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本質を見ず、枝葉を取り締まる人間社会【第4部】制度が免罪符になるとき、私たちは何を見失うのか

    第10章 「手段の目的化」という人間の業


    危険を防ぐために規則を作る。
    問題を発見するために監査を行う。
    質を高めるために評価制度を設ける。

    人間は本来の目的のために仕組みを作るが、いつの間にか手段そのものがゴールへとすり替わる。

    点検表を埋めることが仕事になり、研修を受講した実績が対策になり、監査を通過することが安全の証明になる。

    なぜ、この「手段の目的化」が繰り返されるのか。

    最大の理由は、「目的そのものよりも、手段(指標)のほうが確認しやすいから」である。

    「従業員が本当に安全に働けているか」を調べるには手間も時間もかかり、複雑な実態と向き合わねばならない。
    しかし「点検表が提出されたか」なら、書類一枚で誰でも一瞬で確認できる。
    管理する側にとって扱いやすいのだ。

    さらに、手段を実行すること自体が「仕事をした」という満足感を与えてくれる。

    書類を作り、会議を開き、研修を実施すれば、問題に取り組んだ気になれる。
    実際に効果があったかどうかを追及すれば、自分たちの過去のやり方の不備や責任を認めなければならなくなるため、対策を実行したという事実だけで「完了」にした方が都合が良いのだ。

    問題を解決するために作った制度を、問題がないように見せるために利用する。

    その結果、制度や手続きだけが立派に残され、本来守るはずだった人間の安全や権利は置き去りにされる。

    必要なのは、制度を無くすことではない。
    「この手段は、本当に本来の目的に役立っているか?」と問い続け、実態を確かめる眼差しを手放さないことである。

    第11章 問題に慣れ、無関心になる構造


    問題が起き、誰かが声を上げ、一時的に注目されても、時間が経つと関心が薄れていく。

    問題が解決したからではない。問題が存在し続けているのに、人々が慣れてしまうのだ。

    最初は異常だと思っていたことも、繰り返されるうちに日常になる。
    人間には環境に順応する性質があるため、毎回すべてに怒りや不快感を示していては生活が持たないという側面もある。

    だが、無関心に見える態度の裏側には、しばしば「不快感」ではなく「諦め」がある。

    何度訴えても変わらない。自分ひとりが声を上げても無駄だ。波風を立てれば自分が損をする。そうした学習の積み重ねが、人間から怒りを奪い、沈黙へと追い込む。

    世の中には無数の問題がある。自分の生活を維持するだけで精いっぱいの人間に対して、「もっと意識を持て」と叱責するだけでは何も変わらない。

    個人の意識を変えようとする前に、
    声を上げた人間が不利益を被らない仕組み、問題を指摘することが組織の改善として評価される環境を整える必要がある。

    問題に慣れて日常に溶け込ませてしまったとき、私たちは改めて問い直さなければならない。
    なぜ、これが当たり前になっているのか。
    誰が困っていて、誰が変えないことで得をしているのか。
    慣れは問題を消し去るのではない。ただ見えなくさせているだけなのだ。


    第12章 なぜ人間は、根本原因ではなく末端を取り締まるのか


    職場で事故や不祥事が起きたとき、社会や組織は真っ先に「末端の違反者」を探し出し、その人間を取り締まることにエネルギーを注ぐ。

    作業員が手順を怠ってケガをした。だからその作業員を処分する。
    一見、理にかなっているように見える。

    しかし、なぜその作業員は手順を省かざるを得なかったのか。手順通りにやると時間内に終わらない人員配置だったのではないか。

    個人の行為は目に見えやすく、特定しやすい。
    そして何より、特定の個人を処分・罰することは、外部に対して「我が社は厳正に対処しました」というポーズを最も素早く示せる。

    もし根本原因まで掘り下げてしまえば、組織の評価制度、人員計画、経営陣の判断、これまでの慣習といった「組織そのものの構造」まで改めなければならなくなる。

    それはコストがかかり、権力を持つ側の責任問題に発展し、全員にとって都合が悪いのだ。

    だからこそ、末端の個人を取り締まってトカゲのしっぽ切りを行うことは、組織が自分たちの仕組みを護衛するための最も都合の良い解決策になってしまう。

    しかし、違反者を生み出す条件が残っている限り、人間を入れ替えても同じ問題は必ず再生産される。

    個人の責任を追及することと、問題を再生産する仕組みを変えること。
    この両方を実行しなければ、真の解決には至らない。個人への処罰を終着点にしてはならないのだ。

    終章 枝葉を切りながら、根を見つめ続けること


    コンプライアンス、ハラスメント、性の規範、戦争、国家、労基署の監査。
    一見散らばっているように見えたこれらの問題は、すべて一つの問いに収束する。

    なぜ人間は、問題を解決するために作った仕組みを、いつの間にか「問題を解決したように見せるため」に利用してしまうのか。

    人間には欲求があり、利害があり、保身がある。自分が楽をしたい、立場を守りたい、批判されたくないという小さな選択の積み重ねが、個人を超えた巨大な「問題を隠蔽する構造」を作り上げていく。

    だからこそ、悪人探しだけで社会問題を説明することには限界がある。

    悪意のない人々が、それぞれ自分にとって都合の良い行動を選んだ結果として、不当な構造が維持されていくからだ。

    枝葉を切り落とす作業(目の前の違反を取り締まり、被害者を救うこと)は必要だ。枝葉を切らなければ、今まさに困っている人を助けられない。

    だが、枝葉を切っただけで「根本まで解決した」と思い込んではならない。根っこを調べなければ、同じ枝葉は何度でも伸びてくる。

    規則を作った。対策を実施した。誰かを処分した。謝罪した。
    それらをもって「もう問題は解決した」と考えるのをやめること。


    「本当に問題は解決したのか?」
    「誰かが我慢することで、見えなくなっただけではないのか?」
    「制度を守るために、本来の目的を犠牲にしていないか?」


    この問いを持ち続けることは、時には自分自身や所属する組織の欺瞞を認めることになり、不快感を伴うかもしれない。

    しかし、自分にとって都合の良いところまでしか思考を伸ばさないのであれば、『私たち自身が問題を再生産する仕組みの一部』になってしまう。

    絶対に間違えない完璧な正解を手に入れることなどできない。

    だからこそ必要なのは、自分が、組織が、社会が「何をしているのか」を常に問い直せる状態を保つことだ。

    人間を取り締まるだけでは、同じ行動を繰り返す仕組みまでは変えられない。

    枝葉を切りながら、なぜそこに枝葉が伸びるのかという根っこを考え続けること。

    私は、その問いを手放さず、問題提起し続ける。

    ©︎渦ノ廻太郎

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    第1部

    第2部

    第3部

     
     
    世界の当たり前や自分自身にも疑いを向ける。そんな哲学や思想を、日常のエッセイや考察レポートにしてます。 想像の世界をペン画の絵本も制作中。 綺麗事だけでは済まない矛盾、答えのない問いが好きです。 目指すはエッセイや絵本などを出版する作家。 書いて描いて、考え続けています。

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