
アティチュード(態度)についての話
この記事では、アティチュードとは何なのか、そして僕がなぜこれにこだわるのかを書いていこうと思う。
そもそも、僕が「アティチュード」という言葉に出会ったのは、ごく最近の話だ。
関東に引っ越してからである。
そもそも僕がなぜ関東に引っ越したのか、自分でも正確にはよく分かっていない。
ただ、一番大きかったのは、自分がしたい会話ができる人間が多いと感じたことだと思う。
関東で生活する中で、音楽で飯を食っている人間とつるむことが増えた。
その中で、僕が「態度」の話をすると、何度か別の人からも同じようなことを言われた。
「それ、俺らの業界ではアティチュードって言うんだよ」
最初は、正直そこまでしっくり来なかった。
アティチュード。
なんか横文字だし、少し気取っているようにも聞こえた。
でも、意味を調べて、自分の中にあった感覚と紐づけてみると、かなりしっくり来た。
僕はもともと、この言葉を「態度」という言葉で表していたのだと思う。
ただ、僕が使っていた「態度」は、世間一般で言う態度よりもかなり広かった。
礼儀がいいとか、愛想がいいとか、そういう表面的な話ではない。
人にどう接するか。
言葉と行動が一致しているか。
自分の弱さをどう扱っているか。
責任から逃げていないか。
自由を求めると言いながら、誰かに責任を押し付けていないか。
そういう、その人が世界に対してどう構えているかを、僕はずっと「態度」と呼んでいた。
だから、アティチュードという言葉に出会ったとき、
「ああ、僕がずっと態度と言っていたものは、これに近かったのかもしれない」
と思った。
僕がこの言葉に強く反応した理由は、おそらくはっきりしている。
僕がこの世でかなり強く嫌悪するものが、アティチュードの一貫性のなさと不一致だからだ。
もはやこれ以外でストレスを感じることはないといっても過言ではない。
言葉と行動が一致していない。
自分で掲げている価値観と、実際の振る舞いがズレている。
責任を取っているように見せながら、実際には相手に責任を押し付けている。
反省しているように見せながら、その言葉を自己防衛に使っている。
そういうものを見ると、僕はかなり強く引っかかる。
そしてたぶん、僕はこのことを幼いころからずっと考えてきた。
僕は昔から、自分にルールを課して生きてきた。
それは、社会や常識が僕に与えるルールよりも、はるかにシンプルだった。
しかし守り続けるにはかなり厳しいルールだ。
筋を通すこと。
嘘をつかないこと。
自分の言葉の意味を理解すること。
言ったこととやっていることをできる限り一致させること。
人を裏切らないこと。
信頼を壊す行動をしないこと。
これらは、誰かに教えられたというより、僕が自分を守るために作ったルールだったのだと思う。
そして同時に、それは僕が僕自身を愛せる理由でもあった。
このルールがなければ、僕の輪郭はもっと曖昧になっていたと思う。
周りに流され、自分が何を大事にしているのか分からなくなり、最終的には自己嫌悪に落ちていたと思う。
つまり、僕は「態度」という言葉で表現する前から、無意識に一貫性を運用していたのだ。
しかし、大人になるにつれて、周りの人間が変わってくる。
浮気をする人間がいる。
薬物に手を出す人間がいる。
経験人数でマウントを取る人間がいる。
ギャンブルで破綻する人間がいる。
言っていることとやっていることが、まるで一致していない人間がいる。
僕には、それが受け入れられなかった。
理解できなかった。
そして、そのギャップにかなりショックを受けていた時期があった。
今思えば、その原因は間違いなく僕にある。
僕は、人間に対して勝手に期待しすぎていた。
人はもっと完璧を求めるものだと思っていた。
中途半端なことはしないものだと思っていた。
筋や人情を重んじる、賢い存在だと思っていた。
だから、現実の人間を見たときに、裏切られたような気持ちになったのだと思う。
でも、ここが少し面倒なところである。
僕は一貫性のない人間が許せない。
でも、僕の友人には、そういう矛盾を抱えた人間がたくさんいる。
そして僕は、なぜかその縁を切ることができない。
むしろ、ずっと近くで観察している。
なぜか。
たぶん僕は、本当はそういう人間が嫌いなだけではないからだ。
矛盾を抱えている人間。
汚い部分を持っている人間。
弱さを持ちながら、それでも泥臭く抗っている人間。
そういう人間が、僕はかなり好きなのだと思う。
もっと言えば、少し憧れてすらいるのかもしれない。
僕は自分の中にルールを作り、一貫性で自分を保ってきた。
でも、人間は本来、そんなに綺麗に生きられるものではない。
弱いし、矛盾するし、逃げるし、間違える。
それでも自分の弱さを理解し、泥臭く抗っている人間を見ると、僕はどこまでも味方をしてしまう。
たとえその結果、僕が裏切られたとしてもだ。
僕が嫌いなのは、弱い人間ではない。
汚い部分を持っている人間でもない。
むしろ、自分の弱さを理解しながら、それでも何とかしようとしている人間は好きだ。
僕が嫌いなのは、自分の弱さに向き合わず、それを他人や環境や言葉に外注する人間だ。
自分の言葉の意味を理解しないまま、周りを振り回す人間。
自分を責めているように見せながら、実際には相手を責めている人間。
反省しているように見せながら、責任の位置をずらしている人間。
被害者のような顔をしながら、相手に罪悪感を背負わせる人間。
そういう不一致が、僕は許せないのだと思う。
何度か元カノの件を記事にしたことがあるが、あれも結局この話なのだと思う。
言葉の意味を理解せずに、自己防衛のために使うこと。
自分の言動が相手に何を起こしているのかを理解しないこと。
自分の弱さを、自分で引き受けないこと。
そのくせ、言葉だけは綺麗に整っていること。
僕はそういうものに、強く反応してしまう。
だから、普段の会話でも、僕はよく相手の言葉に踏み込んでしまう。
「あなたはその言葉を、このニュアンスで使ったけど、本当に言いたいことはそこじゃないでしょ」
「その説明はたぶん後付けで、本当に満たされたいのはそこじゃないでしょ」
「それは自分を責めているように見えるけど、実際には相手に責任を返していない?」
こういうことを言ってしまう。
僕にとっては、相手を攻撃したいわけではない。
言葉と感情と行動の位置をそろえたいだけなのだ。
でも、相手からすれば、かなり面倒だと思う。
何気なく言った言葉を分析される。
自分でも気づいていない感情の位置を突かれる。
逃げ道として使っていた言葉を剥がされる。
それは、優しさというより、もはや解剖に近い。
だから僕は、人によってはかなり扱いづらい人間だと思う。
ただ、それでも僕は、この感覚を捨てたいとは思わない。
なぜなら、この感覚こそが、僕の中のアティチュードを作っているからだ。
僕は、能力そのものよりも、その能力をどこに向けるかを見ている。
頭が良いことは、別に偉くない。
言葉が上手いことも、別に偉くない。
行動力があることも、それだけでは偉くない。
問題は、それを何のために使っているかだ。
逃げるために使うのか。
丸め込むために使うのか。
自分を正当化するために使うのか。
それとも、責任を引き受けるために使うのか。
信頼を作るために使うのか。
自分の弱さを見つめるために使うのか。
この向きの違いが、僕にとってのアティチュードなのだと思う。
だから僕は、泥臭く自分の不完全さに抗っている人間が好きだ。
完璧である必要はない。
むしろ、完璧な人間なんてたぶんいない。
大事なのは、自分の弱さをどこに置いているかだ。
自分の中に置いて、向き合おうとしているのか。
それとも、他人に投げたり、言葉でごまかしたり、環境のせいにしたりしているのか。
そこに、その人のアティチュードが出る。
僕は昔から、一つ一つの出来事に対して怒ったり、傷ついたり、嫌悪したりしていた。
でもアティチュードという言葉に出会ってから、それらがかなり整理された。
僕が嫌っていたのは、個別の行動そのものだけではなかった。
その奥にある、一貫性のなさだった。
言葉と行動の不一致だった。
自分の弱さに対する構え方だった。
そう考えると、正直、この言葉に出会えただけでも、関東に来た意味はあったと思う。
アティチュード。
それは、単なる態度ではない。
礼儀や愛想の話でもない。
その人が、自分の能力や弱さや責任を、どの方向に向けているのか。
自分と世界に対して、どんな構えで立っているのか。
僕が見ているのは、たぶんそこなのだと思う。