
頭で考えることとと心で考えることって別じゃね?
僕はよく、周りの人から「合理主義者」だとか「論理思考」だとか「正論野郎」だとか言われることがある。
たしかに、外から見ればそう見えるのだと思う。
人の相談に対して、まず感情に寄り添うよりも、問題点や解決策を返してしまう。
「それはつらかったね」と言う前に、
「なぜそうなったのか」
「どこに問題があるのか」
「次に何を変えればいいのか」
を考えてしまう。
だから、感情を無視しているように見えるのかもしれない。
でも、自分の中ではかなり違う。
僕を「合理主義者」と評価する人は、たぶん僕と構造を交換するような会話をあまりしたことがないのだと思う。
ここで言う「構造を交換する会話」というのは、お互いの考え方や前提が、その場で少しずつ更新されていくような会話のことだ。
単に近い関係かどうかではない。
付き合いが長い人でも、そういう会話をあまりしない人はいる。
逆に、付き合いの長さに関係なく、議題を深掘りして、お互いの内側にある構造を交換できる人もいる。
そういう友人から見ると、僕はたぶん少し違って見えていると思う。
合理主義者というより、同時に複数の変数を扱いすぎて、勝手に苦しんでいる人間。
頭が固いというより、自分の弱さにずっと抗おうとしている不器用な人間。
冷たいというより、かなり普通に揺れている人間。
そんなふうに見えている気がする。
つまり、他者から伝えられる僕の印象と、実際の自分の感覚にはかなり乖離がある。
では、なぜ合理主義者っぽく見られやすいのか。
たぶん理由は、僕が会話の中で、短期的な感情よりも、長期的に再現性のある話を返してしまうからだと思う。
相手が今つらいと言っている。
普通なら、まず感情に寄り添う場面なのかもしれない。
でも僕は、その感情そのものだけではなく、その感情がなぜ発生したのかを見てしまう。
その感情は一時的なものなのか。
それとも繰り返し起きる構造なのか。
本人の問題なのか。
環境の問題なのか。
人間関係の設計の問題なのか。
責任範囲の誤認なのか。
今は楽になるけど、長期的には自分を消費する選択ではないか。
そういうことを、ほぼ反射的に考えてしまう。
だから、友人との会話でも、相手が短期的な感情を埋めるために何かをしようとしている時に、僕は少し先の話をしてしまう。
今それをすると一瞬楽かもしれない。
でも長期的に見ると、もっと苦しくならないか。
この態度で人生に向き合った方が、結果的には心に優しいのではないか。
今の感情だけで動くと、後から自分を嫌いにならないか。
そういうことを返してしまう。
つまり僕は、普段の友人との会話で、突然思春期の子供を心配して小言を言う母親みたいなことをしているのかもしれない。
これは相手からすると、かなりうるさいと思う。
でも僕の中では、それも優しさの一つだ。
その人が人生を雑に消費しないように。
その人が後から自分を嫌いにならないように。
その人が自分の問題に、自分でケリをつけられるように。
そのためのヒントを渡しているつもりなのだと思う。
もちろん、それが毎回正しく伝わるわけではない。
むしろ、伝わらないことの方が多いかもしれない。
でも少なくとも、僕は感情を無視しているわけではない。
ここで最近思うのが、頭で考えることと、心で考えることは違うのではないか、ということだ。
僕は基本的に、心で感じたことを変数として頭に渡している感覚がある。
寂しい。
つらい。
不安。
嬉しい。
楽しい。
好き。
苦しい。
甘えたい。
許せない。
そういう心の声を、僕は無視しているわけではない。
むしろ、かなり拾っている。
ただ、拾った瞬間に頭が入ってくる。
なぜそう感じたのか。
その感情はどこから来たのか。
それは短期的なものなのか。
長期的にも大事なものなのか。
その感情に従ったら、自分を好きでいられるのか。
誰かを消費していないか。
自分の責任を外に逃がしていないか。
本当にその選択で幸せになれるのか。
そうやって、心の声を一度、頭の中で評価する。
だから僕は、決して感情を軽視しているつもりはない。
むしろ感情をかなり丁寧に扱っている。
特に自分の感情に対しては、かなり敏感な方だと思う。
ただ、その扱い方が、一般的な「感情に寄り添う」とは違うのだと思う。
僕は感情をそのまま外に出すより、まず言語化して、構造化して、長期的に自分を壊さない形にしようとする。
それが外から見ると、合理的に見えるのだろう。
でも実際には、頭だけで考えているわけではない。
心も考えている。
ただ、頭の方が最終判断権を持っていることが多い。
普段の僕は、心が出した信号を頭に渡し、頭がそれを評価して行動を決めている。
この運用は、かなり自分を守ってくれていると思う。
感情に飲まれすぎない。
一時的な衝動で人や自分を傷つけにくい。
責任範囲を整理できる。
次に何を変えるべきか考えられる。
苦しさを、改善や行動に変換しやすい。
だから僕は、たぶん崩れにくい。
ただ、たまに心の思考が増幅して、頭の思考との評価割合が逆転することがある。
その時は、胸が苦しくなったり、自分の倫理観と矛盾する考えや行動を起こしそうになったりする。
その最たるものが、恋愛だと思う。
恋愛では、心の声が単なる変数ではなく、目的そのものになることがある。
この人に会いたい。
この人に分かってほしい。
この人に甘えたい。
この人を失いたくない。
この人の前では、強がらずにいたい。
そう思った瞬間、いつもの処理がかなり難しくなる。
なぜなら、恋愛では自分の信頼を半分相手に預けてしまうからだ。
普段なら、自分の問題は自分で処理できる。
自分の感情は自分で言語化できる。
自分の責任範囲も切り分けられる。
でも恋愛では、相手が持ち込んだ問題も、こちらの感情に深く入り込んでくる。
相手の不安。
相手の言葉。
相手の態度。
相手の迷い。
相手の弱さ。
相手の選択。
それらが、自分の中の心の思考に強く干渉してくる。
しかも、それを頭だけで処理するのは難しい。
感情が入りすぎる。
自分の倫理観も揺れる。
長期的には分かっていても、短期的な心の痛みが大きすぎる。
普段なら絶対にしないような行動を、自分でも驚くくらい取れてしまう。
だから恋愛はバグる。
僕が心の考えを拾ったうえで、頭で考えて返そうとしているのは、自分を嫌いになりたくないからだ。
短期的にも長期的にも、自分を消費したくない。
感情のままに動いて、あとから自分の選択を軽蔑したくない。
誰かを傷つけたくないし、自分の大事なものも壊したくない。
だから考える。
でも、考えすぎると心が置き去りになる。
ここが難しい。
頭と心で考えていることは違う。
自分が苦しくならないように運用するには、その時々で評価する割合をうまく割り振らないといけないのだと思う。
頭で考えることを軽視してはいけない。
感情のままに生きると、長期的に人生を消費することがある。
一瞬楽になる選択が、あとで自分を苦しめることもある。
その場の寂しさを埋めるために動いた結果、大事なものを壊すこともある。
だから頭は必要だ。
でも、心で考えることも軽視してはいけない。
自分の心を消費して生きると、何を手に入れても評価できない人間になる。
お金があっても、自由があっても、仕事を選べても、人に認められても、心が渇いていたら何も受け取れない。
嬉しいものを嬉しいと思えない。
楽しい時間を楽しいと思えない。
好きな人といても、その時間を感じられない。
今あるものに満足できない。
それはかなり怖い。
だから、頭だけで生きてもだめだし、心だけで生きてもだめなのだと思う。
頭は、長期的に自分を守るためにある。
心は、今の自分が何を感じ、何を大事にしたいのかを教えてくれる。
どちらか片方だけでは足りない。
さらに言えば、意識的に考えることと、無意識で考えることもまた別の議題としてある。
自分で言葉にできる思考。
言葉にする前から身体や直感が反応しているもの。
そして、心が感じていること。
この三つは、それぞれ少し違う気がする。
もしかすると人間は、エヴァのMAGIシステムみたいに、複数の思考を統合しながら生きているのかもしれない。
意識的な思考。
無意識的な思考。
心の思考。
その三つが、それぞれ違う判断を出す。
頭は合理性を見る。
無意識は経験やパターンを拾う。
心は幸福や違和感を拾う。
そして、その三つをどう統合するかが、その人の生き方になるのかもしれない。
僕は今まで、自分は考えすぎる人間だと思っていた。
でも最近は、少し違う気がしている。
僕はただ一種類の思考をしすぎているのではない。
頭で考えている。
心でも考えている。
無意識でも何かを拾っている。
そして、その三つの声をどう扱うかで、ずっと悩んでいるのだと思う。
合理主義者と言われることがある。
でも、僕は合理性だけで生きているわけではない。
心の声を無視しているわけでもない。
むしろ、心の声を大事にしたいからこそ、それをどう扱えば自分を壊さずに済むのかを考えている。
頭で考えることと、心で考えることは違う。
そしてたぶん、どちらも必要だ。
頭で心を支配するのではなく、心で頭を破壊するのでもなく、うまく会議させていく。
今の僕に必要なのは、たぶんそれなのだと思う。