
僕は文字が読めないという話
この記事では、僕が文字を読めないという話をしていこうと思う。
こう書くと、識字率的な話だと思うかもしれない。
でも、そういうことではない。
文字は読める。
文章も読める。
日本語が分からないわけでもない。
そもそも、こうしてnoteも書いている。
だから正確に言うなら、僕は文字そのものが読めないのではなく、文字列をそのまま情報として処理することがかなり苦手なのだと思う。
このことを考えるようになったきっかけは、友人からLINEで、
「君は文章をどのように読んでる?」
と聞かれたことだった。
それまで、自分がどのように文章を読んでいるのかなんて考えたことがなかった。
文章は読むものだと思っていた。
読めるか、読めないか。
理解できるか、理解できないか。
そのくらい雑に捉えていた。
でも、実際にその質問について考えてみると、僕にとって文字や文章を読む行為は、脳内で映像に変換する行為に近いことが分かった。
僕は、読んだものをそのまま言葉として処理しているわけではない。
文字を追いながら、頭の中でストーリーを追加する。
場面を作る。
人の動きを想像する。
構造を組む。
映像に変換する。
そうやって、ようやく理解している。
つまり僕は、文字を文字のまま読んでいるというより、文字を素材にして、頭の中で映像や構造に変換している。
だから、前提の共有が薄かったり、情報の羅列になっている文章はかなり読みにくい。
説明書。
論文。
啓発本。
規約。
手順書。
長い案内文。
前提が省略された専門文章。
こういうものはきつい。
文字は目に入っている。
一文一文の意味も、なんとなくは分かる。
でも、それが頭の中でつながらない。
映像にならない。
構造にならない。
だから、読んでいるのに入ってこない。
逆に、ストーリーに変換できる文章は読める。
小説。
漫画。
会話形式の文章。
ChatGPTのように、前提を補いながら流れを作ってくれる文章。
こういうものは比較的読みやすい。
なぜなら、頭の中で映像化しやすいからだ。
小説や漫画を読んでいる時、僕はたぶん頭の中で勝手にアニメーションを作っている。
だから逆に、小説や漫画がアニメ化された時に、キャラクターのデザインやカラーリング、声に違和感を持つことがある。
自分の中では、すでに映像ができているからだ。
声もある。
色もある。
空気感もある。
それと現実に出てきたアニメがズレると、違和感が出る。
これは、僕が文章を読む時にかなり映像化している証拠なのかもしれない。
一方で、友人は文字や文章をそのまま情報として処理できるらしい。
僕からすると、それはかなり不思議な感覚だ。
文字を文字のまま読む。
文章を文章のまま処理する。
情報を情報として保持しながら読み進める。
それができる人がいるらしい。
僕にはあまり分からない。
もちろん、どちらが優れているという話ではない。
脳の構造なのか、性別なのか、訓練なのか、育った環境なのか、興味の対象なのか。
何が影響しているのかは分からない。
ただ、人によって文章の読み方はかなり違うのだと思う。
そして、おそらく僕がこの方法で理解している原因に関係していそうなのが、IQの凹凸だ。
過去に興味本位でIQテストを受けたことがある。
細かい話をしたいわけではないが、ざっくり言うと、言語理解と知覚推理は同じくらいだった。
一方で、ワーキングメモリと処理速度がそれより低く、だいたい20〜25ポイントくらい差があった。
この凹凸が、僕の文章の読み方に関係している気がする。
過去の文脈を文字情報として保持しながら読み進めるのが難しい。
長い文章の前提を、文字のまま頭の中に置いておくのが苦手。
情報が並んでいるだけだと、どこに何を置けばいいのか分からなくなる。
だから僕は、言語理解で構造を落とし、知覚推理で映像化して、情報を一つのまとまりに圧縮しているのかもしれない。
文字列として持つのではなく、構造として持つ。
文章として保持するのではなく、場面として保持する。
言葉をそのまま覚えるのではなく、意味のかたまりに変換する。
そうしないと、たぶんメモリが足りない。
だから僕は、文字が読めない。
noteを書いているのに、文字が読めない。
かなり矛盾している。
自分で書いた文章ですら、読むのがつらい時がある。
もちろん、自分で書いた文章はまだ読める。
なぜなら、元の文脈や前提を自分が持っているからだ。
この文章を書いた時、自分が何を考えていたのか。
どこからその話が出てきたのか。
何を言いたかったのか。
それを自分の中で補完できる。
でも、それでもつらい。
自分で書いた文章なのに、長くなると読み返すのがしんどい。
誤字脱字の確認も苦手だ。
細かい言い回しの違いを追うのも重い。
文章の一部だけを直すより、全部まとめて構造ごと捉え直した方がまだ楽な時がある。
これは、自分でも少し面白い。
僕は文章を書く。
でも文章を読むのは苦手。
言葉を使って考える。
でも文字列をそのまま処理するのは苦手。
noteを書いている。
でもnoteの住人として、人の文章をどんどん読みに行くのはしんどい。
本当は、もっと積極的に人の文章を読みたい。
面白いと思った人にスキをしたい。
フォローもしたい。
コメントもしたい。
noteの中で、ちゃんと住人として動きたい。
でも、自分から文章を読みに行くのがかなりしんどい。
タイトルを見て、開く。
文章を読む。
その人の文脈を掴む。
何を言いたいのか理解する。
自分との共通点を探す。
その上で反応する。
この一連の流れが、僕にとってはけっこう重い。
だから、今まであまりできていなかった。
ただ、最近少し考え方が変わった。
僕の文章にアクションを起こしてくださる方は、たぶん何かしら共通点があるのだと思う。
僕の文章は、かなり自分の思考の癖が出ている。
構造化する。
違和感を分解する。
自分の弱さも書く。
人間関係を観察する。
仕事や責任や自由について考える。
少しトゲもある。
そういう文章にスキをしてくれる人や、読んでくれる人は、少なくともどこかに引っかかるものがあったのだと思う。
だったら、僕もそこに少し返したい。
自分から広く読みに行くのは苦手でも、僕の文章に反応してくれた人の文章なら、少し読みに行けるかもしれない。
何かしら共通点がある前提で読めるからだ。
完全に知らない文章より、入り口がある。
この人は、なぜ僕の文章に反応したのだろう。
どこに共通点があったのだろう。
この人は何を考えているのだろう。
そう思えば、少し読みやすくなる。
僕は文字を読むのが苦手だ。
でも、人の考えに興味がないわけではない。
むしろ、人が何を見て、何に違和感を持ち、どう世界を処理しているのかにはかなり興味がある。
ただ、その入口が文字列だと重いだけだ。
だから、僕はたぶん、文章を文字として読むのではなく、人の構造を読むために読んでいる。
文字が読めない。
でも、構造は読みたい。
この矛盾を抱えたまま、これからもnoteを書いていくのだと思う。
そして少しずつ、自分の文章に反応してくれた人の文章も読みに行きたい。
自分から大量に読むことはできないかもしれない。
でも、共通点がある人の文章なら、少しずつ読める気がする。
僕は文字が読めない。
でも、読もうとしていないわけではない。
文字の奥にある、その人の構造を読もうとしているのだと思う。