
ガリレオとヒュームとカミさんと私
「結論には過程がある」
私は、この言葉が好きだ。
ものなら、どうやってできるのか。
数式なら、どう解くのか。
営業なら、どんな戦略で結果につなげるのか。
noteなら、なぜそれを書こうと思ったのか。
出来上がったものを見ると、その手前をのぞきたくなる。
ガリレオとヒュームを比較してみた。
そして、なぜか私も比較に参加することになった。
歴史に名前を残した二人と、noteを書いている私。
ずいぶん大胆な席に座ってしまった。
ガリレオは、確かめる人

ドラマ『ガリレオ』は有名だと思う。
歴史上のガリレオもそう言ったのかと思うのではないかな?
歴史上のガリレオ・ガリレイとは?
自然哲学者であり、今でいう物理学者や天文学者でもある人だ。
二人の思想全体を説明するのは私には難しいので、今回は「何を、どう探るか」に絞って比べてみたい。
ガリレオは、観察や実験、数学を使って、自然がどう動くかを確かめる人。
昔から正しいとされている説明でも、実際の現象に合っているかを調べる。
ここで私は、立ち止まった。
「数学で、どうやって確かめるの?」
物理といえば、数字と難しい公式。
黒板いっぱいに書かれた時点で、私はそっと廊下に出たくなる。
学生時代 テキストは読めば眠る不思議な本だった。
でも、坂道で球を転がす話を聞いたら、少し印象が変わった。
時間と進んだ距離を測る。
その関係から、次の動きを予想する。
実際に転がして、予想と合うか確かめる。
数字や公式は、謎解きの道具にもなるのだ。
予想が合わなければ、何を見落としたのか考える。条件を見直し、もう一度試す。
その話なら、廊下に出かけた私も戻ってくる。多分 目も覚める。
公式を見ただけでは気づかなかった、専門家の謎解きがそこにあった。
ヒュームは、信じる根拠を問う人

哲学者のヒュームは、問いを違うところに向ける。
「なぜ私たちは、それが原因だと信じているのか?」
AのあとにBが何度も起きると、私たちは次も同じことが起きると予想する。
でも、「これまでそうだった」と「必ずそうなる」は、同じなのだろうか。
ヒュームは、原因と結果の必然的な結びつきへの確信に、経験から生まれる習慣が関わっていると考えた。原因そのものがないと断言したわけではない。
私は最初、「信じるために探る人なのかな」と思った。
けれど、むしろ「その確信は、どこから来たのか」と探る人らしい。
私が「わかった!」と立ち上がったところで、椅子を勧められる気がする。
「その『わかった』を、もう少し考えてみませんか」
、、、お茶が必要になりそうだ。
私は、そこに至るまでを見たい人
今のところ、私はガリレオの「確かめてみよう」という姿勢に、より惹かれる。
ただ、法則や成功する方法を知りたいだけでもない。
なぜ、その方法を選んだのか。
途中で何に迷ったのか。
どこで考えが変わったのか。
採用されなかった案にも興味がある。
完成した文章を読んでいるのに、頭の中では「削除された一文、ありますか」と聞いている。編集履歴にまで顔を突っ込む勢いだ。
今回の会話も、そうだった。
ヒュームかな。
ガリレオかな。
そもそも、二人は何が違うのだろう。
比較していくうちに、自分が知りたいことも見えてきた。
一人の思想を深く掘り下げると、私には難しくなることがある。けれど、問い方を並べると、違いが見える。
私にとって比較は、理解するための足場なのだ。
そこで出てきた言葉は、ひとつの結果になる。
でも、その言葉からまた疑問が生まれれば、次の過程が始まる。
会話の終着駅に着いたつもりが、乗り換え案内が出てくる。
結果は「静」、過程は「動」

私には、結果は「静」、過程は「動」に感じられる。
完成品や答えは、ひとつの形としてそこにある。
でも、その手前では、考えが動き、手が動き、心が動いている。
試して、迷って、選び直す。
わからなかったことが、少しずつ見えてくる。
結果を知るだけで十分な場面も、もちろんある。
ただ私は、その「動」に強く惹かれる。
あなたは、結果がわかれば満足ですか。
それとも、そこに至る過程も見たいですか。
💐 Special thanks & answer

あなたの言葉には、読み終えても閉じられない扉があります。
その隙間からこぼれる灯りが気になって、私は今日も、もう一歩だけ近づいてしまう。
扉の向こうには、私の問いを置いても、まだ余白がある。
その広さに甘えて、気づけばずいぶん長居をしています。
あなたの文章に惹かれています。
その灯りをともすあなたに、興味が尽きません。
今度は、どの扉が開くのでしょう。
