
淡いコートの35歳を煙だらけの焼き鳥屋に連れて行き、一発でブロックされた夜のこと。
今日もスナックゆきで、一杯だけ頼んだ。
今夜は、モートラック16年だ。
「ダフタウンの野獣」と呼ばれる蒸留所でつくられた、複雑で肉厚な芳醇さを持つスコッチの銘酒。
有楽町のガード下で焼き鳥の煙にまみれ、大人の男にも野獣にもなれずに自爆した夜の苦い記憶を、ずっしりと胃の奥で焼き尽くすには、これくらいの毒が必要だった。

昨年の冬、マッチングアプリを通じて知り合った女性がいた。
35歳の真由美さん。プロフィール写真の落ち着いた笑顔が印象的で、メッセージのやり取りも穏やかで心地よく、私たちは平日の夜に会って食事をすることになった。
有楽町の改札を出た瞬間、私は自分の犯した過ちに気づくべきだったのだ。
待ち合わせ場所に立っていた彼女は、淡いアイボリーのウールコートに身を包み、小ぶりな革のハンドバッグを持っていた。
誰が見ても、初対面の男性とのディナーに相応しい、丁寧な身支度だった。
その佇まいを前にして、私が意気揚々と案内したのは、床が油でぬめり、鉄板の煙が白く立ち込める老舗の焼き鳥屋だった。
「こういう店が一番美味いんだよ。普段はオシャレな店にもよく行くけど、最初だからこそ、本当においしいものを食べてほしくてさ」
そう口にしながら、私は自分の胸の奥にあった惨めな打算をごまかしていた。
本当は、恵比寿のビストロや銀座のイタリアンの予約画面まで開いていたのだ。
けれど、画面に並ぶ読めないカタカナの料理名や、「グラスワイン 2,000円」という数字に怯えてしまった。2人で2杯ずつ飲んだだけで、酒代だけで8,000円。まだ料理の一口目すら運ばれていないのに、赤提灯で飲み食いする総額をあっさり超えていく計算に怖気づき、そっとブラウザを閉じた。
自分より一回り若い店員に、「この客、慣れてないな」と値踏みされるような視線を向けられるのも怖かった。
スマートに振る舞えない自分を直視するのが怖くて、私は慣れ親しんだ赤提灯というホームグラウンドに逃げ込んだのだ。ここなら、どれだけ飲み食いしても2人で6千円。安く済ませて「全額奢る大人の男気」を演出できる。
何より、「最近は小洒落た店より、あえて赤提灯に連れて行く飾らない男のほうがウケがいい」という、ネットの記事で読んだ浅知恵が私の背中を押していた。
「いつも行ってる店で、大将とも顔なじみなんだ」
常連風を吹かせて暖簾をくぐったが、大将からは「いらっしゃい、何名? 2人? 詰めて座って」と完全に一見扱いされた。
背中に嫌な汗が流れたが、「あ、あっちの席に座ろうか」と引きつった笑顔で取り繕った。
コートを掛けるハンガーもなく、バッグを置くカゴすらない。油跳ねを避けるように荷物を膝の上に小さく抱え込む彼女の戸惑いを、私は見て見ぬ振りをした。
メニューを開こうとする彼女の手を制し、頼まれもしないのに注文を仕切る。
「飲み物はビールで、グラス2つ。ネギマとぼんじりを塩で、鶏レバーをタレで。あと煮込みね」
吹き上がる濃密な白煙が、彼女の淡いコートと、丁寧に巻かれた髪を容赦なく燻していく。
運ばれてきた串を見て、彼女が箸で肉を外そうとした瞬間、私の余計な口が滑った。
「あ、外さないで! 串のままガブッといったほうが、肉汁が逃げなくて絶対に美味いから」
彼女の箸がピタリと止まり、引きつった愛想笑いが浮かんだ。
「……そうなんですね」
彼女は串の先端の肉を、申し訳程度に小さく一口かじっただけだった。
あとは、冷えたビールのグラスの結露を、指先でひたすらなぞり続けていた。
私はといえば、ホッピーのナカをおかわりしながら、「男でも女でも、赤提灯で気取らずに飲める奴が一番信用できる」という持論を、誰に求められるでもなく延々と語り続けた。

会計は5,400円。
「あ、私いくらですか?」と財布を出しかける彼女を、「いいよいいよ、俺が出すから」と制した。
千円札を6枚出し、お釣りの600円を財布にしまいながら、私は「大人の男」を演じきった気でいた。
「もう1軒、いい店があるんだけど」と誘うと、彼女は視線を泳がせながら言った。
「すみません、明日早いので、今日はもう帰りますね」
駅の改札で彼女を見送り、電車に乗ってすぐLINEを送った。
「今日は楽しかったね! あの店の煮込み、最高だったでしょ? 次はもっとディープな立ち飲み屋があるから行こうよ」
翌朝、目が覚めて真っ先にスマホを見た。既読はついていない。
昼になっても、夜になっても、つかない。
気になってマッチングアプリを開いてみると、彼女のアイコンの横には「ログイン中」を示す緑のランプが鮮やかに灯っていた。
心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
ネットで「LINE 既読つかない 確認方法」と検索した。
相手にスタンプをプレゼントしようとして、「プレゼントできません」と表示されたらブロックされている、と書いてあった。
深夜、明かりを消した暗い部屋で、適当なスタンプを選び、震える指先でタップした。
画面の中央に、無慈悲なポップアップが表示された。
『プレゼントできません』
暗転したスマートフォンの画面に、薄暗い部屋の中で口を半開きにして立ち尽くす、締まりのない自分の顔がぼんやりと反射していた。
たった1行のシステムメッセージが、前夜の安っぽい全能感を粉々に叩き割る音がした。

「……でさ、ママ。なんでブロックされなきゃいけないわけ? こっちは全額払ったんだよ。高いコート着てきたからって赤提灯を見下すような、港区気取りの女だったんだよ」
氷の溶けかけたモートラックを煽りながら、私はみっともなく管を巻いていた。
誰かに「そんな女、気にすることないよ」と言ってほしかった。自分のケチくささと無神経さを、相手の傲慢さのせいにすり替えたかったのだ。
グラスを拭いていたゆきママは、私の顔など見もせず、乾いた声で言った。
「アンタ、あのコートのクリーニング代、いくらするか知ってる?」
「……え?」
「知らないよね。だから一発で切られたんだよ」
それだけ言うと、ママは新しいおしぼりをトンと置き、奥の棚へ背を向けた。
追及も、説教もなかった。ただの冷淡な事実だけが、カウンターの上に転がされていた。
胃の奥に、冷たい鉛を流し込まれたような感覚が走った。
わかっていたのだ。
最初から、すべて自分でわかっていた。
恵比寿のビストロでスマートに振る舞えない自分を直視するのが怖くて、汚い赤提灯に逃げ込んだ卑しさを。
「飾らない大人」という安っぽい免罪符を盾にして、ディナーのために髪を巻き、丁寧な身支度をしてきてくれた35歳の敬意を、5,400円の煙の中に叩き落としたのだ。
深夜、アパートの玄関でジャケットを脱ぐと、あの夜の油とタレの匂いがまだ微かに残っていた。
モートラックの濃厚な余韻の奥から、高架下の脂臭さが蘇り、胸の底から鈍い吐き気がせり上がってくる。
「大人の余裕」を気取っていた男の正体は、傷つく勇気も金もなく、数千円で買える全能感にすがりついた、救いようのない中年だった。
暗転したスマホの画面には、もちろん何の通知もない。
私は重たい胃を抱えたまま、翌朝のアラームをセットした。
【今夜の1杯】モートラック 16年(シングルモルト・スコッチ)
「ダフタウンの野獣」と呼ばれる蒸留所でつくられた、複雑で肉厚な芳醇さを持つ銘酒。有楽町のガード下で焼き鳥の煙にまみれ、大人の男にも野獣にもなれずに自爆した夜の、苦い胃袋をずっしりと焼き尽くす一杯。
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