
この本を返すまで|掌編小説【シロクマ文芸部】
借りた本は、昼寝のお供としてはかなり優秀だった。
「読めるもんなら読んでみろ!」
そう挑発するような分厚い見た目。手に持っているだけで軽い筋トレ状態だ。
そして案の定、内容も裏切らない。
表紙をめくった1ページ目から現れる、難解な言葉たち。
絵や写真などはもちろん無く、ページ内は、ただひたすらびっちりと文字で埋め尽くされていた。
挙げ句その文章は、もはや日本語とは思えない聞き慣れない表現のオンパレードだった。
ただ不思議なことに、頭の中には描かれた情景がはっきりと浮かぶ。
難解な言葉や複雑な言い回しが、僕が読み進める速度をコントロールしているかのようにも思えた。
僕は、今日もこの本を手に取ってソファーへ向かう。
深く腰を下ろすと、そっとしおりのページを開いた。
しばらくしてユミの声が聞こえた。
「また寝てる。」
どうやら少し眠ってしまったようだ。
「もう起きて。」
「寝てないよ。」
「何言ってるのよ。いびきまでかいてたくせに。」
外は日が沈みかけていた。西日が部屋に深く差し込んでいた。
「もうこんな時間?」
「そうよ。そういえば寝ながらだいぶ笑ってたね。」
「それは寝落ちする前に、読んでた部分が面白くて笑ってたんだって。」
「やっぱり寝てたんじゃん。」
「少しだけな。」
「バカ。いつも子供みたいなこと言うんだから。ところでさ、もういい加減その本返したら?」
「まだ読みきってない。」
僕がそう言うと、ユミはいつも複雑な表情をする。
「そう。じゃあ、しょうがないか。」
ユミは僕の横に座ると肩に寄りかかってきた。
「ルカの本、早く読みきってあげてよね。」
ユミの目からは涙が溢れそうだった。
僕はそっとユミを抱き寄せた。
「そうだな。」
さらに強く抱きしめた。
「ルカ、絶対性格悪いよな。こんな分厚い本を渡すなんて。俺が読むの苦手だって知ってるくせに。」
「そうね。」
ユミは静かに泣いていた。
僕とユミ、そしてルカの三人は幼馴染だ。僕は男だったから他の奴らと遊ぶことも多かったけど、ユミとルカはいつも二人で一緒にいた。
そのルカは作家を目指していたが、一年前に病死した。
この本がルカの最後の作品となってしまった。
* * *
ルカが病気になる前、僕はルカから告白されたことがあった。その時、僕は断った。まだ付き合っていなかったけど、ユミのことが好きだったから。
「わかった。じゃあ、そのかわり私の本の読者になってよ。絶対ファンにしてみせるから。」
「了解。約束するよ。」
この後、しばらくの間は今まで通りの三人の幼馴染の関係だった。少し時間が経って、僕がユミに告白して付き合い始めた。
それを知った後も、ルカは僕にもユミにも今まで通りに接してくれていた。
いや、ただそう見せていただけかもしれない。
* * *
僕がルカの病気を知ったのは、この本を受け取った時だった。
「ルカ、道で倒れたって本当か? 大丈夫なのかよ!」
「ここ病院だよ。静かにして。大丈夫だから。」
「本当に大丈夫なの?」
ユミがルカの手を握って心配そうに聞いた。
「うん。もう大丈夫。心配かけてごめんね。」
「とりあえず無事でよかった。」
「あ、そうだ。これ、貸してあげるから感想聞かせて。」
ルカは鞄から重たそうに本を取り出すと、僕に差し出してきた。
「わかったよ。完成したんだな。」
「うん。頑張ったからちゃんと読んで。」
「俺は忖度しないからな。」
ルカは笑っていた。
僕とユミが、ルカと話したのはこれが最後だった。
それから僕はまだ本を返せていない。
今となっては、ルカがこの本をどんな気持ちで書いていたのかはわからない。
この本を開いている間、
僕の時間は、ルカだけのものになる。
悔しいことに、僕は、いつも少しワクワクしながらこの本を開く。すでにルカという作家のファンになっていた。
僕はまたページを開く。物語を進めるために。
小牧さん、いつもお題をありがとうございます。
他の作品も読んでもらえたら嬉しいです。