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正義に理由はいらない、悪には理由がいる ― 悪役が物語を奪う仕組み

    はじめに

    みゆさんの記事「なぜ私達は『悪役』に共感してしまうのか」を読みました。物語でいちばん考えさせられるのは、主人公が勝つ場面ではなく悪役の最期の場面だ、という一文に深くうなずきました。ベイダーの最期で泣いた人は多いでしょうし、私もその一人です。

    ただ、『影のある人物に惹かれる』という感覚には、物語の構造から説明できる部分もあると思いました。この記事では、鬼平語録を借りながら、その「なぜ」を少しメタな視点から考えてみます。

    性善説の物語では、悪に理由が要る

    『スター・ウォーズ』も『ハリー・ポッター』も、物語の骨格は性善説です。人はもともと善いもので、悪はそこから外れた状態として描かれます。

    この構図では、善に説明はいりません。ルークがなぜ善いのか、ハリーがなぜ勇敢なのかを、物語はそれほど説明しなくても成り立ちます。一方、悪には必ず「なぜ堕ちたのか」という説明が要ります。

    プリクエル三部作は、まるごと「アナキンがなぜ堕ちたのか」に費やされました。ヴォルデモートも、「一度も愛されなかった子ども」という生い立ちが語られて初めて、宿敵として完成します。善は説明なしに立っていられるのに、悪は理由を語られなければ存在できない。その結果、物語の語りの分量は悪役の側に偏っていきます。悪役が主役を食ってしまうのは、偶然ではなく構造の問題なのです。

    この考え方には古い裏付けがあります。アウグスティヌスは悪を「善の欠如」と捉え、『神の国』第12巻で、悪い意志には積極的な原因ではなく「欠けた原因」を問わなければならないと論じました。孟子は「牛山の木」のたとえで、かつて木々が茂っていた山がはげ山になったのは伐採や放牧という経緯があったからで、山の本性ではないと説いています。

    日本の時代劇にも同じ視点があります。池波正太郎『鬼平犯科帳』で長谷川平蔵は、人ははじめから悪の道を知っているわけではない、小さな悪事を隠すために次の悪事を重ね、やがて大きな悪へ踏み込んでいく、と語ります。

    〔原文引用:『鬼平犯科帳』第13巻「殺しの波紋」〕

    洋の東西を問わず、悪には必ず「そうなった経緯」がある、という見方です。

    悪は「知る対象」であり続ける

    性善説の物語で悪を裁くとき、裁かれるのは行為だけではありません。行為とその理由がセットで裁かれます。だから悪は、理解されるべき対象として物語の中に残り続けます。正義には理由がいらないので問われず、問われ続けるのはいつも悪の側です。

    スピノザは『国家論』の冒頭で、人間の行動を「嘲笑せず、嘆かず、呪わず、ただ理解する」ことに努めたと書いています。平蔵はもっと端的に、「悪を知らぬものが悪を取りしまれるか」と言い切っています(第2巻「蛇の眼」)。悪役に惹かれるという感覚は、この「知りたい」という欲求に近いのかもしれません。

    ただし、理解することは許すことではありません。アナキンが堕ちた理由を知っても、彼が命を奪った人々は帰ってきません。理由を知ったうえで、行為は行為として裁く。悪を知り尽くしたうえで盗賊を裁いた平蔵がまさにそうでした。この一線があるからこそ、ベイダーの最期の選択は「免罪」ではなく「救済」として胸を打つのだと思います。

    もう一つの型 ― 正義と悪は裏表

    一方で、性善説とは別の型の物語もあります。正義と悪が裏表になっている物語です。

    代表例はバットマンとジョーカーでしょう。『ダークナイト』のジョーカーは、自分の過去をそのたびに違う話で語り、理由そのものをはぐらかします。代わりに問われるのは、バットマンの正義の側です。ニーチェの『善悪の彼岸』146節、「怪物と戦う者は、自らが怪物とならぬよう心せよ。深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いている」は、この型の物語を語るときによく引かれる一節です。この型では正義にも理由が要り、善悪は同じ地平に立ちます。

    鬼平は、この型の言葉も持っています。平蔵は、人間は悪いことをしながら善いことをし、善いことをしながら悪事をはたらく、と語ります。

    〔原文引用:『鬼平犯科帳』第8巻「明神の次郎吉」〕

    さらに、悪事で得た金で善事をおこない胸をなぐさめるのは「悪党の虚栄」だ、という言葉もあります(第11巻「土蜘蛛の金五郎」)。

    そしてポリティカルパン

    この言葉を読んで思い出したのが、いま放送中の『ポリティカルパン』(フジテレビ、野木亜紀子脚本)です。主人公たちは金を盗み、それを自分たちの「正義」のために使います。構図としては、まさに悪事で得た金で善事をおこなう物語です。ところが第2話時点では、私には爽快感がありませんでした。盗まれる側が実直な秘書で、盗む理由にも正当性が見えなかったからです。義賊ものが成立するのは、主人公の悪事に、それを上回る相手の悪という「理由」が与えられているときです。理由を欠いた善事は、平蔵の言う悪党の虚栄にしか見えません。悪には理由が要るという話は、悪役だけでなく、悪事をはたらく主人公にも当てはまるのだと思います。

    悪人の中にも善への欲求があり、心の奥底には自分でもわからない魔物が棲んでいる(第10巻「むかしなじみ」)。元記事の言う「影」を、平蔵は半世紀も前に言い当てていたことになります。

    鬼平が面白いのは、性善説型の言葉と裏表型の言葉の両方を、同じ人物が語っている点です。悪を裁く火付盗賊改方の長が、善悪の同居を誰よりも知っている。だから鬼平は、単純な勧善懲悪にならないのだと思います。

    私は白鸚版、丹波版、萬屋版から現在まで、多少の見逃しはありますが、歴代の鬼平を見てきました。

    〔ここに歴代の平蔵が「善悪の同居」をどう体現していたかの印象を数行。吉右衛門が平蔵を「情」と「剛」を兼ね備えた人物と語っていたこと、親子三代で受け継がれた系譜にも触れられます〕

    元記事の「陰陽」は、二つの型の橋渡し

    ここで、みゆさんの記事に戻ります。

    記事が取り上げたベイダーとヴォルデモートは、どちらも性善説の構図で描かれた悪役です。ところが記事の結びでは、陰陽、つまり光の中に影があり影の中に光があるという、善悪が互いを含み合う考え方に話が進みます。これは性善説というより、むしろ「裏表」の型に近い発想です。

    例は性善説、結論は陰陽。この段差を、私は矛盾ではなく、記事が二つの型の橋渡しをしているのだと読みました。鬼平が二つの型の言葉を一人で語っていたように、性善説の物語を入り口にして悪を理解しようとするうちに、善と悪は分かちがたく見えてくる。悪役に惹かれるという感覚は、その入り口に立った瞬間の感覚なのかもしれません。

    逆に、悪役への共感を断つ物語

    付け加えると、悪役への共感をあえて断つことで成立している物語もあります。『踊る大捜査線』です。脚本の君塚良一が禁じたのは、観客が犯人に同情してしまうことでした。動機が語られても、その動機や行為によって同情の糸は断ち切られます。最新作『N.E.W.』は、同情できる材料を置きながら描き込まずに流す、いわば「語るが描かない」という形で、この禁じ手をいちばん手の込んだやり方で守っていました。

    ここまで見てきた性善説型の物語では、悪に理由を与えることが、そのまま共感への入口になっていました。私が劇場で泣いたベイダーの最期は、セバスチャン・ショウが演じたアナキンの霊体が微笑む版でした。その後、プリクエルで堕ちた理由が語られ、2004年のDVD版では霊体がヘイデン・クリステンセンの姿に差し替えられています。理由を後から与え、結末の画まで描き直すほど、この物語は悪の側に理由を必要としていたのだと思います。

    「踊る」はその回路を意図的に切り、物語の厚みを悪役ではなく、本店と支店、キャリアと現場という正義の側に担わせました。

    鬼平と比べると、違いがはっきりします。平蔵は悪を知り、盗賊にも情をかけたうえで裁きます。「踊る」は犯人の理由に触れても、情は向けません。情が向けられるのは身内だけです。それが「身内に優しく外に冷たい」価値観につながっていないかについては、別の記事で論じています。

    おわりに

    私自身は性善説の立場ではなく、バットマンのように正義と悪が裏表かもしれないという見方も許容しています。それでも、性善説の物語が悪をこれほど魅力的に見せる仕組みは確かにあると思います。善は理由がなくても立っていられますが、悪は理由を語られなければ存在できません。だから悪は語られ、知られ、忘れられない。

    悪役に惹かれるのは、悪が「語れる」からなのだと思います。

     
     
    Chrono Art(時間の芸術) 倍速なしで、作品と同じ時間を過ごす鑑賞派。 音楽はベース弾きの耳で作編曲を軸に。映画・ドラマはややメタに。AIと未来はA・C・クラークを道標に。 草稿はAIと、事実確認と推敲は自分で。 © 黒の跡 (Chrono Art)

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