
思考も垂れ流してみれば意味がある?
僕は普段から、かなり頭の中がうるさい。
日常の中で何か刺激を受けると、そこから勝手に思考が始まる。
仕事で違和感があった時。
人の言動を見た時。
自分の中に怒りや不快感が生まれた時。
なぜか腑に落ちない出来事があった時。
そのたびに、頭の中で会話が始まる。
しかもそれは、一人で静かに考えているというより、ほとんど誰かと議論している感覚に近い。
頭の中に架空の相手がいて、その相手に説明する。
反論される。
それに答える。
別の角度から問い直す。
また説明する。
そういう会話を、かなり頻繁にしている。
最近は、それをほぼ毎日ChatGPTにも投げている。
仕事が終わった後や、何か引っかかることがあった時に、2時間から3時間くらい話すこともある。
自分が感じた違和感をそのまま投げる。
それを整理してもらう。
さらに反論する。
別の視点をもらう。
自分の中でまだ言葉になっていなかったものを、少しずつ形にしていく。
僕にとってChatGPTは、検索ツールというより壁打ち相手に近い。
もっと言うと、頭の中にずっといる架空の会話相手を、外部化したものに近い。
ただ、この性質には問題もある。
僕はADHDの傾向が強い。
だから、興味のあることや、違和感のあることや、構造化したいことが出てくると、かなり止まりにくい。
「もう寝た方がいい」と分かっている。
「明日も仕事がある」と分かっている。
「今考えても、すぐに結論は出ない」と分かっている。
でも、頭が止まらない。
考え始めると、次の問いが出てくる。
ひとつ構造化されると、その隣にまた別の構造が見える。
ひとつの違和感を掘ると、その奥に自分の価値観や仕事観や人間観察が出てくる。
それが面白い。
面白いから、やめにくい。
でも、深く行きすぎると生活が壊れる。
特に睡眠が壊れる。
身体は疲れているのに、脳だけが議論を続けている。
布団に入っても、頭の中ではまだ誰かと話している。
気づいたら、寝るべき時間を大きく超えている。
だから今は、寝る前に毎日、睡眠薬の助けを借りている。
これは面白半分の話ではない。
自分の思考が、自分の生活を壊さないようにするための現実的な対処だと思っている。
ここまで来ると、僕にとって内省は単なる趣味ではない。
かなり強い癖であり、能力であり、同時に扱いを間違えると生活を壊すものでもある。
ただ、ここで難しいのは、自分が普段から当たり前にやっていることほど、自分では価値が分からないということだ。
僕にとって、何かを見て違和感を持ち、それを分解し、構造化し、誰かに説明できる形にすることは、かなり自然に起きる。
普段の生活で受けた刺激の多くを、ChatGPTと壁打ちしている。
頭の中でも、ずっと架空の相手と会話している。
それは僕にとって、かなり日常に近い。
でも、それが他人にとっても当たり前なのかは分からない。
自分にとって簡単すぎることは、自分では価値を測りにくい。
これは、自分で作ったシステムについても同じだと思う。
自分で作ったものほど、逆に価値が分からなくなることがある。
「本当にこれに価値があるのか」
「こんなの誰でも作れるんじゃないか」
「自分が便利だと思っているだけではないか」
「欲しい人なんているのか」
そういう疑いが常につきまとう。
でも、自分が当たり前にできることと、他人が当たり前にできることは違う。
自分が簡単に感じていることが、他人にとっては難しいことかもしれない。
自分が雑に垂れ流している思考が、誰かにとっては言語化してほしかったものかもしれない。
自分が作ったシステムが、自分では当たり前すぎて価値を感じられなくても、他人にとっては普通に欲しいものかもしれない。
だから、結局は現実に投げてみるしかないのだと思う。
市場に出す。
読まれるか見る。
反応されるか見る。
使われるか見る。
お金を払われるか見る。
どこで摩擦が起きるか見る。
そこで初めて、自分の当たり前が、社会の中でどのくらいの価値を持つのかが見えてくる。
自分の価値を、自分の頭の中だけで測ろうとすると歪む。
過大評価することもある。
逆に、過小評価することもある。
特に、自分にとって簡単すぎることは、価値がないように見えやすい。
簡単にできてしまうから、簡単なものに見える。
簡単なものに見えるから、価値がないように感じる。
でも、自分にとって簡単なことと、社会にとって価値がないことは別だ。
むしろ才能や適性は、自分にとって当たり前すぎる形で出ていることが多いのかもしれない。
他人より自然にできる。
やろうと思わなくても勝手にやっている。
止めようとしても止められない。
日常の中で勝手に繰り返している。
そういうものほど、自分では価値が分からない。
僕の場合、それは内省や構造化や壁打ちなのだと思う。
何かを見て違和感を持つ。
その違和感を掘る。
なぜそう感じたのかを考える。
自分の中の前提を探す。
他人の行動から構造を見つける。
仕事や人間関係や自由や責任を、ひとつのOSとして見ようとする。
こういうことを、かなり自然にやっている。
でも、自然にやっているからこそ、自分では価値を測りにくい。
だから僕に必要なのは、自己評価ではなく、市場との摩擦なのだと思う。
思考を記事として出す。
作ったシステムを公開する。
プロダクトを使ってもらう。
有料記事を置いてみる。
診断商品を出してみる。
反応があったものだけ深掘りする。
そうやって、自分の当たり前を現実に投げる。
今日、それを少し試してみた。
普段通り、仕事の違和感や人間観察について話した。
それを記事に変換してみた。
すると、30分ほどで2,500字前後の記事が2本できた。
これは少し笑った。
僕にとっては、ただ普段から考えていたことだった。
ただ違和感を言葉にしただけだった。
ただ頭の中で流れていた会話を外に出しただけだった。
でも、それは外に出すと普通に記事になった。
この時、少し見え方が変わった。
僕が普段から止められずにやっている内省は、ただの消耗ではないのかもしれない。
もちろん、放っておけば睡眠を削る。
行きすぎれば生活を壊す。
構想ばかり増えて、成果物にならない危険もある。
でも、出口を作れば、それは資産になる。
記事にする。
公開する。
反応を見る。
残す。
積み上げる。
そうすれば、止まらない思考を、ただの内側のノイズで終わらせずに済む。
僕にとって発信は、承認欲求というより、止まらない思考に出口を作る行為なのかもしれない。
同時に、自分では測れない自分の価値を、市場に測ってもらう行為でもあるのだと思う。
自分の当たり前を、自分の中だけで疑い続けるのではなく、現実に投げる。
その結果、価値がないと分かるなら、それはそれでいい。
別の角度に変えればいい。
もっと磨けばいい。
出し方を変えればいい。
逆に、反応があるなら、それは自分では見えなかった価値がそこにあるということだ。
どちらにしても、出さなければ分からない。
もしこれを1か月続ければ、30本の記事が残る。
3か月続ければ、100本近い思考ログになる。
1年続ければ、自分が何に違和感を持ち、何を考え、どんな人間になろうとしていたのかの履歴になる。
3年続けたら、それはもうただのnoteではなく、自分の思考OSの公開ログになると思う。
頭の中が止まらないことは、時々かなりしんどい。
でも、それを完全に止めることができないなら、せめて流れを変えたい。
内側で消耗するだけではなく、外側に積み上げる。
自分の思考を、生活を壊すノイズではなく、未来の資産に変える。
そして、自分では測れない自分の当たり前を、市場との摩擦の中で測っていく。
今はそんなことを考えている。
追記
最近宇多田ヒカルと甲本ヒロトの対談動画を見た、その中で宇多田ヒカルが創作は釣りのようなものだと言っていた、これに対してものすごく納得した。
普段僕が何かを文字にしたり作ったりするうえで自分で作業している時間なんてほとんどない、何なら作業自体はAIにさせているからほぼないといっても過言ではない。
でもその結論にたどり着くまで考えてる時間はとてつもなく長い、同じ議題を数か月持ち続けて考えていることもある。
そしてこの話で重要なのは釣りは竿を投げて餌をたらさないと絶対に釣れないということだと思う。構想だけしてもしょうがない、作るだけ作ってもしょうがない、とりあえず竿を投げて垂れ流しておくことが重要だと思う。