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ヘルシンキに来るつもりはなかった

    📘書籍『ことばの向こうに旅をして』試し読みです。

     ヘルシンキに来るつもりはなかった。

    「ご搭乗予定の飛行機は…………により…………できません」

     途切れ途切れの空港アナウンスを、なんとか聞き取ろうとするも、雑踏、反響、乗客の怒声。わかったのはとにかく、「日本に帰る飛行機が出ない」ということだけだった。
     二〇一四年十月十五日、日本航空とフィン・エアーの共同運航便。フランス首都パリのシャルル・ド・ゴール空港から、フィンランド首都ヘルシンキのヴァンター空港を経由して成田空港に帰る予定だった……のだが、なんらかの事情で、フィンランドから日本への飛行機が出なかったのだ。
     なんだかみんながどこかに一斉に誘導されていくので、わたしは、とぼとぼついていった。なんにもわからなかった。
     なぜ飛行機が出ないのか。
     なぜみんな誘導されていくのか。
     ていうか、ヘルシンキ、えっ、ヘル、シンキ?

     わたしにとってはものすごく異国的な響きだった。ヘルシンキ。とりあえず北欧だろうなということと、死ぬほど寒いだろうなということが予想された。日本は秋。わたしが持っていたのは、気温十五度くらいの日に対応するような、パーカー、ズボン、そのくらいの軽装だった。
     よくわからないままバスに乗せられた。外は真っ暗だった。最後に、ピシッとスーツを着た、何回か前のオリンピックの日本代表体操選手に似ているお兄さんが、「航空会社の手配したホテルに責任を持って案内する」ということを、バス中に響く良い声の、きれいな日本語でアナウンスした。バスが発車した。日本代表体操似のお兄さんは運転手の隣に座り、何やらわたしにわからない異国語でバスの運転手と和やかに話し始めた。日本代表体操選手のお兄さんが遠くなった。体操のお兄さんに見えていたその人が、日本語をやめたとたんに、異国の人、に見えた。

     ヘルシンキの人。

     やがてバスから降ろされ、ホテルに案内された。荘厳な作り、小さな明かり、ヨーロッパの探偵小説に出てくるみたいなホテルだった。よく言えばクラシックだし、悪く言えば誰か殺されそう。

     ヘルシンキのホテル。

     そのヘルシンキという言葉の響きが、地獄のヘルとか、漫画のヘルシングとか、もはやヘルシークッキングとか、いろんなイメージと交錯していく中で、わたしは眠った。小さくなって眠った。まだなにもわからない、ヘルシンキ、という名前であることしかわからない、知らない街でひとり、小さくなって眠った。

     朝ごはんを食べに降りた。飛行機は明日まで来ないと知らされた。ヘルシンキに合計で二泊することになる。ヘルシンキの朝ごはんは、よくわからないものでいっぱいだった。
     楕円形のブローチみたいな形をしたパンのようなもの。
     黒いジェル。
     たぶん昔は魚だったんだろうなという見た目をした何かの油漬け。
     なんか昔は一体なんだったのか全然わからない何か植物性のものの油漬け。
     ひとつひとつ、こわごわと食べながら、あんまり不安で、わたしはスマホで「フィンランド 料理」と検索した。どうやら、楕円形のブローチみたいな形をしたパンみたいなものは、「ピーラッカ」という名前らしいことがわかった。

     ヘルシンキのピーラッカ!

     なんにもわからない!!

     なんにもわからないからなんでもいいからどうにか誰かと話したくてわたしは、「フィンランド語 ありがとう」を検索した。ありがとうはkiitosというらしいこと、朝食のスタッフさんやお客さんがみんな「きいちょ!きいちょ!」って言いあっているように聞こえることから、あれが「ありがとう」なんだなと推測して、席を立ち、朝食のスタッフさんに、勇気を出して一言、こう言った。

    「きいちょ」
    「きいちょ」

     朝食スタッフさんはニコッと笑って、わたしの目を見て、きいちょ、を返してくれた。どうもフィンランドの人たちは、ありがとう、と言われると、ありがとう、と言い返すらしかった。

     ヘルシンキのピーラッカ、きいちょ!

     外は晴れていた。
     ゆうべよりもわかることが増えたので、わたしは、外に出た。

     はちゃめちゃに寒かった。
     ヘルシンキは大都会で、曇っていて、大きな建物に、ピカピカの電光掲示板や、爽やかなデザインの広告がついていて、全部、フィンランド語だった。ホテルに戻れなくなったら大変なので、角を曲がらないように気をつけながらまっすぐ歩いて行って、そしたら、路面電車に突き当たった。
     路面電車なら、迷わないな。自分がどの路線に乗ったのかを覚えていれば、上りか下りしかないはずだから。それに外の景色が見える。何より、寒くない! そう思ってとにかく、路面電車に飛び乗った。窓際の席にうまく座った。
     景色が流れていく。
     知らない人たちの暮らしだった。
     みんなにはちゃんと行き先があって、今日のわたしには行き先がなくて、路面電車がどこに向かうのかもわからないまま、流れる景色を見ていた。景色が流れているのではなく、自分が流されているのだ、という気がした。

    「〜〜〜〜〜〜〜〜??」

     突然、何か言われた。驚いて振り返ると、真っ白の女の子が立っていた。まるで、「白は雪国の子の色よ。誇りを持って身にまといなさい」とおばあちゃんにプレゼントされた手編みニット帽やマフラーや手袋やコートやブーツを全部素直に身につけているみたいに全身真っ白だった。ここまで確固たる真っ白だと、本当に確固たる意志を感じる。真っ白の子はわたしの隣の席を指差していたので、あ、すわりたいという意志を感じますね、と思って、「どうぞ」のつもりでわたしは、両手を差し出すポーズをした。

    「オー。サンキュー!」

     真っ白ちゃんはニコニコして、パフッと音を立てて座った。そして英語で話し続けた。
    「ユーカムフロム?」
    「ジャパン」
    「オージャパン! メニージャパニーズ、ガール、ヒア、トラベリン、アローン」
     ヘルシンキは日本人女性の一人旅行が多い、と、真っ白ちゃんは引き続きニコニコしながら片言英語で言った。
     真っ白ちゃんはおしゃべりし続けた。ヘルシンキはとてもいいところよ。見て。あれもきれい。見て。これもきれい。あなたも一人旅行? どこにいくの? なんできたの? ヘルシンキ市庁舎は見た? フィンランドはお魚がおいしいのよ。日本もお魚がおいしいんでしょう?
     真っ白ちゃんがあまりにもおしゃべりで、まるでわたしたちがもともと友達だったみたいに話すので、わたしは、なんだか真っ白ちゃんの真っ白さを台無しにしたくないという気持ちになって、「ヘルシンキに来るつもりはなかった」ということを黙ったまま、ヘルシンキがいかに素敵なところなのかという話を聞き続けた。真っ白ちゃんがヘルシンキを大好きであることがよく伝わってきた。一つだけ、いまいちよくわからないのが、たまに真っ白ちゃんが発する、

    「よーす!よーす!」

     だった。

     電車が真っ白ちゃんの目的地に着いた。
     真っ白ちゃんは「シーユー!」と、また会えるのが当然のように、まるでクラスメイトに挨拶して下校するみたいに、すっと降りて行きそうになった。わたしはあわてて、言葉を探した。
     たぶんシーユーアゲインできない。
     たぶんもう二度と会えない。フィンランド語、フィンランド語で、なんていうんだっけ、ありがとうは……

    「きいちょ」

     記憶から絞り出した「きいちょ」を、真っ白ちゃんは受け取って、

    「きいちょ!」

     と返してくれた。ニコッとした。人混みにまぎれて見えなくなった。

     次の朝のピーラッカを食べて、日本に帰る飛行機が来た。真っ白ちゃんの「よーす!よーす!」がなんだったのかを知りたくて、わたしは「フィンランド語」で検索した結果をくまなく読みまくっていた。
     その結果、判明した。あれは「joo(ヨー)」、フィンランド語の「うんうん」みたいなやつと、英語の「yes」が思わず混ざってしまったやつだったんじゃないか、ということが。ねえ、そうだったのかなあ? と聞いてみたいけど、もう昨日と違って今日のわたしの行き先は決まっていて、ヘルシンキ発成田行きにご搭乗のお客様はシートベルトをお締めにならないといけなくて、離陸して、ヘルシンキが小さくなって、そのどこかにたぶん、真っ白ちゃんがいた。今日もたぶん、あの場所に行く路面電車に乗っていた。

     ヘルシンキ、ピーラッカ、よーす、きーちょ、きーちょ。

     自分の知らない街が、自分の知らない人の、自分の知らない暮らしで、今日も、まわっている。

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    📘書籍『ことばの向こうに旅をして』

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    こちらのエピソード「ヘルシンキに来るつもりはなかった」も収録された、旅と言語と異文化交流のエッセイが、産業編集センターより刊行されます。

    『ことばの向こうに旅をして』
    https://www.shc.co.jp/book/16395

    ●目次
    はじめに
    ★羽田と成田を間違えたけど間に合った話

    ・第1章「ありがとう」
    カムウンのスープ(台湾、ベトナム、ポンフー島)
    ★ヘルシンキに来るつもりはなかった(フィンランド)
    これ、チュセヨ(韓国、ソウル)
    イラストコラム「いろんな言語の“ありがとう”」

    ・第2章「あいしてる」
    アムール・ノアール(フランス、パリ、ジャズバー)
    ソドムの交わる十字路で(イギリス、ロンドン、レズビアンバー)
    合法の銃、適法のキス(アメリカ、某所、レズビアンバー)
    つまずっとたべる、いひひ、あはは!(日本、インド料理店)
    スイス百年旅行(スイス、ヌーシャテル)
    イラストコラム「いろんな言語の“あいしてる”」

    ・第3章「つながりたい」
    女性マッサージ師にしてくださいと申し上げたはずだが?(タイ)
    ★べッド・アンド・バッドガールズ(アメリカ、トルコ)
    バブリー・ピートの手作り新聞(とある島の繁華街)
    裸の彼の草のかんむり(サイパン)
    ワイラカは本当にいたんだ(ニュージーランド、ファカタネ)
    白鳥が臨終の際に歌う美しい歌.詩人の絶筆.(ギリシャ、イカリア島)
    イラストコラム「いろんな言語の“ねこを呼ぶ言葉”」

    おわりに
    (★印はnoteで読めます。それ以外は、本だけの書き下ろしです)

    楽しんでいただけたら嬉しいです。どうぞよろしくお願いいたします🙏


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