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#796_小説_ 銀の曲刀[2]──風の残り香_中長編

     アイラは無機質な狭い部屋に入り、水をひと口飲み込んだ。衣装をハンガーラックに掛け、手首に巻いたシュシュをすべらせて髪をまとめながら洗面台の鏡を見ると、ぼんやりと白い影が浮いている。

     ビルの上層階の、楽屋というにはやや無機質な、時計と机のほかに余計な物のないこの部屋で、衣装の皺をスチームで伸ばし、服地の熱が引く間、手のひらを押したり、指を握りしめたりして、指先の感触を確かめる。

     やがて会場に入ると、主宰の挨拶が終わり、天井の照明がゆっくりと絞られた。アイラは羽のように歩いてピアノについた。アイラが雨音のように音をひとつ落とす。指先を、小さな灯が静かに照らしていた。

     遠くでグラスを重ねる音や、客同士の他愛もない会話が、高い天井に吸い込まれていく。周囲のざわめきに耳を澄ませて、その場の空気に合わせて曲を選ぶ。客とのつなぎ目のない協奏曲を密かに愉しんでいた。

     会食の終了間際に、アイラは曲をフェードアウトさせた。音の粒がしっとりと夜の空気に解けて、空気と一体になる。静かに消滅しかかる残響から指先をあげると、最後の音が消えるのと同時に小さな照明が落ち、誰も演奏を終えたことに気づいていなかった。

     アイラはピアノから席を立って軽く会場を見渡す。目礼を添え、近くの客と会釈をかわし、人目を避けるようにして密やかに楽屋へと歩き始めた。

     真横の壁から冷気が伝わる。大きな窓ガラスに広がる夜景が、アイラの横から白く浮き出て、進む先を照らした。

     アイラがつま先を出すと、ドレスの銀色のビジューがあとを追うようにして、ダウンライトを跳ね返す。アイラは残響の余韻に溶けるように楽屋へと姿を消した。


     ピアノの仕事を久々にこなしたアイラは、無性に何かで空腹を満たしたい欲に駆られた。ショウウィンドウの明かりが落ちた誰もいない通りで、歩行者信号が青に変わるのを待つ間、食事のことばかり考えた。

     緑色のパラソルが折りたたまれ、雨よけの透明なカーテンがかかったテラスの横を過ぎ、正面の重いガラス扉を引くと、深い音楽がこぼれて来た。アイラはソファにつき、アボカドトーストとコーヒーを頼んだ。

     食事を終えて駅へ向かう。夜更けの通りは昼間の喧騒とは裏腹に、人の気配がなかった。明かりの消えたガラスに、アイラのローヒールの音が規則的にリズムを刻んで跳ね返る。

     大通りに出ると客待ちのタクシーの行列に人だかりができていた。ショウウィンドウの明かりが反射して、そこだけが光の回廊のように浮いていた。
     真正面の歩行者用信号が点滅して、アイラは急がずに横断歩道へ近づこうと、歩幅を縮めた。

     ドンッ──左肩に衝撃が走る。アイラは咄嗟に、手にしていた携帯を落とした。衝撃で手元から携帯がすべり落ちて、跳ねて飛んでいった。

     そういえば、前から背の高い人影が近づく感じはしていた。アイラは足がよろけるまま、ぶつかった瞬間を反芻し、道に手をついて携帯を探す。 

     「すいません……」男はアイラがが思うよりも恭しく、大袈裟に詫びた。よそ見をしていたその男は素早くアイラに目線を落とし、小さく呟いて元の軌道に戻ろうとした。アイラは務めて冷静に、素っ気ない相槌を打つ。

     アイラの目の前にゆらりと影が立った。男は少し離れた場所から携帯を拾って手渡そうとしていたが、アイラは気づいていなかった。

     「あの、これ……」男はもう一度、深みのある燻んだ声でアイラに話しかけた。アイラが立ち上がろうとしたとき、男はアイラの白杖に気づいた。
     躓きそうになって思わず片足を引いた瞬間、アイラの手から白杖のストラップが外れて、道の端に杖が転っていった。

     アイラは頭が真っ白になった。平静を装い、杖の先を探す。
     「大丈夫ですか」白杖を先に掴んだ男は、アイラにどう手渡していいか戸惑う。

     男は膝を折ってアイラの前に立ち、アイラの手の甲を手に取り、しっかりと杖を手渡した。アイラは目線を上げ、男の胸元辺りで空間を見つめる。男は杖とアイラを交互に見ている。

     「はい、これ」男は規則に従うような淡白な声で言い、杖の持ち手をしっかりとアイラに渡し、両手でアイラの手を丸ごと包んだ。アイラは見知らぬ男に急に手を掴まれてたじろいだ。

     「じゃ……」男は音もなく背を向けてアイラの来た方へと歩き去った。男の背中が翻った瞬間、影のある荒々しさと、その気配に不釣合いな柔らかな気品が残る。

     幼い頃に触れた花の香り、儚くパウダリーな影。肌に密着して離れない不思議な温度感の香りが、静寂の中に溶けていく。姿は消えても、男は確かにそこにいたという微かな熱を、アイラは感じていた。


     翌日、アイラはオフィス街の裏手の小さなラウンジで歌っていた。先日のパーティとは違う、オーロラの入った白銀色のロングドレスを纏い、囁くようなウッドベースに、艶のあるアルトの声を溶かしていた。

     歌い手を交代して、アイラは楽屋に戻った。化粧台の横の、蝋燭のような電灯を点けると、ぼうっと辺りを照らした。鏡の前には花束や差し入れ、メッセージカードが置かれていた。

    アイラはそれらを一瞥し、ミラーの前に腰かけ、ふっと息をついてこめかみに手を当てた。同時に、誰かがドアをノックする。聞き慣れない・・・・・・音だった。

    
 「はい」アイラは抑揚のない声で返事をした。外から返事が聞こえ、「どうぞ」と言うと、ドアが開き、黒い影の男が立っていた。

     
「こんばんは」
男は輝度を抑えた低い声で言った。アイラはこの男にはまるで見覚えがなかった。
     アイラの長い指先が、ミラーの脇のスイッチに触れ、周囲が明るくなる。横目に映るその男は長身で体格がいい。

     

「どなたですか?」
アイラは見知らぬ人間に愛想をふりまくほどお人好しではない、というのが信条で、男の様子をじっと見ていた。


    <了, 約 2,400 字>
    執筆、推敲: 2026/10/02
    再編集: 11/05


    創作メモ

    この回はアイラの行動記録、日記のようで、シーンの整理と描写のアイデアがうまく出ずに、下書きに入れていました。このあとのシーンを1,500字ほど加筆して公開する予定でした。

    最後の推敲(本日)で、かなり描写を削ぎ落とし、読み進めても説明的で(?)読みにくさを感じて公開を迷いましたが、一旦このシーンまでで切りました。
    毎日小説を書かれる方を、心から尊敬します。

    小説を書くって、楽しいですね。
    物語を通して、読み手の方に何が伝わったのかを想像するのも楽しいです。

    またお目にかかりましょう🌙

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