メインコンテンツへスキップ
見出し画像

守るべき未来もないのに、血圧152に怯えて夜を差し出す40代の無様

    ウイスキーのボトルを取ろうとした手を引っ込めた。
    代わりに冷蔵庫から掴んだのは、スーパーの安売りで買った58円の無糖炭酸水だ。


    理由なんて分かりきっている。
    「明日の仕事に響くから」だ。


    かつて後輩だった上司に、明日も朝一番で滞りなくSlackを返信するため。
    午前中の定例会議で、眠気をごまかして愛想笑いの相槌を打つため。
    そのためだけに、私は今夜、自分の酒を奪った。

    画像
    今日の相棒 炭酸水

    誰かに強制されたわけではない。
    会社の就業規則に書かれているわけでもない。
    自分で自分の首に縄をかけ、会社に差し出しているのだ。


    炭酸水のキャップをひねると、プシュと気の抜けた音が暗い台所に響いた。
    喉を通る冷たい液体には、味も、熱も、救いもない。


    会社の健康診断で突きつけられた、血圧「152/98」の赤文字が脳裏をよぎる。
    上が150を超えた瞬間、医者から「いつ倒れても不思議じゃないですよ」と冷たく告げられた。
    その言葉を聞いたとき、背中に走ったあの情けない悪寒。


    ふと思う。

    守るべき家族も、叶えたい野心も、とっくに擦り切れたこの身体を、私は一体、何のために無傷のまま延命させようとしているのだろうか。


    死ぬのが怖い。ただそれだけの、みじめな生物としての本能だ。


    愛する誰かを養うためでも、10年後にどうしても成し遂げたい大輪の夢があるわけでもない。
    起業に失敗し、組織に頭を下げて戻ってきた、ただの40代独身の会社員。


    明日自分が消えたところで、会社は3日もすれば代わりの人間を補充し、世界は何事もなく回っていく。


    それなのに、私はただ「ぽっくり逝くのが怖い」という浅ましい恐怖だけで、夜な夜な味のしない泡を喉に流し込んでいる。


    かつて、20代の頃は違った。
    翌朝の二日酔いなど構わずに始発まで飲み明かし、重たい頭のままオフィスのトイレに駆け込み、胃薬を流し込んで泥水のように働いていた。あの頃の無茶が正しかったとは言わない。だが少なくとも、あの頃の夜は「自分のもの」だった。


    いつから、こんなふうに飼い慣らされてしまったのか。


    昇進の道が途絶え、かつての部下が上司になったあの日からだ。
    波風を立てず、元部下にも敬語でチャットを打ち、定例会議では角の立たない意見だけを述べる。


    その「無難な一日」を明日も破綻なくやり過ごすためだけに、私は一日の終わりに残された唯一の自由であるはずの夜を、自らの手で去勢している。


    二日酔いすら許されないほど、私の生活は小綺麗に舗装されてしまった。


    深夜24時、台所の薄暗がりの中で、タプタプに冷えた胃をさする。
    スマホを取り出し、画面を開く。明日のGoogleカレンダーが無機質に並んでいる。


    10:00 週次定例
    13:00 施策レビュー
    16:00 共有ミーティング


    そこに並んでいる予定のどれ一つとして、私の心を震わせるものはない。
    誰でもできる確認と、当たり障りのない合意形成。


    そのタスクを明日も「完璧な体調」でこなすために、私は今夜、ウイスキーの喉を焼く痛覚を諦め、炭酸水を飲んでいるのだ。


    「酒をやめたら朝の目覚めが劇的に変わった」
    SNSを開けば、健康と丁寧な暮らしを手に入れた人々の前向きな言葉がタイムラインを流れていく。


    確かに、酒を抜いた翌朝の目覚めはいい。頭は冴え、身体は軽い。


    だが、すっきり目覚めたその先で待っているのは、昨日と同じ満員電車と、冷たいオフィスの蛍光灯だけだ。


    毒の抜けた生活は、ただただ薄い。
    そしてその延命させた無傷の身体を、明日の朝には再び満員電車に詰め込み、月給と引き換えに会社へ差し出す。


    健康になって手に入れたのは、輝かしい未来などではなく、「会社にとって都合のいい、故障しない歯車としての自分」でしかなかった。


    毒を煽る自由すら自ら捨てて、私たちは一体、何を守ろうとしているのか。


    グラスの中の氷が、パキリと音を立てて割れた。
    炭酸水はもう空だ。

    画像

    結局のところ、私は破天荒に生きることもなければ、破滅する覚悟もない。
    世間の健康ブームを心の中で嘲笑いながら、結局は血圧計のデジタル数字に怯えてすがりつき、明日も無難に生き延びようとしている。


    その徹底的な臆病さと浅ましさが、炭酸水で冷え切った胃の奥底に、鈍い澱となって沈んでいる。


    冷蔵庫のドアを閉める。部屋の明かりを消す。
    明日もまた、満員電車に揺られて会社へ向かう。
    朝一番のSlackには、愛想のいい返信を1分以内に打ち込むだろう。


    炭酸水でタプタプに膨らんだ冷たい胃を抱えて、暗いベッドに潜り込む。

    これが、自ら夜を去勢した私の、平熱の現実だ。


    【今夜の1杯】スーパーの58円の無糖炭酸水
    味も熱も救いもない。血圧152の赤文字に怯え、明日も滞りなくSlackを返すために自ら奪った毒の不在。喉を通る間の抜けた泡が、飼い慣らされた去勢された夜を思い知らせる一杯。

    【今夜のカウンター席のあなたへ】
    明日の仕事のために、今夜あなたが諦めた(我慢した)ものは何ですか?(お酒、夜更かし、ラーメン、ゲームなど、単語ひとつでもそっと置いていってください)

    【スナックゆき 自主出版プロジェクト】
    ・目標:フォロワー1,000人達成で自費印刷
    ・現在のフォロワー:882人 / 1,000人(あと118人)


    型落ちの40代が泥をすする姿を、もう少し見てみたいと思ってくれたなら、スキやフォローで「カウンターの席」を確保してもらえると嬉しいです。

    画像

    はじめてスナックゆきに 来てくれた方へ。
    私がどんな人間で、
    なぜこのエッセイを書いているのか。
    よかったら、読んでいってください↓

    よかったらこちらも↓

    この記事が参加している募集

     
     
    佐久間浩一|40代独身。独立失敗の出戻り会社員。仕事も恋愛もスマートにこなせない男が、痛い本音を晒すエッセイ連載『スナックゆき』。カウンターの片隅で一杯飲んでいきませんか。初の書籍『スナックゆきで、一杯だけ』(初版100部・金箔押ししおり付き)予約受付中。

    あなたへのおすすめ