
先生が「たいしたことない」と言った日に、考えたこと
SSTでの涙を、どう見るか
支援学校に移ってから、娘は友達に恵まれるようになりました。
教室でも、休み時間でも、安心できる関係が育っているのを感じます。
それなのに、放課後等デイサービスのSST(ソーシャルスキルトレーニング)のプログラムで、娘が泣くことがあります。
デイの先生は言いました。
「そんなにたいしたことじゃないのに」
けれど私は、どうしても思うのです。
その涙は、今この瞬間だけが原因ではないのではないか、と。
傷は、終わっていないことがある
娘は以前、小学校の通常学級で、友達関係のトラブルを経験しました。
男の子から「死ね」と言われたこと。
仲良くなりたいと思っていた子から、そっけなくされ続けたこと。
障がいがあることで、はじめは優しくしてもらえていたのかもしれません。
けれど関係が長く続くにつれて、娘の言動のクセ――距離感の近さ、同じ話の繰り返し――が、相手にとって負担になっていったのだと思います。
先生とも何度も話し合いました。
けれど先生という立場では、娘が本当に満たしたかった「対等で安心できる関係」を埋めることはできませんでした。
こうした経験を重ねた心と体は、「人と関わる場面」そのものを、危険のサインとして記憶することがあります。
これは、気持ちの持ちようの問題ではありません。
神経系が学習した、ごく自然な防御反応です。
SSTが、そっと過去に触れるとき
SSTは本来、対人関係の力を育てていく、前向きな時間です。
でも、その時間の中には――
・誰かと、うまく関われるかどうか
・相手との距離感を、確かめ合うこと
・もしかしたら、うまくいかないかもしれない、という気持ち
そんな、少しだけ、あの日の出来事に似た空気が流れていることがあるのかもしれません。
だから、目の前の課題がどんなに小さくても。
娘の心のどこかで、「また、あの時のようになるかもしれない」という不安が、静かに顔を出してしまう。
それが、涙という形になって表れているのだと思います。
「たいしたことない」がもたらす、もうひとつの傷
トラウマインフォームドケアの土台にあるのは、次のふたつです。
「安全であること」
「本人の反応を、そのまま信じること」
大人が「そんなに大したことじゃない」と判断してしまうと、子どもにとっては――
・自分が感じている不安や恐怖が、また"なかったこと"にされる
・「泣くほどのことじゃない」と言われることで、感情を出すこと自体が悪いと学習してしまう
・学校で感じた「自分の気持ちは相手にされない」という傷が、デイケアという安全なはずの場所でも繰り返される
小学校で受けた傷が、支援する側の大人によって、もう一度軽く扱われる。
これは、新しい傷ではありません。
同じ傷の再発です。
支援する側にできること
トラウマインフォームド・コンセントという考え方があります。
これは、「大人が良いと思う方向へ導く」ことではありません。
本人の選ぶ権利と、ペースを尊重すること。
それが土台になります。
具体的には――
・泣いた場面の前後で何が起きていたかを記録し、パターンを探ってみる
・「甘えている」ではなく「過去の経験と関係しているかもしれない」という枠組みで、支援者同士が共有する
・プログラムの"できる・できない"よりも先に、「安心して参加できているか」を確認する
おわりに
子どもが泣くとき。
それは弱さではなく、心が発しているサインです。
「大したことない」と切り捨てる前に。
その涙の向こうに、まだ終わっていない何かがあるかもしれない。
そう考えることが、子どもの心の安全を守る、最初の一歩なのだと思います。