
構造思考ってなんだ?
この記事では、僕が頻繁に使っている「構造」という言葉、そして「構造思考」について話していこうと思う。
たぶん最近、ChatGPTと内省している人たちは、「構造がどう」とか「OSがどう」とか、そういう言葉を一度は見たことがあると思う。
僕自身も普通に使っている。
ただ正直に言うと、少し気持ち悪さもある。
他人の言葉を借りている感じがするからだ。
「思考OS」みたいな言葉は、僕の文章の中ではさすがに他の言葉に置き換えたりもしている。
でも「構造思考」に関しては、気持ち悪さはありつつも、わざわざ別のラベルに置き換えるのが面倒なので、そのまま使っている。
今回は、その構造思考とはそもそも何なのかを、自分なりに整理して書いてみたい。
まず、その話をする前に、構造思考を説明するきっかけになった出来事がある。
以前、元カノについて友人に相談したことがあった。
その時、友人から「元カノが、僕がフォローを外したことについて悲しんでいた」と聞いた。
それについて考えていた時、僕の中で疑問が湧いた。
自分が悲しい、自分が苦しい、そういう話はする。
でも、僕の苦しみや痛みを考えたことはあったのか、と。
僕がフォローを外したのは、不義理を働いた相手が視界に入るのが不愉快だったからで、ただの自己防衛だった。
そこに特別な他意はない。
それなのに、「嫌われたかもしれない」と被害者のように捉えられるのは、少し違和感があった。
仮に嫌われたのだとしても、そこには理由がある。
まして僕は、理由もなく人を嫌うような人間ではない。
四年付き合って、それすら理解されず、「嫌われた」とだけ処理されると、僕の側の苦しみや悲しみは想像しないのか、反省しないのか、次に活かさないのか、という疑問が湧く。
何が起きても、常に矢印が自分に向いているように見えた。
そこで僕は、この関係の前提を知っている、しかもタイプの違う何人かに意見を聞いた。
一人は、自身もうつ病で、元カノもうつ病だった経験があり、そこから抜けるために心理学を学びながら音楽をやっているやつだ。
そいつに聞くと、最初に自己愛性パーソナリティ障害という話が出てきた。
そこまで強いラベルを貼りたいわけではなかったが、調べてみると、なるほどと思う部分はあった。
次に聞いたのは、僕をさらに最適化して、ひたすら社会の中で強くなることを目的にしているようなやつだ。
そいつは「女性はそんなもんや。脳の構造が違う。ただ、そうじゃない人もいるかもしれないが少数だろう」という返答をした。
そして最後に聞いたのは、元カノの相談相手でもある女性の友人だった。
その人と話している中で返ってきたのは、
「結局どうしたいのか」
「相手の過去の行動を反芻する意味はあるのか」
「それをし続けると不幸になるのではないか」
「考えずに受け入れて次に行く方が幸せなんじゃないか」
という言葉だった。
僕は少し虚を突かれた感覚だった。
というのも、僕は別に結論を出したかったわけではないからだ。
問題を解決したかったわけでもない。
ただ、構造をより正しい形で更新したかっただけだ。
自分の中だけで内省していると、情報が偏って、いびつな結論に行く可能性がある。
だから、複数のタイプの意見を聞いて、取り入れて、更新したかった。
ただ相手方からすると、相談を受けたら最終的な結論を求められることがほとんどで、僕みたいに淡々と前提だけ投げて意見を集めるタイプは珍しかったらしい。
でも僕からすると、相談して人に結論を求めて、その通りに行動することは、かなり他責に見える。
責任の外注というか、自分の選択の責任を分散しているように見える。
もちろん、人の意見を聞くこと自体は悪くない。
ただ、その意見をどう扱うかは、自分で決めるしかない。
このあたりで、自分の考え方そのものを一度整理して説明する必要があるな、と感じた。
だから今回は、それをまとめてみる。
そもそも、僕にとって構造とは何なのか。
僕にとって会話とは、情報共有であると同時に、構造の更新でもある。
会話の中で僕がしていることは、相手の話す内容、会話の間、反応、言葉の選び方、温度感、そういう色々なものを見ながら、脳内にある構造の中で、相手の座標を推定することだ。
どこにいる人なのか。
何を前提にしているのか。
どの程度抽象で考えているのか。
何を痛みとして感じるのか。
どこに責任を置くタイプなのか。
何を見ていて、何を見ていないのか。
そういうものを、僕は脳内で位置として処理している感覚がある。
そして前提を投げる。
その反応を見る。
ズレていたら修正する。
近づけていく。
イメージとしては、脳内の構造の中から相手の座標を推定して会話している感じだ。
脳やAIに詳しい人なら、ニューラルネットワークと言うと少し伝わりやすいかもしれない。
僕の中には、経験や観察で作られた構造体があって、その中から相手の位置を推定し、会話によって結び直し、更新している。
もし僕の中で足りない前提が見つかれば、ニューロンをつなぎ直すように構造を更新する。
それが僕にとっての「考える」という行為だ。
しかも、これはかなり自然に起きている。
呼吸みたいなものだ。
やろうとしてやっているというより、勝手にやってしまう。
むしろ、これをしていないと苦しい。
だから、「そんなに考えて苦しくならないの?」とか「幸せになれないんじゃない?」と言われても、僕からすると少しズレている。
え、むしろこれ自体が快楽なんだけど、という感覚の方が近い。
思考して、構造に落として、少しずつ更新していく。
その過程そのものが気持ちいい。
ただ、この構造思考には副作用もある。
前提から相手の座標を推定して話すから、相手の相談に対して、僕は問題を早めに切って、解決策を投げがちだ。
つまり、一緒に悩む素振りや、共感している素振りが見えにくい。
相手からすると、話を聞いてもらっているというより、分析されて、処理されている感じがするのだと思う。
だから、合理主義者だと勘違いされることもある。
でも僕の中では、別に人を切り捨てているわけではない。
むしろ逆だ。
早く構造を把握して、どこが苦しみの源になっているのかを見つけて、少しでも負荷を減らせる形に持っていきたい。
ただ、その過程が「一緒に悩む」ではなく「位置を推定して構造化する」なので、見え方がかなり違う。
これが、僕が正論マンとか、合理主義者とか言われる理由の一つなのだと思う。
そして僕は、この思考法になった背景には、IQの凹凸が関係している気がしている。
以前、「僕は文字が読めない」という記事を書いた。
あれと同じ話だと思う。
要するに、僕にはIQの凹凸があって、ワーキングメモリとその他の指標に25ポイントくらい差がある。
だから、短期で情報を保持し続けることが苦手なのだと思う。
情報をそのまま持っておくのではなく、全部いったん構造に落とす。
そして、その構造を使って思考する。
文章を文字列のまま保持するのではなく、場面や関係性として圧縮する。
会話を単語の並びではなく、相手の位置情報として処理する。
問題を個別事象ではなく、再発する条件や配置として捉える。
そうしないと処理しきれないから、無意識がそういう設計にしたのかもしれない。
つまり僕にとって構造思考とは、単なる得意技ではなく、自分の性質から社会と接続するために自然発生した思考法なのだと思う。
友人に説明する時に使ったイメージがある。
考えることは、呼吸に近い。
吸うのが入力。
吐くのが構造化。
相手の座標を推定する。
その位置から言葉を組み立てる。
過去の構造を何層にも重ねて、必要なものを瞬時に参照して、今の会話を作る。
たぶん、僕の中では本当にこんな感じで起きている。
言葉で説明しきれないからチャッピーに画像にさせたものが以下のものだ

思考は、ただの思いつきではない。
感情だけでもない。
知識の蓄積だけでもない。
入力された情報を、構造に落とし込み、相手の位置を推定し、その位置から言葉を返し、必要なら自分の中の構造そのものを更新する。
それが僕の言う構造思考だ。
だから僕は、会話の中で常に構造を見ている。
この人はなぜそう考えるのか。
何が前提として欠けているのか。
どこに痛みがあるのか。
なぜここでズレるのか。
この反応はどの位置から出てきているのか。
どのラベルで見ると一番しっくりくるのか。
そういうことをずっとやっている。
良くも悪くも、やめられない。
でも、それでいいと思っている。
これは僕にとって病気でも欠陥でもなく、世界と接続するための方法だからだ。
もちろん副作用はある。
共感が薄く見えることもある。
考えすぎに見えることもある。
人を構造として見すぎて、温度を失うこともあるかもしれない。
でも、それでも僕はたぶん、このやり方でしか深く理解できない。
そして逆に、このやり方だからこそ見えるものもある。
信頼の積み方。
責任の流れ方。
人間関係の壊れ方。
接客の種類。
文字が読めない理由。
ビジネスで看板をどこに置くべきか。
僕がこれまで書いてきたことは、全部この構造思考から出ている。
出来事をそのまま受け取るのではなく、その裏にある配置や関係や前提を見ようとする。
それが僕の思考の癖であり、僕が「構造」と呼んでいるものの正体なのだと思う。
構造思考とは何か。
今の僕の答えはこうだ。
物事を単発の出来事としてではなく、関係・配置・前提・責任・反応の流れとして見ること。
そして、その構造を会話や経験の中で更新し続けること。
たぶん僕は、これからもずっとそうやって生きていくのだと思う。