は、その読み合い企画ですら不正をめぐって賛否が過熱しているのを見かけました。
作品を知ってもらうための仕組みも、参加者が増えて攻略法が共有されれば、「その仕組みの中で数字を取るゲーム」としての性質を強めていきます。
以前の記事でも、Webのアルゴリズムが評価する「読まれる作品」と、出版社が「本にしたい」と考える作品では、すでに評価軸が分かれていると書きました。
ランキングが測っているのは、そのプラットフォーム、その表示方法、その読者層の中で、どれだけ反応されたかです。
数字は数字でも、測っている範囲があるんですよね。
●プロが選んでも、「売れる作品」になるとは限らない
先日、ノベル大賞の選評を読んでいて、選考委員が高く評価しているものと、実際の市場で読者が選ぶものはどれくらい重なるのだろうということが気になりました。
そこで2015年から2024年まで、大賞・準大賞・佳作に選ばれた22作品について、刊行後の動きまで実際に追ってみたんです。
すると、かなり興味深いことがわかりました。
公開されている一次資料で確認できた範囲では、明確な重版実績が確認できた作品は22作品中3作品。複数巻まで展開したものは3作品で、累計10万部以上を確認できた作品は1作品、大規模な映像化まで進んだ作品も1作品でした。
もちろん、重版の告知がないから売れていないとは言えません。
この数字はあくまで外から確認できた下限です。
ですが、累計1,000万部を超えるヒットを連発しているweb初の書籍化作品と比べると、その実績はかなり小さく感じてしまいます。
ところが、これにはもう一つ面白い数字があります。
受賞作そのものの大きな市場成果は一部に集中していた一方で、その後も商業作品を刊行し続けている受賞者は、確認できただけでも22人中16人いました。
つまり、ノベル大賞の選考が見抜いていたものは、「この一冊が今の市場で爆発的に売れるか」よりも、「この人が商業作家として書き続けられるか」に近かった可能性があります。
これは失敗ではなく、そもそも測っているものが違うんですよね。
ランキングは現在の読者反応を見る。
新人賞は、まだ市場データのない原稿から文章力や構成力、企画への対応力まで含めて作家を選ぶ。
同じ「評価」でも、物差しの目盛りそのものが違います。
●『国宝』と『ちいかわ』は、「誰でも楽しめる」で終わらない
一方で、大きく広がる作品には、一つの物差しに閉じない強さがあります。
私は映画『国宝』と『ちいかわ』には、かなり似た仕掛けがあると思っています。
もし『国宝』が「歌舞伎」を主役にして、その専門性を理解することを入口にした映画だったなら、ここまで多くの人へ届かなかったでしょう。
本筋にあるのは、誰でも理解できる人間ドラマです。
でも、それだけではありません。
その奥に歌舞伎があり、芸の世界があり、血統と才能があり、嫉妬があり、恋愛があり、親子があり、それらを支えてきた文化的な背景まで重なっている。
専門知識がなくても物語として成立するのに、考えながら見る人がさらに踏み込んでも薄くならない。
ここが大きいのだと思います。
『ちいかわ』も同じです。
表面だけなら、小さくてかわいいキャラクターたちが、ご飯を食べたり、働いたり、友達と遊んだりする作品として十分に楽しめます。
ところが、その世界には労働があり、資格があり、格差があり、死や捕食があり、自分ではどうにもできない理不尽まで存在しています。
かわいいだけでも成立している。
でも、世界観を深く考察する人が、さらに読み込んでも耐えられるだけの厚みがある。
だから、難しいものを求めていない人にも届くし、単純なものでは物足りない人にも残る。
ちなみに私は、くりまんじゅう先生の飲食シーンが何より好きです。
くりまん先生が飲んだり食べたりしているショートだけを集めた動画を、延々と見ていられます(笑)
誰でも受け取れる本筋があり、その奥には「わかる人が見ても薄まらない」ものがある。
この両輪が噛み合った時、作品は異なる読者層や評価軸をまたいで、大きく広がるのではないかと思っています。
●ランキング、新人賞、書店では「良い作品」の意味が違う
ランキングは、その場所でどれだけ反応されたかを見る。
新人賞は、まだ市場へ出ていない作品や書き手の可能性を見る。
書店や電子書籍市場では、実際にお金を払って選ばれるかが問われる。
そして『国宝』や『ちいかわ』のように、一つの作品が複数の読者層から別々の楽しみ方を見つけられることもあります。
同じ創作市場の中にありながら、それぞれが測っているものはかなり違います。
芸術として評価される作品。
文化として残る作品。
多くの人を楽しませる娯楽。
そして、短い時間で強い快楽を与える作品など。
同じ「創作」と呼ばれていても、求められる場所も、そこで使われる評価基準も、すでにかなり違っています。
それなのに私たちは、ランキングも、選評も、売上も、すべて作品そのものの「価値」を測る一つの物差しのように受け取ってしまう。
もしかすると、創作をめぐる苦しさの一部は、ここから生まれているのかもしれません。
だから、創作市場全体を眺めて「自分の作品にはどれくらい価値があるのか」を考えるよりも前に、自分の文章はどのフィールドで評価されたいのか、どこなら一番力を発揮できるのかを考える。
これまで以上にシビアに、自分の文章の居場所を探すことが大切になってくるのかもしれません。
私はやっぱり異世界テンプレが好きなので、テンプレ市場のランキングというフィールドでの勝負になるかなと思っています。
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