
フォロワーが900人を超えて、急に胃薬の量が増えた夜のこと。
スナックの薄暗いカウンターでスマホを開くと、通知画面のフォロワー欄が、静かに「900」の数字を越えていた。
今日もスナックゆきで、一杯だけ頼んだ。
ダルウィニー15年だ。
スコットランドで最も標高の高い、雪深い人里離れた蒸留所でつくられる酒。
グラスに鼻を近づけると、ヘザーの花から集めたような穏やかな蜂蜜の香りと、静かなピートの煙が柔らかく広がる。
アルコール度数43度。喉を通る感触は驚くほど滑らかで、急かされることのない長い熟成の時間が、胃の腑にじわりと染み渡っていく。
派手な自己主張はない。だが、時間をかけて静かに積み上がってきた確かな重みを持つこの酒が、今夜の胸の内にはいちばん静かに馴染んだ。

9ヶ月前、最初の記事をnoteに投稿した夜の数字は、当たり前だが「0」だった。
企業の看板を失い、起業に失敗してすべてを失い、古巣に頭を下げて出戻った40代の平社員。
年下の上司に甲高い声でペコペコと媚びを売り、深夜の路上で胃液を吐き、恋愛でプライドを砕かれてブロックされるような、救いようのない男。
そんな人間が書く文章に、誰の役に立つライフハックもなければ、スカッとする成功法則も一行も書かれていない。
あるのは、40代男のみっともない言い訳と、泥水をすすった夜の記録だけだ。
最初の数ヶ月は、真っ暗な海の底に向かって、一人で小石を投げ続けているような気分だった。
だが、気づけば900人を超える人たちが、この路地裏の止まり木のような場所に立ち止まり、私の情けない独白の前に、静かに席を置いてくれていた。
スマホの画面に並ぶ数字は、ただの記号ではない。
その向こうには、私と同じように日々の理不尽に耐え、満員電車に揺られ、誰にも言えない痛みを抱えながら、一日の終わりにスマホの画面をそっとスクロールしている「生身の人間の夜」がある。
見ず知らずの他人が、私の無様な夜に付き合ってくれている。
その事実のありがたさに胸が熱くなると同時に、もう嘘がつけなくなったことへの、冷や汗のような恐怖が背中をツーと伝った。
「……いよいよ、あと少しね」
カウンターの向こうでグラスを拭きながら、ゆきママが私のスマホをちらりと見て言った。
「はい。もう、目の前です」
「フォロワーが1,000人になった夜、自腹で本を刷る」
そう公言してから、ずっとこの背中を追ってきた。
最初は、ずっと先にある逃げ道のような目標だった。
だが、いざ900という壁を越えて現実味を帯びてくると、感謝と同じくらい、冷たい刃を喉元に突きつけられたようなリアルな緊張が胃を締め付ける。
もう、逃げ場はない。
1,000人に到達した瞬間、私は自分の退路を完全に失う。
自宅のパソコンの画面には、自分で夜な夜なデザインソフトと格闘して作っている、表紙のデータが開かれたままだ。
プロに任せる予算なんてないから、タイトルの一文字の配置も、スナックの暗がりをイメージした深いインディゴブルーの色味も、すべて自分の手作業でミリ単位で調整している。
不器用で、素人くさくて、けれど嘘のない表紙。
画面越しに見るだけでも胃がキリキリと痛むのに、これが紙の手触りを持って現実に刷り上がるのだと思うと、逃げ出したいような悪寒が走る。
本の仕様は、B6判・縦書き・100ページ。
これまでnoteに書いてきた記事をただ並べるだけじゃ、このカウンターに座ってくれた人たちに顔向けができない。
だから、ネットの公開空間には恥ずかしくてどうしても出せなかった、自分の人生の最深部の無様さ――深夜二時の送迎車のなかで胃液を逆流させたあの夜のことや、クリスマスイブに高級ブランドで見栄を張り、最後に数千円の電子マネーを請求して自爆した顛末も、紙の本だけの完全な新規書き下ろしとして、いま原稿用紙に打ち込んでいる。
画面を閉じれば消えるデジタルの嘘ではなく、インクで紙の繊維に焼き付けられ、二度と修正がきかない100ページ。
その重みに、今さらながら、みっともなく指先が冷たくなっている。

「900人集めることよりね、その人たちに最後まで嘘をつかないことのほうが、ずっと難しいのよ」
ママは拭き終えたグラスを置き、氷の入ったピッチャーから冷たい水を注いだ。
「立派に見せようとした瞬間に、あんたの文章は死ぬわよ。ここまで恥を晒してきたんだから、最後までみっともない自分のままで、胸張って本を刷りなさいな」
ママの言葉が、ダルウィニーの優しい甘みの奥から、冷えた肝を据え直してくれるように染み込んでいく。
私は、何者かになるために本を作るんじゃない。
何者にもなれなかった40代の自分が、それでも今日を生き延びた証拠として、重たい紙の束に自分の傷痕を焼き付けるのだ。
1,000人まで、あと少し。
もう一息のところまで来た。
このカウンターの前でグラスを傾けてくれた人たちに、嘘のない、一番痛くて一番愛おしい100ページを手渡すために。
私は今夜も、画面に向かい、自分の無様さを一行ずつ彫り込んでいく。
グラスが空いた。
今日はここまでにする。

【今夜の1杯】ダルウィニー 15年(シングルモルト・スコッチ)
アルコール度数43度。雪深いハイランドの厳しい気候の中で、ゆっくりと時間をかけて熟成された穏やかな銘酒。柔らかな蜂蜜の甘みと微かなピート香が、焦る心を静かに宥めてくれる。派手な道を選ばず、一歩ずつ積み上げてきた夜の、静かな覚悟を確かめるための一杯。
【今夜のカウンター席のあなたへ】
気づけば900人を超え、いよいよ逃げ場がなくなってきました。
あと少しで本当に自腹で本を刷ることになった男へ、「乾杯」でも「胃薬飲んどけ」でも、冷やかしの一言をカウンターに残していってもらえると嬉しいです。
【スナックゆき 自主出版プロジェクト】
・目標:フォロワー1,000人達成で自費印刷
・現在のフォロワー:914人 / 1,000人(あと86人)
型落ちの40代が泥をすする姿を、もう少し見てみたいと思ってくれたなら、スキやフォローで「カウンターの席」を確保してもらえると嬉しいです。

はじめてスナックゆきに 来てくれた方へ。
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