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甘瓜が食べたい

    たいして甘くなかったものの記憶

    祖母の家の井戸端には、いつも甘瓜が沈んでいた。

    網に入れられ、冷たい井戸水の中で静かに揺れている。

    小学5年生の夏、私はそれを引き上げるのが役目だった。

    網を引くと、水の重みごと持ち上がる。

    表面はひんやりして、少し土の匂いがした。

    縁側で祖母が包丁を入れる。

    黄色い果肉。

    種のまわりの、やわらかなわた。

    かぶりつくと、甘さより先に、青くさい香りが広がった。

    たいして甘くはなかった。

    それでも、蝉の声と、扇風機の風と、祖母の手つきまで含めて、あれは夏そのものだった。

    甘すぎる果物

    近頃の果物は甘い。

    スーパーに並ぶ果物は、どれも大きく、色艶がいい。

    口に入れれば、迷いのない甘さが広がる。

    文句のつけようがない。

    それなのに、食べ終わったあと、どこか物足りなさが残る。

    甘さもある。

    香りもある。

    瑞々しさもある。

    けれど、口の中に残るものが、あまりにもきれいなのだ。

    少し、さみしい。

    甘瓜という記憶

    甘瓜は、マクワウリとも呼ばれる。

    黄色く、少し細長く、縞の入った果物だった。

    今では、果物売り場で見かけることも少なくなった。

    水っぽいと言う人もいる。

    あっさりしすぎると言う人もいる。

    けれど、あの淡い甘さの中に、夏があった。

    青くささの中に、畑があった。

    あの味を思い出すと、井戸水の冷たさまで一緒によみがえる。

    手のひらに残る水滴。

    縁側の木の感触。

    遠くで鳴く蝉の声。

    味というのは、舌だけで覚えているものではないのだと思う。

    夏の終わり

    むかし、果物には季節があった。

    スイカは夏。

    ミカンは冬。

    イチゴは、春の終わりに少しだけ店に並んだ。

    今は、一年中たいていの果物が手に入る。

    便利になった。

    けれど、いつでも食べられるということは、「今しか食べられない」という感覚を失うことでもある。

    旬とは、その時期を過ぎれば、もう食べられないということだった。

    だから、今、食べる。

    甘瓜は、夏の終わりの果物だった。

    甘瓜を食べながら、夏が終わることを知った。

    たいして甘くない、その淡い味の中に、夏の終わりがあった。

    足りなかったもの

    足りなかったのは、甘さではなかったのかもしれない。

    青くささ。

    少し水っぽいところ。

    口の中に残る、ぼんやりした味。

    そういうものが、あの甘さには含まれていた。

    なくなってみて、あったことに気づく。

    そんなものが、世の中にはある。

    今になって思えば、あの甘瓜は、少し足りなかった。

    だからこそ、覚えているのかもしれない。

    水の味がした。

    土の匂いがした。

    夏の午後の重い空気がした。

    祖母が包丁を置く音がした。

    井戸水で洗った指先には、少しだけ夏が残っていた。

    味とは、舌だけで覚えるものではないのだと思う。

    甘瓜が食べたい

    私は、甘瓜が食べたい。

    たいして甘くない甘瓜が、食べたい。

    過去に戻りたいわけではない。

    昔がよかったと言いたいわけでもない。

    ただ、あの淡い甘さの中にあったものを、もう一度確かめてみたい。

    それが何だったのか、今でもよくわからない。

    だから、夏の終わりになると、甘瓜のことを思い出す。

    井戸の中で冷えていた、あの黄色い果実。

    たいして甘くなかった。

    それでも、私には、夏の味だった。



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