
ドーパミンと依存の話 ~満足できないのに、やめられない~
皆さんこんにちは、ブラキンです。
今回はドーパミンと依存について話していこうと思います。といっても僕は専門家ではないので、あくまで自分の体験と感覚をもとにした話です。
なぜこの話題を扱おうと思ったのかというと、僕は以前、大学でADHDの検査を受けた際に、衝動性に該当すると言われたことがあるからです。ADHDにはドーパミンなどの働きも関係しているそうですが、僕自身、普段から自分の行動が何かにコントロールされているような感覚があります。
そして最近、それを特に強く感じる出来事がありました。
楽しくもないのに、やめられない
沖縄から神奈川に帰ってきてから、PCの前で無限にショート動画を消費している自分に気がつきました。それも一日に何時間もです。

しかも、別に楽しいわけでも面白いわけでもありません。
「あー、そろそろやめないとなぁ」
そう思いながら次の動画にスライドする。「もう十分見たな」と思っても、また次の動画を見ている。
これを延々と繰り返してしまうのです。
映画を2時間見て面白かったなら、それは僕にとって有意義な時間です。ゲームを何時間も楽しんだなら、それも別に構いません。
でもショート動画の場合、何を見たのかも覚えていなければ、満足感もほとんどない。ただ時間だけが過ぎているのです。
しかも見終わった後に「いい時間だった」とはまったく思えません。むしろ、その時間で別のことができたはずだという後悔だけが残ります。楽しく消費しているならまだしも、苦しいと思いながら消費し続けているのが、僕にとって一番不可解なところです。
楽しいから見ているわけではないのに、やめられない。
僕はこの感覚を、ドーパミンにコントロールされているようだと感じています。
面白いのは、動画が極端につまらなければ僕は飽きるし、ものすごく面白ければ、それなりに満足して区切りがつくこともあるという点です。
ところがショート動画は、なぜかその中間を延々と漂っているように感じます。
そこそこ面白い。でも満足はしない。次はもっと面白いかもしれない。
まるで、頭の前にニンジンをぶら下げられた馬のようです。走っても届かないのに、もう少し走れば届く気がしてしまう。
この仕組みを意図的に作った人間がいるのだとしたら、まさに悪魔の所業ですね。
AIとの会話も似ている
最近は、AIとの会話にも似たものを感じます。
僕は普段からAIをかなり使っていますが、当たり障りのない共感や、意味のない納得感を与えられることがあります。
何かを話せば「鋭い視点ですね」「本質を捉えています」と返ってくる。
もちろん本当にそういう場合もあるでしょう。でも、何も検証していないのに肯定され続けると、現実とはかけ離れた自己評価が出来上がってしまう可能性があります。
理解したような気分になる。認められたような気分になる。
それ自体が気持ちよくて会話を続けているのだとしたら、これもまた刺激を求める行動なのではないでしょうか。
AIを使って考えているつもりが、AIに気持ちよくしてもらっているだけになっていないか。僕自身、時々疑う必要があると思っています。
ギャンブルは嫌いなのに、数字は大好き
ADHDの人はギャンブルなどに依存しやすいという話も聞きます。特に負けを取り返す場面では、強い刺激を感じる人もいるそうです。
幸い僕はギャンブルには興味がありません。
ところが、投資やFXのEA(自動売買システム)は大好きです。
長期間の数字を見て、複利を計算したり、資産がどう動くかを考えたりするのがものすごく楽しいのです。数字が計算通りに動いていく様子を、ずっと眺めていられます。
もちろん投資とギャンブルは同じではありません。
ただ、僕の場合は利益そのものだけでなく、数字の変化や将来への期待に刺激を感じているようにも思います。
合理的に計算しているつもりでも、その数字を見る快感に引っ張られているとしたら、なかなか皮肉な話です。
身近にあった薬物の話
ここからは少しディープな話になります。
僕は米軍基地の近くで育ちました。今になって振り返ると、かなりゲットーのような雰囲気のある町だったと思います。
もちろん、幼い頃はそれが普通だったので何とも思っていませんでした。大人になって外の世界を見て、初めて気がついたことです。
そんな環境で育ったからなのか、17歳を過ぎた頃から身近に薬物の話がちらつくようになりました。最近はSNSも強いので、別に僕の地元に限った話ではないのかもしれません。
僕自身は昔からかなりアスペ気質で、タバコすら吸わず、酒を飲む程度です。薬物にはむしろ強い嫌悪感があります。
誘われたり、目の前に出されたりしたときは、馬鹿にしたり論破しようとしたりしていました。そんなことを繰り返すうちに、僕が誘われることはだんだんなくなりました。
ただ、身近に使用している人がいるという事実は変わりません。
そんな人たちを観察したり、話を聞いたりしていて、最近ふと思ったことがあります。
ショート動画をやめられない僕と、薬物を常用している人たちは、依存という構造だけを見れば、そこまで遠い存在ではないのかもしれない。
もちろん、薬物とショート動画では身体への危険性も依存の深刻さも違います。そこを同列に扱うつもりはありません。
ただ、何かで脳を刺激し、その刺激を繰り返し求めてしまうという部分には共通点があるのではないでしょうか。
酒、タバコ、薬物、ギャンブル、そしてショート動画。
対象もリスクも違いますが、気がつけば自分の意思よりも刺激を優先している。その点では、僕も他人事ではないと思うのです。
結局、自分を観察するしかない
僕が依存について恐ろしいと思うのは、時間を使うこと自体ではありません。
満足していないのに、その行動をやめられないことです。
ショート動画を何時間も見た後、脳みそが小さくなって空っぽになったような感覚になることがあります。もちろん比喩ですが、自分の人生の時間だけが削られたようで、何とも言えない虚無感があります。
僕がギャンブルやタバコ、薬物を避けてきたのも、自分が一度はまったら危ないことを、無意識のうちに理解していたからかもしれません。
とはいえ、こうして考察したところで、気がつけばまたショート動画を見ているのが関の山です。
だから、自分の性質を知って、定期的に自分の行動を観察するしかないのでしょう。
「あー、今コントロールされてんなぁ」
そう気がつくところから、少しずつ抜け出していく。
何に時間を使うかを自分で選んでいるつもりでも、案外そうではないのかもしれません。
依存している対象が何であれ、コントロールされる側になった瞬間、人生を食われてしまうような気がしています。
少なくとも僕は、自分の時間くらい自分で選んで使いたいものです。