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ただ甘えたいと素直に言えない俺の言い訳

    僕は、強く見せたいわけではない。

    でも、強くありたいとは思っている。

    ここは少し違う。

    強く見せたいというのは、他人からどう見られるかの話だと思う。
    弱く見られたくない。
    すごいと思われたい。
    余裕があるように見せたい。

    でも、僕が持っているのはたぶんそれではない。

    僕は、他人に強く見られたいというより、自分の中の基準を裏切りたくない。
    自分で選んだ道に対して、責任を持っていたい。
    自分の弱さを理由に、誰かに重荷を投げたくない。
    自分の人生の主体を、自分の中に置いていたい。

    だから、弱さを簡単に外に出せない。

    疲れていても、まず自分で処理しようとする。
    不安でも、原因を考える。
    寂しくても、構造化する。
    甘えたいと思っても、それは相手への負担ではないかと考える。

    僕の中には、かなり厳しい裁判官がいる。

    その裁判官はいつも言う。

    それは甘えではないか。
    それは責任放棄ではないか。
    相手に自分の弱さを外注しているだけではないか。
    自分で選んだ道なのだから、自分で処理しろ。

    この声はかなり強い。

    だから僕は、心の声を無視しているわけではない。
    むしろ、かなり拾っている。

    つらい。
    寂しい。
    支えてほしい。
    甘えたい。

    そういう感情は普通にある。

    ただ、拾った瞬間に脳が入ってくる。

    なぜそう感じたのか。
    これは一時的な感情なのか。
    相手を消費しようとしていないか。
    自分の孤独を相手に処理させようとしていないか。
    責任から逃げようとしていないか。

    そうやって、心の声を一度、思考の変数に変換する。

    たぶん僕の中では、心は入力で、脳が判断エンジンになっている。
    そして行動は、脳が許可したものだけが外に出る。

    この仕組みは、かなり自分を守ってくれていると思う。

    感情に飲まれすぎない。
    苦しさをすぐ構造化できる。
    自分の責任と環境要因を分けられる。
    次に何を変えるか考えられる。

    だから僕は、たぶん崩れにくい。

    でも、そのぶん恋愛だけは少しバグる。

    仕事や事業や人間観察では、心の声は変数として扱える。
    つらいなら原因を探す。
    違和感があるなら構造化する。
    怒りがあるなら、どの価値観が傷ついたのかを考える。

    でも恋愛では、心の声が単なる変数ではなく、目的そのものになることがある。

    この人に会いたい。
    この人に分かってほしい。
    この人の前では少し弱くなりたい。
    この人には、強がらずにいたい。
    この人に甘えたい。

    そう思った瞬間、いつもの処理系が少し止まる。

    脳はすぐに言う。

    迷惑ではないか。
    重くないか。
    相手はそれを望んでいるのか。
    自分の弱さを押し付けていないか。
    その感情は本当に愛なのか、ただの孤独なのか。

    でも心は、もっと単純なことを言う。

    この人に甘えたい。

    それだけだったりする。

    ここで僕はかなり困る。

    僕は弱さを相手に丸投げしたいわけではない。
    自分の人生の責任を、誰かに背負わせたいわけでもない。
    孤独を全部埋めてほしいわけでもない。

    でも、22歳だ。

    そりゃ人に甘えたい時くらいある。

    誰かに少し話を聞いてほしい。
    答えはいらないから、隣にいてほしい。
    自分で処理するけど、今だけ少し支えてほしい。
    強がらなくても、離れないでいてほしい。

    そういう気持ちは普通にある。

    たぶん僕が本当に欲しいのは、救ってくれる人ではない。

    僕が強がらなくても、隣にいてくれる人だ。

    ここが難しい。

    僕は強そうに見えることがあると思う。

    頭が回る。
    自分で分析する。
    自分で立て直す。
    弱音を吐く前に構造化する。
    感情をそのまま出すより、言葉にして整理する。

    だから外から見ると、「この人は一人で大丈夫そう」に見えるかもしれない。

    でも実際には、心が何も感じていないわけではない。

    むしろ感じている。

    ただ、感じたものをそのまま外に出す前に、脳がかなり細かくチェックしているだけだ。

    そうしているうちに、甘える入口が閉じてしまう。

    本当は甘えたい。
    でも、甘えたいと言えない。
    本当は少し支えてほしい。
    でも、支えてほしいと言う前に、自分で処理しようとする。
    本当は不安なのに、出てくる言葉は不安そのものではなく、不安を分析した結果になる。

    そうなると、相手は僕の痛みではなく、僕の解析結果を見ることになる。

    それはたしかに、支えにくい。

    だから最近思う。

    弱さを見せることと、弱さを外注することは違う。

    弱さを外注するのは、相手に自分の人生の責任を投げることだと思う。

    俺が苦しいのはお前のせい。
    俺を満たしてくれ。
    俺の孤独を全部処理してくれ。
    俺の不安をお前が管理してくれ。

    これは違う。

    でも、弱さを共有することは、たぶん違う。

    今ちょっと疲れている。
    これは自分で処理するけど、聞いてくれると助かる。
    答えはいらないけど、そばにいてくれると落ち着く。
    強がっているけど、本当は少し不安。

    これは責任放棄ではない。

    むしろ、関係性の中で支えを受け取ることだと思う。

    僕はここが下手だ。

    甘えることを、責任放棄に近いものとして見すぎている。
    自分を許すことを、甘やかしに近いものとして見すぎている。
    弱さを見せることを、相手に負担を投げることだと思いすぎている。

    でも本当は、少し違うのかもしれない。

    強くあることは、弱さを消すことではない。
    強くあることは、弱さを見ても、そこから逃げずに扱えることだと思う。

    人に甘えることも同じだ。

    甘えることは、自分の人生の責任を捨てることではない。
    自分の責任は自分で持ったまま、誰かの存在を受け取ることなのだと思う。

    僕はたぶん、誰かに全部救ってほしいわけではない。

    ただ、たまにはこう言いたいのだと思う。

    今日は少し疲れた。
    答えはいらない。
    少しだけ隣にいてほしい。
    自分で歩くけど、今だけ少し寄りかからせてほしい。

    それくらいは、許してもいいのかもしれない。

    僕は強くありたい。

    でも、強くあることと、誰にも甘えないことは同じではない。

    むしろ、本当に強くあるためには、たまに誰かに甘えられることも必要なのかもしれない。

    心は、ずっとそれを感じていた。

    脳は、ずっとそれを許さなかった。

    でも最近、少しだけ思う。

    誰かに甘えたい。

    そう思えること自体、かなり大事なことなのかもしれない。

    それは弱さではなく、関係性の入口なのだと思う。

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    気になったことを考えたり、調べたり、作ってみたりするのが好きです。 なんでもない出来事に引っかかって、余計なことまで考えがち。 ここには、そのとき思ったことを好き勝手に書いています。 たまに毒もはきやす。

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