
自他境界ってなんだ?
この記事では、自他境界の話をしようと思う。
読者の皆さんは、自他境界について考えたことがあるだろうか。
noteの層を考えると、意識している人も多いのかもしれない。
そもそも、自他境界とは何なのだろうか。
簡単に言えば、自分と他人を分ける心理的な境界線のことだと思う。
どこまでが自分の感情なのか。
どこからが相手の感情なのか。
どこまでが自分の責任なのか。
どこからが相手の課題なのか。
どこまでが自分の意思で、どこからが他人や社会から流れ込んできたものなのか。
その線引きが、自他境界なのだと思う。
少し話は逸れるが、エヴァンゲリオンで庵野秀明が描いたATフィールドは、かなりこれに近いような気がする。
ATフィールドは、他者と自己を分ける壁のようなものとして描かれている。
そして人類補完計画は、その境界線をなくし、全員が一つの個のようになれば、孤独や痛みやすれ違いから解放されるのではないか、という話にも見える。
もちろん、これは僕なりの解釈である。
ただ、自他境界というものを考えるうえで、エヴァのATフィールドはかなり分かりやすい。
人間は、自分と他人が分かれているから苦しむ。
分かり合えないから傷つく。
相手の気持ちが完全には分からないから不安になる。
自分の気持ちが相手に伝わらないから孤独になる。
だから、全部溶けて一つになれば楽になるのではないか。
そう考えると、人類補完計画はかなり自他境界の話に見える。
ただ、面白いのは、その計画を実行しようとしたゲンドウ本人は、むしろものすごく自他境界が強いというか、固い人間に見えることだ。
他人に踏み込まれることを恐れ、弱さを見せられず、人との関わり方がかなり不器用で、結果的に補完という形でしか他者とつながれない。
そう考えると、自他境界は弱ければいいとか、強ければいいという単純な話ではない。
問題は、それを自覚して運用できているかどうかなのだと思う。
僕は普段生活している中で、特段「自他境界」を意識しているわけではない。
ただ、自分の言動や人の言動を後から振り返ると、
「あれは自他境界に反応していたのかもしれない」
と思うことがよくある。
僕はたぶん、自他境界が強い方だと思う。
少なくとも、自分の輪郭はかなり強い。
自分の中にあるルールや価値観を、周りの空気で簡単には変えられない。
誰かがやっているから自分もやる、という感覚もかなり薄い。
薬物に手を出さないのもそうだし、酒やたばこと距離を置いているのもそうだと思う。
周囲のノリに自分を溶かすことに、かなり抵抗がある。
ただ、僕の自他境界で一番特徴的なのは、感情的に他人に溶けることではない。
むしろ、他人の言葉や思考の中にあるズレを、かなり細かく検知してしまうことだと思う。
たとえば、自分自身の言葉でも、
「あれ、今使っているこの言葉は、本当に自分の言葉なのか」
と思うことがある。
さっき見た情報の言葉を、そのまま自分の考えのように使っていないか。
誰かが使っていたフレーズを、自分の感情に貼り付けているだけではないか。
本当に自分の中から出てきた言葉なのか。
それとも、どこかから借りてきた言葉なのか。
僕はそういうことがかなり気になる。
僕は車輪の再発明がわりと好きな人間だ。
自分で言葉を作って、あとから本や記事の中で同じような概念を見つけて、
「ああ、これもうあったんだ」
となることがよくある。
効率は悪いのかもしれない。
でも、自分で考え、自分の中から言葉を作る感覚が好きなのだと思う。
だからこそ、人が話している言葉を聞いていても、かなり気になってしまう。
この人は本当に自分の言葉で話しているのか。
それとも、どこかで見た情報を、自分の意見だと思い込んで話しているだけなのか。
現代では、大量の情報が常に流れ込んでくる。
TikTok、YouTube、X、Instagram、ニュース、切り抜き、ショート動画。
僕たちは毎日、意識している以上に他人の言葉を浴びている。
そして社会を観察していて思うのは、人の思考、そして自分の思考ですら、本当に自分のものなのかかなり怪しいということだ。
特にショート動画のような情報は、かなり危うい。
短く、強く、分かりやすい言葉で、感情ごと頭に入ってくる。
すると、その情報の出どころを忘れたまま、自分の意見のように感じてしまうことがある。
本人も、その言葉がどこから来たのか意識していない。
だから本気で、自分が考えたこと、自分の価値観、自分の意見だと思い込む。
普段の会話では、それでも問題にならないのかもしれない。
でも、僕みたいな人間に出会うと、そこで初めて矛盾を突かれる。
「それは本当にあなたの意見なのか」
「その前提と、この結論はつながっているのか」
「その言葉を使っているけど、意味まで理解しているのか」
そう聞かれた瞬間に、理論が崩壊することがある。
本人が自分の意見だと思って発している情報に対して、少し反論したり、矛盾を突いたりすると、急に黙ったり、話題を変えたりする。
それは、その人が悪いというより、自分の言葉と他人から流れ込んできた言葉の境界が曖昧になっているのだと思う。
これは、感情や人間関係でもよく起きる。
自他境界が甘い人の話を聞いていると、主語が誰なのか分からないことがある。
誰の目線で話しているのか。
誰の感情を語っているのか。
誰の責任を扱っているのか。
それが分からなくなる。
自分の感情を相手に当てはめて、勝手に予測して話している。
しかも、それを自覚していない。
自分だけが知っている情報を、相手も知っている前提で話している。
自分が勝手に想像した相手の感情を、相手が実際にそう感じているものとして扱っている。
「たぶん相手はこう思っている」
「普通はこう感じるはず」
「きっとこういう意味で言ったんだと思う」
こうした言葉の中には、自分の不安や期待がかなり混ざっていることがある。
でも本人は、それを相手の感情だと思っている。
ここで、自分と他人の境界が溶けている。
逆に、自他境界が強すぎる人もいる。
そういう人は、自分を守るために他人を拒絶しているのに、その自覚がないことがある。
自分が人を遠ざけている。
自分が他人に踏み込まれないように壁を作っている。
自分が相手を信じる前に拒否している。
でも、その自覚がない。
その結果、
「自分は理解されない」
「社会が悪い」
「周りが浅い」
「誰も自分を分かってくれない」
というストーリーができてしまうことがある。
もちろん、本当に周囲の環境が悪い場合もある。
社会や人間関係に問題がある場合もある。
ただ、自分の側にある防衛や拒絶を見ないまま、全部を外側の問題にしてしまうと、自他境界は壁になる。
境界線ではなく、要塞になる。
僕自身も、ここにはかなり心当たりがある。
僕は自分の輪郭が強い。
自分の価値観も強い。
人の感情にそのまま飲まれるタイプではない。
ただし、人の矛盾や責任のズレ、言葉の不一致を見つけると、そこまで自分の処理対象に入れてしまうところがある。
これは、僕の自他境界のバグだと思う。
僕は相手の感情に溶けているわけではない。
相手に嫌われたくなくて自分を消しているわけでもない。
でも、相手の言葉や思考の中にある構造エラーを見つけると、そこに介入したくなる。
「それ、本当にその意味で使っている?」
「それは自分の感情なのか、相手の感情なのか」
「それは反省しているように見えるけど、実際には相手に罪悪感を返していないか」
「その責任の置き方は本当に正しいのか」
僕にとっては、会話の前提をそろえたいだけなのだ。
ズレたまま話しても、何も積み上がらないと思ってしまう。
でも相手からすると、そこまで入ってこないでほしいのかもしれない。
ただ話しただけなのに、内面を分析されているように感じるかもしれない。
自分でも言語化していない領域に、勝手に踏み込まれたと感じるかもしれない。
つまり、僕の課題は自他境界を強くすることではない。
自分の輪郭はすでにかなり強い。
むしろ僕に必要なのは、検知した他人のズレを、どこまで自分が扱うかを決めることなのだと思う。
見えることと、扱うことは違う。
相手の矛盾に気づくことと、それを今ここで指摘することは違う。
相手の責任逃れに気づくことと、それを自分が修正することは違う。
相手が自分の言葉を持てていないと感じることと、その場で理論を崩壊させることは違う。
見えてしまうこと自体は、たぶん変えられない。
でも、見えたものを全部処理する必要はない。
これは、自分の中でかなり大事な運用ルールになりそうだ。
自他境界が強いことにも、弱いことにも、善悪はないと思う。
強いから偉いわけでもない。
弱いから悪いわけでもない。
ただ、自分がどちらに寄りやすいのかを自覚しないまま人と関わると、かなり問題が起きる。
自他境界が弱すぎれば、人に依存しすぎてしまう。
どこからが自分の意思で、どこからが相手の意思なのか分からなくなる。
相手の感情を自分が背負い、自分の感情を相手に背負わせる。
結果的に、自分が摩耗して破滅する。
逆に、自他境界が強すぎれば、人を拒絶しすぎてしまう。
本当は自分が傷つきたくないだけなのに、それを世界や社会のせいにする。
人と関わりたいのに、関わる前から壁を作る。
結果的に、自分が孤立していく。
どちらにせよ、精神衛生上いいことはない。
だから、自分の自他境界に向き合って、それをどう運用するのかはちゃんと考えないといけない。
自他境界とは、人と関わらないための壁ではない。
自分と相手を壊さずに関わるための線なのだと思う。
自分の感情は、自分のもの。
相手の感情は、相手のもの。
自分の選択は、自分の責任。
相手の選択は、相手の責任。
自分が傷つけた部分には、自分が向き合う。
でも、相手が向き合うべき課題までは、自分が背負わない。
自分に見えてしまったからといって、すべてに介入する必要はない。
自他境界を持つとは、冷たくなることではない。
むしろ、人と深く関わるために必要な線を引くことなのだと思う。
僕の場合、その線はたぶんかなり強い。
ただし、他人の言葉や責任のズレを検知した瞬間、その境界を越えて処理しに行こうとしてしまう。
だから僕に必要なのは、境界を作ることではなく、境界を運用することだ。
検知しても、介入しない自由を持つこと。
見えても、相手に返すこと。
分かっても、背負わないこと。
それが、今の僕にとっての自他境界の課題なのだと思う。