
同じ日本語でも言語が違うという話
今回の記事では、同じ日本語でも、実は違う言語で話していることがある、という話を書いていこうと思う。
これを書くに至ったきっかけは、前回の記事で意見を聞いていた相手が、その会話の中で「自分はよく理解力がないと言われる」と言っていたことだった。
僕はそれを聞いて、少し違和感があった。
まず、僕が相談できている時点で、理解力がないわけがない。
さらに言えば、僕の話を理解して、それについて返せている時点で、少なくとも僕が求めているレイヤーの会話は成立している。
だから、その人に理解力がないとは思わなかった。
むしろ、問題は理解力ではなく、普段どの言語レイヤーで会話しているかの違いなのだと思った。
僕は、話す相手やタイミングによって、会話の抽象度をかなり変えている。
そうしないと、同じ日本語で話しているのに、会話が成立しなくなるからだ。(そもそも自身の発達障害やIQを疑ったのも前職で会話が成り立たないことがあったがその時は原因を自身で理解していなかったからだ。)
たとえば、抽象度の高い会話ができる相手は、大抵この調整能力を持っている。
真面目に構造の話もできるし、逆にわざと抽象度を下げて、適当でふざけた会話もできる。
くだらない話をしながら、裏ではかなり複雑な前提を共有していることもある。
だから、話が早い。
二割くらい話した時点で、
「あー、それってあれの話ね」
と勝手に補完できる。
そこから一気に会話を飛ばせる。
でも、問題なのは、抽象度の高い会話を生きる中であまり必要としてこなかった人たちだ。
別にそれが悪いと言いたいわけではない。
ただ、同じ日本語を使っていても、一つの言葉に載せている前提の量が違いすぎる。
こちらは、相手が何を話したいのかを文脈から予測して聞いている。
だから、三割くらい聞けば、その結論が何なのか大体分かる。
でも逆に、こちらが抽象度を調整せずに話すと、相手は話の論点そのものを掴めないことがある。
その場合、同じ前提をいろんな実例に変換して、相手が理解できる形で何度も投げることになる。
こうなった時点で、もう会話ではない。
無量空処を食らわせているようなものだ。
しかも、相手からすれば、自分は普通に会話しているつもりかもしれない。
でもこちら側では、頭の中でずっと通訳が走っている。
この言葉だと伝わらない。
この抽象度だと刺さらない。
この前提は相手の中にない。
この順番だと理解できない。
この例なら届くかもしれない。
そうやって、相手の言語に変換しながら話す。
これはかなり疲れる。
僕自身もこれが苦手な場面がある。
雑談や対人会話なら、相手に合わせて抽象度を調整できることが多い。
でも、ある特定の問題に対して、どうアプローチするか、どう考えるか、という話になると、相手に合わせて抽象度を調整するのが難しくなる。
なぜなら、その瞬間の僕は、人と話しているというより、問題そのものと会話しているからだ。
対人ではなく、対問題になっている。
だから、相手がどの程度受け取れるかよりも、問題の構造をどう切るかに意識が向く。
このモードに入ると、相手にとっては説明が速すぎたり、冷たく見えたり、正論だけを投げられているように感じるのだと思う。
でもそれは、相手を下に見ているというより、僕の視線が人ではなく問題に向いているからだ。
だから話は戻るが相談した相手が僕の相談に乗れている時点で、理解力がないわけではない。
むしろ、僕が対問題モードで話している内容を受け取れているなら、かなり理解力はある。
では、なぜ同じ日本語なのに意味が通らなくなるのか。
僕は、一つの言葉に含ませている前提の情報量が違うからだと思っている。
たとえば、「責任」という言葉がある。
ある人にとっては、責任とは「怒られること」かもしれない。
別の人にとっては、「自分が最後まで引き受ける範囲」かもしれない。
また別の人にとっては、「契約」「信頼」「自由」「権限」「意思決定」「再発防止」「他人への影響」まで含んだ言葉かもしれない。
同じ「責任」という日本語を使っていても、頭の中でつながっているラベルの数が違う。
これは「自由」でも同じだ。
ある人にとっての自由は、好き勝手することかもしれない。
でも僕にとっての自由は、責任範囲を理解した上で、自分の意思決定で動けることに近い。
だから「自由に生きたい」と言っても、その中身は人によってまったく違う。
同じ言葉を使っているのに、実は指している構造が違う。
これが、同じ日本語なのに言語が違うということだと思う。
抽象度の高い会話ができる人は、一つの言葉にたくさんのラベルを付けている。
ニューラルネットワークのように、一つの言葉に別の言葉が大量につながっている。
一つの言葉から、価値観、経験、文脈、感情、責任、抽象概念、過去の事例、未来の選択まで、連想が広がっていく。
一つの言葉からの連想ゲームがうまい、とも言える。
特徴のつながりをたくさん持っているのだ。

だから、普段から内省をして、言葉同士をつなげている人間同士だと、会話がかなり速い。
相手が二割くらい話した時点で、勝手に意味を補完できる。
「あー、その話って、結局この構造のことね」
と分かる。
そこから、かなり少ない文字数で会話を飛躍させることができる。
逆に抽象度が違うと、使っている言葉の意味と前提を、いちいち補足しながら話さないといけない。
つまり、通訳しながら会話している感覚になる。
僕の体験で象徴的だったのは、幼少期からの友人と久しぶりに会った時のことだ。
彼は東京に引っ越して、音大に通い、その後音楽で生活していた。
ものすごくアティチュードや言葉に対して厳密なやつだ。
数年ぶりに会って話した時、彼はものすごく丁寧に話していた。
たぶん、相手に誤解されないように。
言葉を雑に扱わないように。
前提を飛ばさないように。
かなり慎重に話していたのだと思う。
でも僕からすると、二割聞いた時点で何が言いたいのか大体分かる。
だから、こちらとしては早く自分の前提を投げたい。
「それってこういうことだよね」
「だとしたら、こっちの構造じゃない?」
「その話なら、別の角度から見るとこうなるよね」
そうやって返したい。
でも相手は、その後の八割を丁寧に説明し続ける。
そこで、会話に待ち時間のようなものが発生していた。
ディレイがある感覚だった。
これは相手が悪いわけではない。
むしろ、彼は言葉をかなり大事にしている。
だから、雑に飛ばさない。
でも、僕の頭の中ではすでに次の構造に進んでいる。
このズレが面白かった。
同じ日本語で話している。
でも、処理速度も、抽象度も、言葉に載せる前提の量も、言葉の扱い方も違う。
だから、噛み合っているようで、微妙に噛み合わない。
たぶん、こういうことは日常の中でかなり起きている。
同じ日本語を話しているから、通じているように見える。
でも実際には、言葉に載せている情報量が違う。
会話の目的が違う。
前提の共有量が違う。
抽象度が違う。
相手が何を「理解」と呼んでいるのかも違う。
だから、表面的には会話が成立しているように見えても、実はまったく成り立っていないことがある。
片方は感情を共有したい。
片方は構造を更新したい。
片方は結論が欲しい。
片方は前提を集めたい。
片方は共感してほしい。
片方は問題を切りたい。
片方は言葉を丁寧に積みたい。
片方は二割聞いて飛びたい。
これが全部「日本語」で起きる。
だから厄介なのだと思う。
英語と日本語なら、違う言語だと分かる。
でも、同じ日本語だと、通じているはずだと思ってしまう。
そして、通じない時に「理解力がない」とか「話が通じない」と雑に処理される。
でも実際には、理解力の問題ではないことも多い。
言葉に載せている前提の量が違う。
会話の目的が違う。
抽象度が違う。
言葉のネットワークが違う。
だから同じ日本語でも、実質的には別の言語になる。
僕は最近、人と話す時に、かなりそこを見ている気がする。
この人はどの抽象度なら会話できるのか。
この人はどの言葉にどれくらいラベルを持っているのか。
この人は相談を、解決策として受け取るのか、共感として受け取るのか、構造更新として受け取るのか。
この人は二割で飛べるのか、十割説明しないと届かないのか。
それを見ながら話している。
そして、会話が噛み合う人とは、たぶん言葉そのものではなく、言葉の奥にあるネットワークが近いのだと思う。
同じ言葉を聞いた時に、頭の中でつながるものが似ている。
だから、少ない言葉で通じる。
逆に、ネットワークが違いすぎると、どれだけ丁寧に話してもズレる。
言葉は通じている。
でも、言語が違う。
同じ日本語なのに、別の場所で話している。
僕が言いたいのは、たぶんそういうことだ。
理解力があるかないかではない。
同じ言葉に、どれだけの前提を載せているか。
どの抽象度で会話しているか。
何を会話の目的としているか。
そこが違えば、同じ日本語でも、まったく違う言語になる。
そしてたぶん、人と深く話すというのは、単に言葉を交わすことではない。
相手の言葉の奥にあるネットワークを推定しながら、自分の言葉を相手の届く位置に置くことなのだと思う。
そして今回の理解力がないといわれた友人はおそらく自身の抽象度を理解してないまま会話をしているのだろう。
だから相手以上に意味を保管してしまったりして相手の理解を超越するし、それを相互が分かってないから理解力がないと言われてしまっているのではないだろうか。