
#789_バニラの余白[2]_掌編小説
キャンパスを囲む古いレンガ塀の切れ目から、彼は真尋にゆっくりと近づいた。真尋が息を呑むと、鼻の奥がツンとして肺の中まで凍った空気が沁みていく。
「おれも、これ……」彼はコートから革の財布を取り出して、白い紙を二枚、真尋に差し出す。真尋は渡された白いチケットと彼と、交互に見た。
定期演奏会?真尋が不思議そうに目線を上げると、彼は口元を緩めてうなずいた。
「友達と、よかったら」彼はそれだけ言うと、真尋が渡した小さな缶を片手でひらりと挙げて言った。
「これ、ありがとう」それじゃ──彼は真尋に背を向けて、駅の方へ歩いて行った。真尋は手にしたチケットに目線を落とすと、粉雪が落ちて、券の上ですっと溶けた。真尋はチケットを手袋の中へ滑らせて、コートの袖口で隠すようにして急ぎ足で歩き出した。
「ただいまー」真尋の声が暗闇に吸い込まれる。部屋の電気を点けて、ポストにあった母親宛ての郵便物をダイニングテーブルの端に置いた。エプロンをつけて冷蔵庫を覗くと、母親に「今日はカレーだよ」とメッセージをした。
カレーができて、母親が帰るまでの間、友人の心春と通話をした。けれど、帰り道で会ったマフラーの彼と、チケットのことは、どうしても話し出せずにいた。真尋はチケットを挟んだ参考書に目線を送る。
あの人──なんで泣いてたんだろう。どうしてあそこにいて、あの女の人と何があったんだろう……。
真尋は心春との通話の途中で、聞いてる?と言われて声が裏返った。心春と話し終えて、真尋はベッドに身を投げ出して、天井を見つめた。
あの夕方──チョコ缶、渡さない方がよかったかな。もう一度あの時の自分を思い出して、顔がカッと熱くなる。
真尋は頭のモヤモヤをふり払うように、深く息をついて起き上がった。チケットを挟んだ参考書を開いて、もう一度閉じ、一旦、胸の奥にしまい込んだ。
その日はなぜか勉強が捗って、真尋はよく眠った。
次の日、真尋は心春の誘いで、神宮前のカフェに来ていた。久々に晴れて、窓の外に溶けた雪のしずくが落ちて、白いテーブルクロスに当たる日差しがチラチラと揺れる。
心春は遊び納めと言って、好物のいちごパフェを頼んだ。運ばれてきたグラスを見つめる目が、一瞬でパッと華やぐ。
「このパフェ、時々ジュレの味が変わるんだよね。今日はフランボワーズ……合格したら、絶対シャインマスカットの食べたい」心春はソースとアイスをすくって、心底幸せそうに頬張った。
「あ、それいい」真尋はフォンダンショコラに添えられたフルーツとアイスを口に含んで、目を細めた。
「真尋。どうしたの?」心春は真尋がフルーツを口にしたまま、うわの空でいるのを見て、真尋に切り出した。
「そういえば……昨日のイケメン!」
心春は身を乗り出して、真尋の顔をのぞき込む。
「え、イケメン?大学生だとは思うけど……」
真尋は記憶を辿りつつ、彼の顔を思い出せなかった。大きなリュックを肩にかけて、マフラーの端が少し凍っていて。細い黒縁のメガネに、二重まぶた……泣いているように見えたことは、言わなかった。
「これなの」真尋は参考書からチケットを出して、心春の前に差し出した。
「へえ……合唱部」心春はチケットを手に取って、裏返したり、表に戻したりしている。
「どうかした?」真尋は心春を見つめる。
「瀬田祐司」心春が唐突に言う。
「え?」
「チケットをくれた人、この伴奏の人じゃない?」
「だれ?」
「ほら、裏面にハンコが」
心春はチケットの裏面を真尋に指差して見せた。表面に書かれたピアノ伴奏者と同じ名前が、裏面にゴム印で押されている。
「あ、ほんとだ」真尋は少しも気づいていなかった。
「これって、その女の人と行く予定だったとか?」心春は真顔で言った。
「うそ。え、いいのかな……」真尋は口のなかに広がったフルーツの甘みがすっと引いて、フォークを置いた。
「うーん。でも、そんなのくれるかな。大丈夫じゃない?もらっておけば」心春はクリームを飲み込んで、あっさりと結論を出す。
「でも……返そうかな」
「そう?行っても行かなくても、その人には分からなくない?広いよ、文化会館」心春はチケットをテーブルに置いて指差した。
「そっか……。そうだよね」
「それに。どうやって返すの?」心春は大きなメガネのレンズ越しに、涼しげに言う。
「その人の友達だとしたら……やっぱりデート?」心春は推理を楽しんでいた。
「やだ、やめてよ」真尋が不安げに言うと冗談、と心春は笑う。
「それじゃ、もしまた会えたら……合格できるとか」
真尋はフォンダンショコラにフォークを入れると、生地が柔らかく崩れた。中から熱いチョコレートがとろりと溶け出すと、濃厚な甘い香りが湯気とともに立ち上り、真尋の鼻先をかすめた。
「うん。神様からのプレゼントかも」心春はひときわ大きな口で、パフェのスポンジをひと口で頬張った。
「冬休みが明けたら、うちらもあんまり会えないのかな」心春はいちごクリームをひと舐めする。
「ね、授業ほとんど無いよね」
「高校って結局、二年までしかなくない?」
「うん。三年生がこんなに短いと思わなかった」
二人は目の前のスイーツと交互に、給仕が淹れたダージリンティーのカップに口をつける。真尋はカップの持ち手に指を通したとき、あの彼の指先がとても冷えていたのを思い出していた。
「この制服であと何回学校行くのかなー……」
心春は紺色のボレロの袖のくるみボタンに頬を寄せる。
「あともう少し、着ていたかったかも」
真尋はボレロの裾を少しめくって、裏地の感触をたしかめた。
「言えてる」心春も笑う。
「この服、ベルトがちょっとダサいのがいいよね」真尋は片手でお腹を押さえてはにかんだ。
「うんうん。かわいいけど、ちょっと古臭いなって」
「うん。お婆ちゃんの時代から変わらないとか」
「生きた化石……」心春と真尋の声が重なった。
笑い合ったあと、窓の外から雪解けの水滴がポトンと落ちて、二人はふっとカップの湯気に顔を寄せる。
「……行ってみようかな」
真尋はカップの底に残る温もりを手のひらで包み込む。チケットの名前を見て、ほほえんだ。
あの人の名前かな、それとも──。
<了, 約 2,400 字>
あとがき
スケッチのように、お試しで書いてみました。
前編、後編の予定でしたが、もう1話追加することにしました。
(これ以上広がらないようにしよう……)
一昨年の目標でもありました、「冬」をしっかりと表現できればと思います。また、一昨年に同じく、温かな冬で行きたいと思います。
今後ともよろしくお願いいたします🙂
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