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#784_水とはちみつ_掌編小説

    八合目の水は冷たく澄んでいた。キタキツネはもういないはずだと言われ、真尋まひろはそっと手を浸す。無心で喉へ送り込んだ水は、氷のように冷たく、喉がぎゅうと、聞いたこともない音を立てた。

    「まだなの」少し先の小径の先から鋭い声が放たれる。沢の少し先から機嫌の悪い母が、太々しい態度で笑い、ため息を吐いた。

    「都会の子気取り?」母の言葉は登山口から止まらなかった。白々しいわね。シャキッと歩きなさい。ああ遅い。遅い、遅い。何が大変なのよ。大袈裟ね……。
    真尋は太ももの張りよりも、乾いた空気を肺に取り込むたびに息が上がり、意識がふわりと遠のきかける。
    真尋にはもう、母の声は届いていなかった。

    「見晴台で昼食にしよう」と、リーダーの松本が言うと「松本さんのご意見なら」と母は機嫌をよくした。
    真尋は母の様子は脳内のカメラに収めて、体力の回復だけを考えることにした。

    真尋はこの沢の少し手前で、水を呑めるタイミングを見計らっていた。登山口と同じ草木のある場所では水を口にすると命がない──松本の助言からすると、植物の変わり目、ゴツゴツとした岩の足元に小さな高山植物がいくつも咲くこの辺りなら、そろそろ沢があるはず──真尋の読みは的中した。

    真尋はこの登山に乗り気ではなかった。登山は小学生以来で、喘息もちの自分が行けば足手まといになるのが明白だった。
    松本は母の職場のサークル仲間で、この日は母の誕生日だった。六人のパーティとは言え、長期出張で何も知らない父に無断で、松本に気のある母と出かけるのがどこか苦々しかった。当の松本は母の思惑にはまったく気づいていないように見えた。

    真尋は湧き出る水に顔を寄せ、沢の水のすべてを飲み干したい衝動に駆られた。冷たい流れから顔をあげた目線の先に、青色の小さな花がいくつも咲いていた。
    写真を送ると、ミヤマリンドウだと教えてくれたのは、大学の先輩の祐司だった。

    祐司からおどけて『たまには家族サービスだね』と返信が来た。真尋はため息をつく。立ち上がる前にもうひとくちだけ沢の水を口に含むと、からだじゅうに冴えた感覚が広がっていった。

    見晴台が近づいたのか、母が少し先から何度も大声で呼びつける。真尋は焦ることも怯えることも忘れて、ただ登りきることにしようと、開き直ることにした。

    無理なものは無理だ。からだが自分のコントロールを離れて、足を挫いたり、転んだりする方がよほど危険だと言い聞かせて、ただ小さく足を前に動かした。

    ほんとうに見晴台はそこにあった。傾斜のないなだらかな砂利道が続き、向こう側の稜線に雲がかげをつくり、ゆったりと右から左へ流れていく。

    腰を下ろすのにちょうどよい岩を松本が勧めると、真尋の太ももが悲鳴をあげた。松本は少し先を見ると言って、10分ほどパーティから離れた。松本が戻ると、真尋の手の甲に雨の雫が落ちたような気がした。

    「下山しよう」松本はきっぱりとメンバーに告げた。日差しは強いままだったが、太陽がいつの間にか厚い雲の中に入り、風が少し出てきたのは初心者の真尋にも感じとれた。

    真尋がひょっとしたら登りきれるのではと思った瞬間、松本と目が合った。松本は手元の時計に視線を落とし、もしも登った場合について語ると、様子見に同行した副リーダーの男も同調した。
    下山にかかる時間と体力的にも、山頂を目指さない方がいいという判断に、真尋は納得した。

    「あんたのせいで山頂まで行けないのね」登山口までの間、母は終始悪態をついた。結局この話は、お正月まで母の持ちネタとして笑われることになった。

    一行は昼過ぎには登山口に着いた。真尋は無事に山から降りて来られたことに安心した。帰りは松本が運転する車で、今度は砂利道をアクセルを踏みこむ度にからだを強く揺さぶられて、真尋は荒い息を吐いた。

    「マエストロの曲が聴きたいです」
    真尋は祐司にメッセージを送った。十分ほど待って、祐司からの返信を無意識に諦め始めた。そのとき、車が砂利道からアスファルトに変わる頃、祐司からメッセージのない音声ファイルだけが届いた。

    真尋は自分が祐司にメッセージ送ったことはすっかり忘れていた。イヤホンを耳に押し込む。ノイズキャンセリングの静寂が、排気音をぷつりとかき消した。

    再生ボタンを押すと、冷たく澄んだ水面に、青く冷たい光の建築物がゆらゆらと浮かび上がりる。重く、深い和音が幾重もの波紋を暗闇の中に広げる──真尋は頭を揺らし、いつの間にか深い眠りに落ちていった。


    翌日、真尋はふつう通りに大学へ行った。
    「はは、おもしろいお母さんだね」祐司が小さなため息混じりに真尋の肩に手を置く。
    「もう。笑いごとじゃないよ」真尋が祐司を見上げると、ポプラ並木が風にそよいで葉を擦らせた。
    「わたしがどれだけ運動音痴か。これじゃ鬼の仇よ」真尋はふくれっ面のまま、肩を落としてトボトボと祐司に並んで歩いた。

    「アイスでも食べる?」祐司が真尋の分厚い辞書を真尋の頭の上にぽんっと乗せる。
    「バイト代、入ったからさ」
    「え、いいよ。なんか悪いよ」
    「えー、おれ今日、誕生日」
    「あ!!」真尋は慌てて口元を押さえた。

    「まさか」祐司がふと足を止める。
    「忘れてた……?」
    「……ふっ、そんなもんよな」祐司は自虐気味に息を吐く。
    「ごめーん!」真尋はすかさずお詫びを入れた。
    「いいよ、おれはそういう役回りだからさ」祐司はあきれ顔で真尋に目線を落とす。

    「ふふ、うそうそ」真尋はトートバッグから教科書を取り出し、パラパラとめくって、真ん中のページから栞を取り出し、祐司に差し出した。

    「誕生日おめでとう」
    栞は黄みがかったアイボリーのキャンソン紙に、小さな穴を開けて、赤いリボンが通されている。
    描かれているのはほんのりと紫がかった、ミヤマリンドウの青色の小さな花だった。

    「高山植物は採ってこれないから……こんなのでごめん。お土産ものとか、なんか違うなって……」
    真尋が言うと、祐司は大きく首を振った。

    「いや、うれしいよ。ありがとう」
    祐司はまじまじと栞を眺めている。
    「おれは、こういうのがいいんだよ」
    祐司は再び歩き出して、ヒラヒラと栞を扇いだ。

    「ところで画伯。ほかにはないの?」真尋は祐司の意外な反応に驚いて、言葉を探す。
    「あるけど……あげられないよ、下描きとか」真尋は両手を胸の前で振って、ありえない、と言った。

    「ぜんぶ、ちょうだい」
    「は……?」真尋は声が裏返る。
    「ぜんぶ並べて、おれも登山行った気になる」
    祐司は、おれは嫌味は言わない、と言ってニヤリとした。
    「じゃ、ちゃんと色を塗ってラミネートするね」
    真尋がそう言って祐司の手から栞を取ろうとした。

    「これは、記念に飾っておく」祐司は頭の上に手を上げて、真尋をかわした。

    「この、未熟なのがいいのだ」祐司は栞を光に透かすように顔の前で眺める。真尋はつい吹き出して、いつものように機嫌を取られてしまう。

    「と、いうわけで」祐司はすっと息を吸った。
    「今日はビュッフェに行こう」祐司はもらったと言って割引券をちらつかせた。

    「はっぴばーすでー、おーれー」少しだけ音を外しながら歩いて、構内を出ると、祐司は駅前のホテルに目線を向けてから、真尋を振り返った。
    真尋が祐司の手に指先を触れると、祐司は真尋の手をつかんで大げさに振った。


    黒い光沢のある煉瓦模様の壁、大きな窓から中を見ると、ホテルは女性客とカップルで賑わっていた。
    祐司と真尋は歩きながらその様子を眺めていると、前から焼き菓子の甘い匂いが漂ってきた。

    早歩きになって祐司が真っ先に入ると、選んだのは薄い黄色のレモン味のシャーベットだった。
    真尋もそれを頬張ると、爽やかな酸味とほのかなミルクの味が口いっぱいに広がる。

    はちみつが、真尋の冷たく強張った喉を撫でていた。

    <了, 約 3,200 字>
    再編集: 2026/10/26, 11/4


    あとがき

    昨日の絵をヒントに物語にしました。
    今朝の書き下ろしです。
    本文が散らかっており、落ちついたら直したいです。

    これから何色にでも染まっていける透明な余白を持つ、次の時代の作品を眺める機会の多かった今年。

    厳格な研鑚を積んできたからこその、無駄な主張や力みのない、凛とした気品が漂う作品や、厳しい環境の中で創作の深みに触れてきたからこそ、美しい芸術に奉仕するような、瑞々しい感性に触れた年でした。

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    ゾロ目👀
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