
アニメ銀魂より「人は生まれながらに弱さを持ち、かつ弱さに抗える自由な生き物だ」
昨日、晩ご飯を食べながらアニメの『銀魂』を見ていたら、こんなセリフが出てきた。
人は生まれながらに弱さを持ち、かつ弱さに抗える自由な生き物だ。
僕はこの言葉に、かなり惹かれた。
正直、こういう少し臭い言葉を定期的に投げてくるから、『銀魂』はやめられないのだ。
普段はふざけ倒しているくせに、突然、人間の本質を突くような言葉を投げてくる。
そして今回の言葉は、僕が最近記事で書いてきた、アティチュードや自他境界の話とも重なっていた。
だから、特に引っかかったのだと思う。
この言葉は短い。
しかし、人間という生き物について、かなり重要なことを二つ同時に言っている。
一つは、人は生まれながらに弱さを持っているということ。
もう一つは、その弱さに抗う自由を持っているということだ。
人間は弱い。
これは、疑いようがないと思う。
寂しい。
怖い。
認められたい。
失敗したくない。
嫌われたくない。
誰かに必要とされたい。
自分が間違っていると認めたくない。
どれだけ大人になって、知識や経験やお金や肩書きを手に入れたとしても、人間の根本にある弱さから完全に逃げることはできない。
成長するにつれて、強さを手に入れることはできる。
弱さとの付き合い方を覚えることもできる。
しかし、弱さそのものを完全に消すことは、おそらくできない。
僕たちは死ぬまで、自分の弱さと付き合い続けるのだと思う。
でも、この言葉はそこで終わらない。
人間は弱い。
だから仕方がない。
そう言って終わるのではなく、
それでも、その弱さに抗うことができる
と続けている。
僕はこれを、かなり美しい言葉だと思った。
弱さを持っていること自体が、人間の価値を下げるわけではない。
弱さを抱えながら、それでも自分がどう生きるのかを選べる。
怖くても進むことができる。
逃げても、もう一度戻ることができる。
間違えても、それを認めて修正することができる。
誰かを傷つけても、その事実と向き合い、同じことを繰り返さないように抗うことができる。
人間は弱さを持って生まれる。
でも、その弱さだけに人生を支配される必要はない。
その自由が、人間には残されている。
ここで僕が特に美しいと思ったのは、弱さに「抗える」と言うだけではなく、それを人間の「自由」と表現しているところだ。
普通、自由という言葉を聞くと、何にも縛られず、好きなように生きられる状態を想像する。
しかし、この言葉の中にある自由は少し違う。
弱さから完全に解放されることではない。
弱さを持ったまま、その弱さにどう応答するのかを選べることだ。
人は、自分がどんな弱さを持って生まれるのかを選べない。
どんな家庭に生まれるのか。
どんな特性を持つのか。
何に恐怖を感じるのか。
何に依存しやすいのか。
どんな傷を抱えることになるのか。
それらの多くは、本人の意思とは関係なく与えられる。
弱さは、自分で選んだものではないことも多い。
でも、その弱さをどう扱うかまですべて決められているわけではない。
弱さを理由に他人を傷つけることもできる。
自分の不安を誰かの責任にすることもできる。
見ないふりをして逃げ続けることもできる。
逆に、それが自分の弱さであると認め、自分の領域に置き、少しずつ抗うこともできる。
つまり、弱さは人間に与えられた前提条件であり、自由とは、その前提に対してどんな態度を取るのかを選べる余白なのだと思う。
そして、自由であるということは、抗わないことも選べるということでもある。
人間は、いつでも正しい方向へ進むように作られているわけではない。
逃げることもできる。
ごまかすこともできる。
他人に弱さを投げることもできる。
それでも、自分の弱さに向き合い、抗うことを選ぶ。
逃げ道があるのに戻ってくる。
言い訳ができるのに、自分の責任として持つ。
だからこそ、その姿は美しいのだと思う。
最初から抗うことを強制されているなら、そこに人間のアティチュードは現れない。
抗うことも、逃げることもできる。
その自由の中で、それでも抗う方を選ぶ。
その選択に、人間の強さがある。
そしてこれは、そのまま僕が最近書いたアティチュードの話につながる。
アティチュードとは、僕にとって、その人が世界に対してどのような構えで立っているかということだ。
どんな能力を持っているかではない。
どれだけ弱さが少ないかでもない。
自分が持っている能力や弱さを、どこに向けるか。
その向きのことを、僕はアティチュードと呼んでいる。
弱さに抗うために、最初に必要なのは何だろうか。
僕は、自分の弱さを認めることだと思う。
自分は寂しい。
自分は怖い。
自分は認められたい。
自分は相手に依存している。
自分は責任から逃げたい。
自分は間違っているかもしれない。
まず、それが自分の弱さであると認めなければならない。
これができなければ、抗うための土台にすら立てない。
認めていないものを変えることはできない。
自分の中にあると認識していないものと、向き合うこともできない。
だから多くの場合、人は弱さそのものよりも、弱さを認められないことで苦しむのだと思う。
自分の不安を認められないから、相手を責める。
自分の寂しさを認められないから、相手に罪悪感を持たせる。
自分の失敗を認められないから、環境や周囲の責任にする。
自分の弱さを自分の領域に置けないから、他人の領域へ投げ込む。
ここで、自他境界の話ともつながってくる。
弱さを持つこと自体は悪くない。
でも、自分の弱さを自分で持たず、他人に処理させようとすると、人間関係は壊れていく。
自分の不安は、自分のもの。
自分の寂しさも、自分のもの。
自分の選択も、自分の責任だ。
もちろん、一人では処理できないこともある。
人に助けを求めることも必要だ。
誰かに支えてもらうこともある。
でも、助けてもらうことと、自分の弱さの所有権を相手へ渡してしまうことは違う。
「自分にはこういう弱さがある。だから力を貸してほしい」
と言うのと、
「自分が苦しいのはお前のせいだ。だからお前が何とかしろ」
と言うのでは、まるで違う。
弱さを認めるというのは、自分を責めることではない。
弱さを自分のものとして引き受けることだと思う。
自分の弱さを認めたとき、初めて人はそれに抗うことができる。
弱さを捨てるのではない。
弱さがあることを前提に、そのうえでどのように生きるかを選ぶ。
僕は宗教には詳しくない。
ただ、僕なりの理解では、仏教における悟りというものも、弱さを完全に消滅させることではなく、人間の欲や苦しみの構造を理解し、それにただ振り回されない状態に近いのではないかと思う。
弱さを完全に捨てることはできない。
でも、弱さに支配されないように抗い続けることはできる。
そのためには、自分のアティチュードに一本の芯を通す必要がある。
ただし、ここで言う一貫性は、一度決めた考えを死ぬまで変えないことではない。
自分が何を大事にするのかという芯を持ちながら、間違いに気づけば更新する。
言葉と行動を一致させようとしながら、ズレたときには修正する。
自分の弱さを認めながら、それを免罪符にはしない。
その姿勢を持ち続けることが、一貫性なのだと思う。
世の中には、いろいろなジャンルの作品がある。
でも結局、僕が強く惹かれるのは、自分の弱さに向き合いながら、泥臭くもがいている人間が描かれている作品だ。
完璧な人間を見ても、そこまで心は動かない。
最初から強い人間が、そのまま勝つ話でもあまり泣かない。
弱い人間が、自分の弱さから逃げたくなりながらも、それでも何とか立とうとしている姿に弱い。
何度も失敗する。
逃げる。
人を傷つける。
自分を嫌いになる。
それでも、自分の弱さを認め、もう一度抗おうとする。
そういう姿や言葉を見ると、僕は泣いてしまう。
なぜなら、そこに人間の強さと美しさを感じるからだ。
僕は、弱い人間が嫌いなのではない。
弱さを持っていることは、人間の前提だと思っている。
僕自身にも、消すことのできない弱さがある。
むしろ僕が嫌なのは、自分の弱さを認めず、その処理を他人に押しつけることだ。
弱さを理由に、他人を傷つけ続けること。
弱さを免罪符にして、変わろうとすることを放棄すること。
自分が向き合うべきものを、誰かの責任に変えること。
弱さを認められないことは、人間の醜さにつながる。
でも、弱さを認め、それに抗おうとする姿は、人間の美しさになる。
弱さそのものが、人を醜くするわけではない。
弱さをどのように扱うかが、その人を形作るのだと思う。
人は生まれながらに弱さを持っている。
その事実からは逃げられない。
でも、その弱さにどう向き合うかは選べる。
他人に投げるのか。
言葉でごまかすのか。
仕方がないと諦めるのか。
それとも、自分のものとして持ち、少しずつでも抗うのか。
弱さは、僕たちに与えられた条件だ。
でも、その弱さに対してどう構えるかまでは、まだ決められていない。
そこに、人間の自由がある。
弱くないことが強さなのではない。
自分の弱さを認めたうえで、逃げることも、ごまかすこともできる自由の中から、それでも抗うことを選ぶ。
その選択ができることが、人間の強さなのだと思う。
そう考えると、弱さに抗おうとしている時点で、その人はすでにかなり強いのかもしれない。