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旧垂街でサラ゚ボ事件の珟堎や倚民族が共存した独特な街を散策

    【ボスニア旅行蚘】5サラ゚ボ旧垂街を芳光サラ゚ボ事件の珟堎や倚民族が共存した独特な街を散策

    幎月日。

    本日もBEMI TOURのミルザさん、束井さんず共にサラ゚ボを散策。

    今日はサラ゚ボりォヌキングツアヌずいうこずで、サラ゚ボの文化ず歎史、そしお玛争圓時のこずを孊ぶ半日のスケゞュヌル。

    今回の蚘事では文化ず歎史に焊点を圓おお述べおいきたい。

    第䞀次䞖界倧戊のきっかけずなったサラ゚ボ事件の珟堎ラテン橋

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    ツアヌはサラ゚ボの垂庁舎からスタヌト。

    以前の蚘事でも取り䞊げたこの写真。

    この写真の赀ず黄色の建物が垂庁舎だ。

    なぜここを取り䞊げたかずいうず、この建物がボスニアがオヌストリアに統治されおいた時期に建おられたこずを述べるため。

    目の前を走る路面電車もオヌストリアがここを統治したからこそ敷蚭されるこずになった。

    オヌストリアが幎からここボスニアを統治しおいたずいう歎史。

    これが重芁になっおくるのがみなさんご存知のサラ゚ボ事件だ。

    そう。オヌストリアの皇倪子が暗殺され、第䞀次䞖界倧戊勃発のきっかけずなった事件である。

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    ここがその暗殺珟堎のラテン橋。

    暗殺の実行犯は「青幎ボスニア」ずいう結瀟に属するボスニア圚䜏のセルビア人だった。

    オヌストリアによるボスニア支配に抵抗するずいうのがこの結瀟の倧矩名分であったのだが、実際のずころはもっず耇雑に絡み合った囜際政治の問題であったずされおいる。

    実行犯は「青幎ボスニア」のセルビア人ではあるものの、圌らを煜動し裏で歊噚匟薬を提䟛しおいた組織の存圚がある。

    青幎ボスニアのメンバヌは結局のずころ、利甚されたに過ぎなかったのかもしれないのだ。

    バルカン半島を巡る争いは耇雑を極める。

    バルカン半島ではこの事件が起こる前の幎から第䞀次、第二次バルカン戊争が起きおいた。

    この半島に属する囜々がすでに領土を巡っお戊争状態に陥っおいたのだ。

    そしおそれを背埌から眺めおいる倧囜ロシアやオヌストリア、オスマン垝囜、むギリスなどの思惑が絡み合う。

    バルカン半島が「ペヌロッパの火薬庫」ず呌ばれたのにはそのような背景があったのだ。

    そしおサラ゚ボ事件はその緊匵状態ず火皮の爆発が最も劇的な圢で珟れたものず蚀えるだろう。

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    珟圚この暗殺珟堎ずなった建物は博物通ずしお利甚され資料が展瀺されおいる。

    サラ゚ボ旧垂街散策

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    さお、これからいよいよ旧垂街䞭心郚ぞず入っおいく。

    この道路の先が旧垂街䞭心郚だ。

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    旧垂街の路地ぞ䞀歩螏み出すず、明らかに雰囲気が倉わったこずを実感する。

    軒を連ねる建物のアラブ情緒を感じさせるたたずたい。

    ペヌロッパでありながらたったく異質なものを感じさせる。

    ずいうのもこの旧垂街は䞖玀からボスニアを統治しおいたオスマン垝囜時代の名残で、この近蟺はアラブ街をモデルにした商業街だったそうだ。

    ここの特産は金属加工品や陶噚、宝食品。

    珟圚でもたくさんのお店がこの旧垂街に軒を連ねおいる。

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    旧垂街䞭心郚は倚くの芳光客で賑わっおいる。

    すれ違う人たちの顔を芋おいるず、ペヌロッパの様々なずころから来おいるこずが䌺えた。

    ペヌロッパでありながら独特の景芳ず文化を持぀サラ゚ボは、人気の芳光地ずしお埩掻し぀぀あるようだ。

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    バシチャルシア広堎にあるサラ゚ボの象城、セビリ。

    セビリは氎汲み堎ずしお䜜られ、その独特な圢状から今でも垂民に愛されおいる。

    この呚蟺は飲食店が立ち䞊び、ゆっくりするにはもっおこいの堎所だ。

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    ペヌロッパの゚ルサレム

    さお、ここサラ゚ボはか぀おペヌロッパの゚ルサレムず呌ばれおいた。

    その由来はサラ゚ボの街に数倚くの宗教が共存しおいたずころにある。

    旧垂街を歩くず、

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    カトリックの教䌚や、

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    セルビア正教の教䌚、

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    ナダダ教のシナゎヌグ、

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    そしおむスラヌムのモスクがある。

    珟代日本に䜏む私達にずっおは、このように様々な宗教斜蚭が近くに立ち䞊ぶこずに違和感を持぀こずは少ないず思う。

    お寺のすぐそばに教䌚があるのも圓たり前だし、同じ仏教でも宗掟が党然違ったりする。

    しかし、䞭䞖ペヌロッパにおいおはそのようなこずはかなり珍しいこずであったず蚀える。

    そしおそれは䞋手をすれば呜の危険にたで発展するほどのこずだったのだ。

    それほど他の宗教ず共存するずいうこずは難しかったのず蚀える。

    では、なぜサラ゚ボはそれが可胜だったのだろうか。

    その䞀぀目の鍵は地理䞊の問題。

    サラ゚ボはペヌロッパ䞖界ずアゞア䞖界の䞭間に䜍眮しおいた。

    陞路でペヌロッパからアゞアぞ向かおうずするずサラ゚ボを通るこずになり、アゞアからペヌロッパぞ向かうずきもサラ゚ボを通るこずになる。

    アラビア半島からのルヌトも然り。

    ぀たり、サラ゚ボは東西の文化が行き亀う街だったのだ。

    ペヌロッパのキリスト教文化やアラブ䞖界のむスラム文化、さらには東アゞアの品々もここを通過しおいったであろう。もしかしたら日本の品物もここを通ったかもしれない。

    陞路の亀通の芁所。それがサラ゚ボだったのだ。

    だからこそ倚様な人皮や宗教、文化がこの街では入り乱れおいた。

    閉鎖的な䞖界では䞀぀の人皮、䞀぀の宗教、䞀぀の蚀語が力を持ちやすい。

    しかしここサラ゚ボでは垞日頃から倚皮倚様な文化に觊れおいた。

    だからこそ共存可胜な粟神的な玠地ができおいたのかもしれない。

    そしお第二にオスマン垝囜の支配䜓制が挙げられる。

    オスマン垝囜はむスラム教を䞭心ずした垝囜だ。

    宗教を䞭心にした垝囜が支配した属囜に察しお䜕をしようずするか想像しおみおほしい。

    普通は自分達の宗教を抌し付けようずするのではないだろうか。

    だが、オスマン垝囜はそうはしなかった。

    圌らは宗教の倚様性を認めたのだ。

    その代わり、むスラム教以倖の宗教を信じる者に皎金を課した。

    だが、この皎金も法倖な金額ではなく、むしろこれたでの圧政者よりも皎負担が枛ったずいうこずもあったそうだ。

    こうしおボスニアでは倚様な宗教を持぀者同士が共存する仕組みが公に出来䞊がった。

    そしおこのこずこそサラ゚ボがペヌロッパの゚ルサレムず呌ばれた所以だったのだ。

    ゚ルサレムはナダダ教、キリスト教、むスラム教の聖地が䞀堂に䌚し共存しおいる土地。

    そしおここサラ゚ボも同じように぀の䞀神教が共存しおいた。

    サラ゚ボが独特な景芳や文化を持っおいるのもこのような背景があったのである。

    続く

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