
納豆王の茨の道 第6章 納豆王、パリへ飛ぶ ~不安をバックパックに詰め込んで~
前章では、心身ともにどん底の中で、謎のメールがきっかけで、フランス・パリに行くことを決意しました。
第5章もフォロワーのわかモンさんに紹介されました。
絶大なる応援に感謝です。
そして、画家・長塚玲子を訪ねるため、いよいよパリへ。
2001年5月12日(土)盛岡を発つ
2001年5月12日、土曜日の夜。
長塚氏から謎のメールが届いてから、1か月後。
かつてオーストラリアの旅を共にしたバックパックに荷物を詰め終えたとき、ふと、
「また、この相棒と海外へ行くんだな」
そんな感慨が湧いてきた。
長年、僕の旅を支えてきた相棒を抱えて、僕は盛岡駅から夜行高速バスに乗り込んだ。
行き先は東京。
そして、その先に待っているのは――パリだった。
オーストラリアには二度も行った経験があるので、英語圏なら不安はなかったが、今回はフランス。
フランス語となると、ほぼお手上げだったので、不安しかなかった。
それでも僕には、ひとつだけ自信があった。
「まあ、なんとかなるだろう」
これまで中国やオーストラリアや東南アジアの各国でも、何度となく修羅場を潜り抜けて旅をしてきた。
困ったら、その場で考える。
分からなければ、人に聞く。
どうしても通じなければ、身振り手振りで何とかする。
それが僕の旅のスタイルだった。
夜行バスから始まる旅
夜行高速バスは、盛岡の街をあとにした。
車窓の向こうへ、東北の夜が流れていく。
周囲の乗客が眠りにつくなか、僕はなかなか眠れなかった。
翌日のことを考えていたからだ。
東京に着いたら、そこから成田空港へ向かう。
そして飛行機に乗れば、モスクワを経由してパリ。
考えてみれば、かなり大掛かりな移動である。
そして謎のメールを送ってきた長塚氏とパリで会うことになっている。
とはいえ、海外で見知らぬ誰かを訪ねるというのは、それだけで緊張する。
「本当に無事にたどり着けるだろうか」
そんな不安が、頭の片隅から離れなかった。
それでも、バスは東北道を淡々と東京へ向かって走り続けた。
翌朝、夜行バスは東京駅に到着した。
しかし、ほとんど眠った気がしない。
身体は重かったが、ここで立ち止まるわけにはいかない。
僕は成田エクスプレスに乗り換え、成田空港に向かった。
高速バスと違って特急列車の心地よい座席に座ると、出発と同時にすぐに眠りについた。
しかし小一時間で成田空港駅に到着して、ホームに降り立った。
「本当にパリへ行くんだな」
大きな荷物を抱えて移動する多くの旅行客を見て、そんな実感が少しずつ湧いてきた。
空港に到着して、すぐに両替所に向かった。
フランスの通貨、フランスフランへの両替である。
2001年当時、まだユーロは現金として流通していなかった。
当時の海外旅行では、現地のお金をある程度用意しておくことが当たり前だった。
そして前回の失敗を忘れず、クレジットカードの利用残高もしっかり確認した。
空港で両替して、見慣れないフランス・フランの紙幣を手にすると、さらに気分が高揚していった。
最安値のアエロフロートでパリへ
ただ今回、パリまでの航空券を探していて、ひとつ心配なことがあった。
ゴールデンウィーク明けとはいえ、パリまでの直行便はとにかく高かった。
そこで見つけたのが、ロシアの航空会社、アエロフロートだった。
しかも海外旅行代理店の勤務経験があった僕にとっては、あまり馴染みがない航空会社だった。
モスクワ経由の乗継便。
「モスクワ経由か……」
それでも僕が探した乗継便のなかでは最短時間、且つ最安値だった。
「安いけど、大丈夫なのか?」
一抹の不安を抱きながらも、アエロフロートを選んだ。
そして昼過ぎ。
アエロフロートの機体に乗り込んだ。
ところが、実際に機内に入ってみると、その心配はいい意味で裏切られた。
機内は思っていたよりずっと普通、サービスも悪くはなかった。
少なくとも、他社の航空会社と比べて遜色はなかった。
「なんだ、普通じゃん」
そう思った。
そして飛行機は昼過ぎに成田を飛び立ち、僕はモスクワへ向かった。
約10時間後、夕暮れ時のモスクワに到着し、さらにパリ行きの便へ乗り換えた。
18歳の最初の海外旅行で経験した乗り換えミスは、17年後の僕は繰り返さなかった。
そして日本から遠く離れたロシアの大地を経由して、フランス・パリを目指した。
それだけで、ちょっとした冒険だった。
飛行機の窓から見える景色を眺めながら、
「俺はいま、どこを飛んでいるんだろう」
そんなことを考えていた。
そして、現地時間、夜の9時、ようやくパリの空港に到着した。
日本を出発してから、長い長い一日だった。
飛行機を降りた瞬間、疲労感が一気に押し寄せてきた。
それでも、僕の気持ちは緊張感は一段と高まった。
なぜなら長塚氏は迎えには来なかったからだ。
メールを頼りに、夜のパリを歩く
長塚氏から事前に送られてきたメールには、彼女が手配したホテルまでのアクセス方法が書かれていた。
つまり、
「自分でホテルまで来てください」
ということだった。
手元には、そのメールを印刷したA4サイズの紙がある。
スマートフォンも、タブレットもない。
頼れるのは、この一枚の紙だけだった。
四つ折りにした紙を僕は何度も確認した。
鉄道を乗り継ぎ、駅を探す。
案内表示を見て、分からなければ、人に聞く。
しかし、フランス語はほとんど分からない。
それでも、
「まあ、行くしかない」
そう思った。
空港から鉄道に乗り、乗り換え、また乗り換える。
夜のパリを、バックパックを背負って移動した。
知らない街。
知らない言葉。
知らない交通システム。
不安をいっぱい詰め込んだバックパックが肩に食い込んできた。
そして夜11時。
ようやく路地裏のホテルにたどり着いた。
「着いた……」
それだけで、少しだけ自分を褒めてやりたい気分だった。
パリの場末の不気味なホテル
ところが、ホテルに到着して安心したのも束の間だった。
そこは、かなり年季の入った場末の格安ホテルだった。
フロントに立ち、英語で話しかけたが、英語が通じない。
「えっ……」
一瞬、固まった。
パリまで来たのに、最初の難関がホテルの受付だった。
フランス人なら、ある程度英語がわかると信じていた。
でも、現実はそう甘くはなかった。
仕方がないので、身振り手振りで伝えた。
パスポートを見せ、予約のことを伝え、どうにか受付を済ませた。
言葉が通じなくても、何とかなった。
そして係員に案内された2階の部屋へ向かった。
薄暗い廊下。
古びたホテル独特の雰囲気。
そして部屋に入ると、そこは日本のビジネスホテルによく似た造りだった。
「まあ、寝るだけならいいか」
そう思った。
しかし、ひとつだけ問題があった。
ユニットバスのシャワーが壊れていた。
シャワーヘッドから、ずっと水が滴り落ちていた。
ポタ……。
ポタ……。
ポタ……。
その音が、妙に気持ち悪い。
「これは嫌だな……」
僕はフロントへ戻り、部屋を交換してほしいと身振り手振りで申し出た。
しかし、答えは――
「ほかに空いている部屋はない」
だった。
この時、疲労も限界を既に超えていた。
これ以上やり合っても仕方がない。
僕は渋々、その部屋で一夜を過ごすことにした。
盛岡を出発してから、ほぼ丸二日。
夜行バスで、東京。
特急で、成田空港。
そして飛行機で、モスクワ、パリ。
地下鉄を乗り継ぎ、最後は言葉の通じないホテル。
さすがに疲れた。
ベッドに横になると、身体が沈み込むようだった。
しかしシャワーからは、相変わらず、
ポタ……。
ポタ……。
と不気味な音を立てながら、水滴が落ち続けていた。
「まあ、いいか……」
もう、それ以上抗うことはできなかった。
目を閉じて、僕は、泥のように眠った。
モンマルトルの丘で…
盛岡を出発してから3日目の朝、目を覚ました。
窓の外には、見知らぬパリの街があった。
昨夜までの不安は、まだ完全には消えていなかった。
それでも――。
バックパックひとつを背負って、盛岡からパリまで。
僕は、ちゃんとパリまで来た。
迎えが来なくても。
言葉が通じなくても。
道が分からなくても。
一枚の紙を頼りに、自分の足でホテルまでたどり着いた。
振り返ってみれば、この旅の大移動は、まさにこれまでの僕の旅そのものだった。
こうして僕はまたひとつ、旅の経験値を増やした。
しかし――。
これからがパリに来た本当の目的。
「長塚玲子」と名乗る女性と会って、納豆ビジネスの詳細を聞く。
まさに正念場だった。
ホテルでバゲットとカフェオレだけの遅めの朝食を済ませ、地下鉄を乗り継いで、10時前に待ち合わせ場所として指定された「アベス駅」に到着した。
そこはモンマルトルの丘にある「芸術の聖地」のテルトル広場の最寄り駅だった。
改札を抜け、階段を上って地上に出た。
そして、僕はそこで「長塚玲子」が来るのを待った。
