メインコンテンツへスキップ
見出し画像

#787_バニラの余白[1]_掌編小説

    粉雪の降る夕方、すっかり陽のおちた冬期講習の帰り道。駅から大学前の誰もいない道で、真尋は見てはいけない大人の世界と鉢合わせした。

    「無理なの」塀が途切れた瞬間、凍てついた声がした。真尋はドキリとして顔を上げて立ち止まった。門灯の下に大柄な男が背中を向けて立ち、胸元から漏れた白い息の結晶が、灯りの下をきらりと流れる。

    さようなら──冷たく凛とした声がして、背の高い男の人の影から小柄な女性が現れた。ヘリンボーンのストールにかかる、肩までのストレートヘア。夕焼けのように朱いスタンドカラーのコートが、雪の白さに鮮烈に映える。

    彼の方は真尋に気づいていなかった。女性は足早に真尋の横を過ぎようとする。コートの襟元の煙水晶スモーキー・クォーツのブローチが反射して、真尋は咄嗟にカバンで制服を隠すように道を譲った。

    彼女が通り過ぎる瞬間、粉雪が門灯を斜めに横切ると、ほんのりとバニラとラベンダーの冷たく甘い香りがした。

    真尋ははずみで、塀の下にできた雪だまりに足をついた。粉雪がかかとの低い革靴の隙間からそっと入り込んで、足首のあたりでじわりと雪が溶けていく。

    真尋は取り残されたその彼に気づかれる前に、元の道へ戻ろうとして、こちらを振り返る彼と目が合った。

    しまった……真尋は目線が泳ぐ。彼はダークグレーのダッフルコートに深緑のマフラーを巻いて、フリンジにほんのりと雪がかぶっている。
    目にはうっすらと光るものが見えた気がした。

    男のひとでも泣くんだ──と、真尋は息を呑み、咄嗟に視線を外してポプラ並木の暗がりへ目線を逸らす。

    「あ……」マフラーの彼はかすれた声でぽつりと呟くと、白い息が門灯の下で長く伸びる。

    「すみません!」真尋は俯いたまま大きくお辞儀をすると、プリーツスカートの裾が跳ねる。真尋は左右を見て誰もいないのを確認して、その彼に近づいた。

    「あ、あの、よかったらこれ……どうぞ……」
    真尋はコートのポケットから小さな缶を男に差し出した。渡したのは、少し小ぶりのチョコレートドリンクの限定缶だった。

    真尋は来た道を指さして早口で言った。
    「そ、そこで買って……でも私、よく考えたらダイエット中で。こんなの夜に飲んだら……あ、いや、なんでもないです」
    真尋の言葉はうやむやに消え、口元をコートの襟に埋めた。

    「ああ……ありがとう」彼は手袋をしていないその手で、真尋が差し出した缶を受け取る。缶はまだ熱く、彼は指先で、あたたかな缶の表面をなぞった。

    真尋は居合わせた気まずさと、自分の突飛な行動が急に恥ずかしくなって、身をすくめた。差し出した自分の手が、夜の空気にぽつんと取り残される。

    真尋ははっと正気に戻り、伸ばした腕を抱え直して、逃げるように視線を革靴の爪先に落とした。
    彼は真尋の様子を見て、ふと笑みをこぼす。

    「……受験生?」彼は白い息を吐き出して、缶に描かれた合格祈願のロゴを見て呟いた。

    「は、はい。志望校で……」
    真尋は横目で門灯の先のポプラ並木を見て、思わず素直に答え、口元を押さえた。彼は真尋を見て、ふっとひと笑いする。

    「そっか、がんばって」彼は少しはにかんで、小さな缶をコートのポケットに押し込んだ。
    真尋が小さくお辞儀をすると、彼は冷えた指先をその中で温めるようにして、そのまま暗がりへ背を向ける。


    「まって」真尋が何歩か歩いたあと、背後で声がした。振り返ると、彼はゆっくりと歩いて真尋に近づいて立ち止まり、白く乾いた手で長財布を開いた。

    門灯の光が革の表面に淡く反射し、吐き出した細い息が手元の影を揺らす。


    <了, 約 1,500 字>
    後編につづく。
    書き始め 2026/10/26、再編集 10/28 夜


    あとがき

    スケッチのように、お試しで書いてみました。
    前編、後編の予定です。

    全体で5,000字ほどを目指して書き始めましたが、あまりにも書くのが遅く、少しずつ公開することにしました。今回は2,000ほど出すつもりで、物語の長さで字数が控えめになりましたが、しっかりと「冬」を表現できればと思います。また、一昨年に同じく、温かな冬で行きたいと思います。

    今後ともよろしくお願いいたします🙂

    連載中の作品

    画像

    ▶ほかの記事をお探しですか?(記事検索)
    すべての記事:人気、急上昇、新着、定番など

    あなたへのおすすめ