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縁側には、何も求められなかった

    体が先に思い出した

    古い家の縁側に腰を下ろしたとき、体が先に思い出した。

    風の匂い。

    光の角度。

    板の冷たさ。

    それだけで、記憶は音も立てずに巻き戻っていった。

    祖母の家で過ごした、長い夏休み。

    転校したばかりの小学校では、私はまだ、うまく話せなかった。

    何を言えばいいのか。

    どこに立てばいいのか。

    誰のそばにいれば、そこにいてもいいのか。

    いつも少しだけ、わからなかった。

    宿題も、開いたまま進まなかった。

    鉛筆を持ったまま、同じ問題を何度も眺めていた。

    紙の白さだけが、夏の光に照らされてまぶしかった。

    庭の草は濃い緑をしていた。

    蝉は、声を張り上げていた。

    けれど、その声は熱に溶けて、どこか遠くで鳴っているように聞こえた。

    家の中は薄暗かった。

    畳には、窓の形をした光が落ちていた。

    縁側だけは、不思議なくらいひんやりしていた。

    私はそこに寝転がり、板の節目に頬をあてた。

    古い木のざらつき。

    少し湿った匂い。

    日に焼けた板の奥に残っている、朝の冷たさ。

    外はあんなに暑いのに、木の内側には、まだ別の時間が残っているようだった。

    縁の下から来る風

    奥の台所から、ガラスの器が触れ合う音がした。

    祖母が素麺を冷やしている音だった。

    水道の水が流れる音。

    氷が器に当たる音。

    箸が小さく揃えられる音。

    どれも遠かった。

    けれど、確かにそこにあった。

    私は目を閉じた。

    蝉は鳴いているはずなのに、声だけが少しずつ遠ざかっていく。

    世界が、ひと呼吸ぶん静かになった。

    縁の下を、風が通った。

    地面と床板のあいだの薄暗い場所を抜けてきた風が、板の隙間からそっと上がってくる。

    土の匂いがした。

    湿った木の匂いがした。

    どこかに、蚊取り線香の煙の名残も混じっていた。

    その風が、頬をゆっくり撫でていく。

    肩の力が抜けた。

    何かを忘れたわけではない。

    学校のことも、宿題のことも、胸の中に残ったままだった。

    けれど、その風に撫でられているあいだだけは、それらを抱えたままでもよかった。

    消えたわけではない。

    解決したわけでもない。

    ただ、すぐそばに置いておかなくてもよかった。

    私は、しばらく縁側に寝転がっていた。

    何かをしなければいけない時間ではなかった。

    何かにならなければいけない場所でもなかった。

    ただ、そこにいるだけでよかった。

    素麺とスイカ

    しばらくすると、祖母が素麺を出してくれた。

    よく冷えたつゆ。

    薄く切ったきゅうり。

    白い麺の上に落ちた、氷の小さな音。

    私は体を起こし、縁側の端に座って食べた。

    素麺は冷たかった。

    喉を通るたびに、体の中の熱が少しずつほどけていくようだった。

    祖母は、宿題のことを聞かなかった。

    学校のことも聞かなかった。

    友だちのことも。

    うまく話せない理由も。

    ただ、そこにいてくれた。

    食べ終わるころには、スイカも出てきた。

    赤い果肉。

    黒い種。

    指先に残る、甘い匂い。

    縁側に並んで座り、何かを話したような気もする。

    何も話さなかったような気もする。

    どちらでもよかった。

    祖母は、私に何かを求めなかった。

    明るく振る舞うことも。

    学校で頑張ることも。

    友だちをつくることも。

    ただ、素麺を出してくれた。

    あの午後、私は誰かの期待に応えなくてもよかった。

    それだけで、ずいぶん楽だった。

    自分の置き場所

    教室では、いつも自分の置き場所を探していた。

    何を言えば笑ってもらえるのか。

    どこにいれば邪魔にならないのか。

    黙っていると変に思われるのか。

    話しすぎると嫌われるのか。

    そんなことばかり考えていた。

    みんなが自然にできているように見えることが、私にはいつも少し難しかった。

    休み時間の輪。

    給食の班。

    下駄箱の前で交わされる、何気ない会話。

    そのどれにも、入り口があるようで、私にはなかなか見つけられなかった。

    でも、縁側では違った。

    誰かに見せるための自分ではなかった。

    何かをうまく言わなくてもよかった。

    笑わなくてもよかった。

    明るくなくてもよかった。

    できることも。

    できないことも。

    そのままでよかった。

    教室では、自分の居場所をつくろうとしていた。

    縁側では、居場所をつくる必要すらなかった。

    そこには、最初から私の場所があった。

    閉じたままでも、風は通っていた。

    名前のない午後

    長いあいだ、あの時間を何と呼べばいいのかわからなかった。

    何かが解決したわけではない。

    悲しみが消えたわけでもない。

    宿題は残ったままだった。

    学校へ行けば、また、うまく話せない自分に戻った。

    それでも、あの午後だけは、胸の奥で鳴っていた音が少し遠くなった。

    ずっと張っていた糸が、少しだけゆるんだ。

    息を吸う場所が、体の中に戻ってきた。

    誰かに許されたというより、風にそのまま置いておかれたような感じだった。

    今になって思えば、あれは救いだったのだと思う。

    人生を変えるような出来事ではない。

    明日から何かがうまくいくわけでもない。

    ただ、何もできない自分のまま、そこにいてよかった。

    あの午後には、まだ名前がなかった。

    けれど、名前がなかったからといって、何もなかったわけではない。

    言葉になる前から、私は確かに救われていた。

    頬に残ったもの

    あの縁側は、もうない。

    祖母も、もういない。

    けれど、ときどき風だけは戻ってくる。

    夏の午後。

    木の匂い。

    光の角度。

    冷たい素麺。

    スイカの甘さ。

    ほんの些細なものに触れたとき、あの場所がふいに近くなる。

    古い家の前を通ったとき。

    畳の匂いをかいだとき。

    台所で氷が鳴ったとき。

    蝉の声が、急に遠く聞こえたとき。

    世界は少しだけ静かになる。

    私は、そのたびにあの縁側に戻っている。

    何も解決していないまま。

    けれど、少しだけ息ができた午後へ。

    板の節目に頬をあてて、風が通り抜けるのを待っていた子どもの私へ。

    人には、何もできないまま、何者にもならないまま、いていい場所が必要なのだと思う。

    あの縁側は、私にとって、そういう場所だった。

    あの日、私は何も取り戻していない。

    ただ、そこにいてよかった。

    それだけで、十分だった。



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