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本質を見ず、枝葉を取り締まる人間社会【第2部】規範・平等の議論はどこですれ違うのか

    第3章 ルッキズムやトップレス議論は何を解決しているのか


    「女性は上半身を露出してはいけないのに、男性なら許される。この違いは不平等ではないのか」
    そんな議論を見た。

    男女で異なる身体の規範がどのように形成され、維持されているのかを考えることには価値がある。

    ただ、私が見過ごせないのは、議論が「女性もトップレスでいいじゃないか」という結論に集中したとき、それで何が解決したことになるのか、という点である。

    女性の胸が性的な意味を持つこと。性的な魅力を感じること。他者の身体をどこまで見てよいのか。身体を露出する自由。性的な行為に対する同意。性暴力の防止。

    これらは互いに関係しているが、同一の問題ではない。

    たとえば、女性が胸を露出する自由を認めれば、他者の身体を尊重しない人間がいなくなるのだろうか。
    男女の露出に関する規範が変われば、性をめぐる侵害やハラスメントが消えるのだろうか。
    そうではないだろう。

    身体の露出に関する規範を変えることと、性的な欲求や他者への接し方をめぐる問題を解決することは、別の課題なのである。

    不公平だと感じる状態をなくしたいという要求と、社会に存在する不利益の構造を変えようとする要求は、時にすれ違う。

    ある側面だけを『同じ』にしても、別の側面にある不利益の構造がそのまま残ることもある。

    だからこそ、「平等」という言葉だけで議論を終わらせることはできない。何を守り、何を変え、どのような結果を目指すのか。その中身を検証しなければならない。

    また、人間の性的な欲求には生物学的な背景もあれば、文化や学習の影響もある。

    だが、ひとつ明確に区別しておかなければならないことがある。

    性的な欲求が生じることと、その欲求に従って他者に何をしてもよいかということは、まったく別の問題である。

    誰かに魅力を感じることは、その人の身体に触れてよいという許可にはならない。
    欲求そのものを悪として否定するのではなく、本能が存在することを認めたうえで、他者と共存するためにどのような行動を制限・調整するのかを考えること。 

    個別の不均衡を是正することだけに集中して、
    なぜその不均衡が生まれたのか、
    どんな仕組みが維持しているのか
    を問わなければ、目に見える枝葉をひとつ変えただけで終わってしまう。


    第4章 本能と社会規範――人間の欲求をどこまで制御できるのか


    人間には欲求がある。食欲、性欲、睡眠欲。危険から身を守り、利益を求め、損失を避け、他者と競争し、集団から認められようとする傾性。

    人間は理性だけで構成された存在ではない。頭ではわかっていても、欲望や感情に動かされることがある。

    それなのに、社会の問題を考えるとき、私たちはしばしば「規則を作れば人間はその規則に従うもの」として話を進めてしまう。

    利益を求める人間に、利益を求めてはいけないと教えても、欲求そのものは消えない。

    ここで私たちは重要な前提にぶつかる。

    人間の欲求を制御することと、人間の欲求そのものをなくすことは、同じではない。
    この違いを考えずに規範を設計しようとすれば、欲求が存在すること自体を問題視したり、欲求を持つ人間を取り締まることに終始したりする。
    しかし、本当に必要なのは、
    欲求を持つ人間が互いの存在を脅かさずに暮らせる条件を作ることだ。

    例えば、理不尽な扱いを受けたときに怒りを感じること自体は、意思で消せるものではない。
    だが、怒りを感じることと暴力を振るうことは別である。

    社会の規範が制御すべき対象は、内面そのものではなく、他者の自由や安全を侵害する「行為」である。

    極端な話、人間から攻撃性や性欲、競争心を脳からすべて取り除けば平和になるのだろうか。

    どの欲求を取り除くべきかの基準は誰が決めるのか。欲求を失った人間が果たして社会を維持できるのか。人間を守るための発想が、いつの間にか「社会にとって都合のよい人間を作る」というディストピアに変貌する危険すらある。

    社会の制度は、人間の欲求や衝突があるからこそ必要になる。

    交通規則が自由な移動を一時的に制限することで安全な移動を可能にするように、社会的な規制は単なる禁止ではなく「ある行動を制限することで、別の安全や自由を可能にする仕組み」なのだ。

    人間の本能を消し去ることではなく、欲求を持つ人間同士が共存できる構造を作ること。
    ここが出発点になる。

    第5章 コンプライアンスの形骸化――「対処したフリ」をする組織


    コンプライアンスもハラスメント対策も、人間を守るために必要な仕組みである。しかし、規範を設けたからといって、社会や組織が自動的に良くなるわけではない。

    職場でパワーハラスメントが起きたとする。
    加害者である上司を調査し、処分する。これによって、その上司による加害行為を止めることはできる。被害者を保護し、責任を問うことは絶対に不可欠だ。

    しかし、それで職場の問題が根本解決したとは言えない。
    その職場に達成不能なノルマがあり、業務量に対して人員が不足し、上司自身も過度なプレッシャーに晒されていたらどうだろう。問題を報告した人間が厄介者扱いされる風土が残っていたらどうだろう。

    その条件が放置されている限り、別の上司が同じ立場に置かれれば、同じハラスメントが再生産される。

    個人の責任を問うことと、行為を生み出す仕組みを変えることは別の課題なのだ。

    さらに組織では、「手段と目的のすり替え」が頻繁に起こる。

    コンプライアンス研修を実施した。規定を作った。相談窓口を設けた。
    これらは対策の『手段』に過ぎない。

    本来の『目的』は、被害を減らし、誰もが安心して働ける環境を作ることだ。

    ところが、「研修を実施したか」「書類が整っているか」という確認しやすい形式上の指標が評価の中心になると、いつの間にかそれらを達成すること自体が目的化する。

    研修を行えば「対策をしたこと」になり、
    規定を作れば「問題に取り組んだこと」になる。


    制度を整えたことと、制度が目的を達成したことは違う。

    形だけの対応で満足したとき、規範は人間を守るためのものではなく、組織が「問題に対処している」と世間にポーズを示すための道具へと変貌してしまう。

    ©︎渦ノ廻太郎


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    世界の当たり前や自分自身にも疑いを向ける。そんな哲学や思想を、日常のエッセイや考察レポートにしてます。 想像の世界をペン画の絵本も制作中。 綺麗事だけでは済まない矛盾、答えのない問いが好きです。 目指すはエッセイや絵本などを出版する作家。 書いて描いて、考え続けています。

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