
ふるさと再発見 ~ 北里柴三郎
およそ2年前に日本のお札が新しいデザインに変わり、今ではすっかり、北里柴三郎が1,000円札の顔として定着しました。

《熊本県阿蘇郡小国町・北里柴三郎記念館》
(Photo by ISSA)
今回の「ふるさと再発見」は、「日本近代医学の父」として医学・細菌学の発展に貢献し、破傷風菌の血清療法確立など世界的な業績を上げた熊本の偉人・北里柴三郎に関するお話になります。
生い立ち
柴三郎は、1853年1月、熊本県阿蘇郡小国町に生まれました。

(Google Map)
少年期は、親戚の家に預けられて厳しい躾教育を受け、「毎日、ぴかぴかになるまで親戚宅の縁側を拭き続けた」というエピソードが残されています。

載っている「光るえんがわ」
《熊本県阿蘇郡小国町・北里柴三郎記念館》
(Photo by ISSA)
そのような厳しい躾を受けながらも、漢学者の伯父から四書五経を、儒学者の塾では漢籍や国書を学び、

《熊本県阿蘇郡小国町・北里柴三郎記念館》
(Photo by ISSA)
1869年、細川藩の藩校・時習館に入寮したのですが、翌年7月には廃校となったため、帰郷して地元の教師・役所見習として働きました。

《熊本県阿蘇郡小国町・北里柴三郎記念館》
(Photo by ISSA)
医学所に入学
1871年、古城医学所(現・熊本大学医学部)に入学。
この医学所は、熊本藩主・細川重賢が1756年に創設した「再春館」(注1) を起源とする医育機関で、日本初の公立医学校の一つでした。
(注1) 現在の「再春館製薬所」の名の由来でもある。再春館では、東洋医学や西洋医学を幅広く研究し、学生も患者も分け隔てなく受け入れたことから、再春館製薬所は、すべての患者を救済する思いやりの心と、漢方の知恵で身体を本来の健康状態(=若々しい春)に戻すことを企業理念としている
【参考】熊本大学医学部の歴史
肥後藩の再春館をルーツとする古城医学所は、その後、県立医学校を経て、1896年に私立熊本医学校となり、1922年に県立熊本医科大学、1929年に国立熊本医科大学に昇格。
1949年の国立学校設置法で熊本大学医学部となり、現在に至っています。祖父や叔父の母校であると同時に、母が私を生んでくれた場所(ISSA の出生地)でもあります。
マンスフェルトとの出会い
柴三郎は、そのような由緒ある古城医学所で、当時、教師だったマンスフェルト(注2) と出会います。
(注2) オランダの予備海軍軍医。熊本では、1871年から3年間、古城医学所で教鞭を執り、治療も行った。この間、柴三郎はマンスフェルトに師事し、夜間はマンスフェルト宅で語学を学んだ

《熊本県阿蘇郡小国町・北里柴三郎記念館》
(Photo by ISSA)
柴三郎は、このときに見た、顕微鏡下に広がる肉眼では見えない世界に衝撃を受け(注3)、医学の道に目覚めたと言われています。
(注3) 1871年は、まさに「細菌学の幕開け前夜」だった。17世紀後半から微生物と病の関係が認識されていたものの、この時点では、未だ「細菌が病を引き起こす」ことは証明されていなかった(この5年後、将来、柴三郎が師事することになるコッホが、そのことを証明する)
マンスフェルトから語学を学んだ柴三郎は、短期間で語学を習得し、2年目からは通訳を務めました。
実学の理念にたどり着く
1874年、東京医学校(現・東京大学医学部)に進学し、1883年に、晴れて医学士となりました。

《熊本県阿蘇郡小国町・北里柴三郎記念館》
(Photo by ISSA)
在学中に、「医者の使命は、病気を治すことよりも、病気を未然に防ぐことである」と確信し、予防医学を生涯の仕事とすることを決意。
そのことを取りまとめて、1878年に「医道論」(注4) を発表しました。
(注4) 医道論には、柴三郎の信念ともいうべき「学問を志す以上は、世の中のためにならねばならぬ」という実学の精神も語られている。熊本の改革派だった横井小楠の「実学党」の思想を原点とし、古城医学所の創設を主導した山田武甫の影響を受けているという
その志を実践するため、卒業後は内務省衛生局に入局しました。

《熊本県阿蘇郡小国町・北里柴三郎記念館》
(Photo by ISSA)
免疫学を驚異的な高みへ
柴三郎は、1886年からの6年間、ドイツに留学。病原微生物学研究の第一人者、コッホに師事し、研究に励みました。
当時、破傷風菌の純粋培養は不可能というのが世界の定説でしたが、柴三郎は、研究所で「亀の子シャーレ」と呼ばれる嫌気性菌培養装置を考案し、
1889年に、世界で初めて破傷風菌の純粋培養に成功しました。

《熊本県阿蘇郡小国町・北里柴三郎記念館》
(Photo by ISSA)
また、破傷風の症状が、菌そのものではなく、菌が放出する毒素によって引き起こされることも発見。
動物に弱めた毒素を少しずつ注射すると、その動物の血液中に毒素を無力化する物質(今でいう「抗体」)ができることを発見しました。

《熊本県阿蘇郡小国町・北里柴三郎記念館》
(Photo by ISSA)
免疫を獲得した動物から取り出した血液の成分を、他の感染した個体に注射することで、治療や予防を行う手法(血清療法)を確立するとともに、
「医者の使命は、病気を未然に防ぐ予防医学である」ことを、自らの言葉どおり体現してみせたのです。

《熊本県阿蘇郡小国町・北里柴三郎記念館》
(Photo by ISSA)
生涯を免疫学の発展に捧げる
1892年、帰国後間もなく、福沢諭吉から支援を受けて、日本初の私立伝染病研究所を創設。翌1893年には、日本初の結核専門病院を開設し、結核予防と治療に尽力しました。
研究に非常に厳しかった柴三郎は、この頃から「ドンネル(ドイツ語で雷)先生」(すなわち「雷おやじ」)と恐れられるようになったそうです。
1894年、柴三郎は、内務省の指示でペストが蔓延していた香港に調査研究に派遣され、ペスト菌を発見する功績も上げています。

《東京都港区白金・北里柴三郎記念博物館》
(Photo by ISSA)
1899年、私立伝染病研究所は、内務省管轄の国立伝染病研究所(注5) となり、柴三郎は、より一層、伝染病予防と細菌学に取り組むことになりました。
(注5) この頃、野口英世が伝染病研究所に入所しており、その後も、二人の師弟関係は続いた。2024年、弟子(野口)から師匠(北里)へと、1000円札の顔(医学者の系譜)が引き継がれた
その後、芝区愛宕町の建物では手狭になったことから、1902年、東京の白金台に2万坪の土地を購入し、
1906年、伝染病研究所、血清薬院、痘苗製造所の3機関が入る国立伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)が完成。
この年、ドイツの国立科学アカデミーから、日本の細菌学者である北里柴三郎が会員に認定されました。
1652年に設立された、歴史あるこのアカデミーに選出されることは、科学者として非常に名誉なことでした。

《熊本県阿蘇郡小国町・北里柴三郎記念館》
(Photo by ISSA)
その後、1914年、新たに私費を投じて、私立北里研究所(現・学校法人北里研究所、北里大学の母体)を設立し、

《熊本県阿蘇郡小国町・北里柴三郎記念館》
(Photo by ISSA)
狂犬病やインフルエンザ、赤痢、発疹チフスなどの血清開発に取り組みました。

《東京都港区白金》
(Photo by ISSA)
1915年には、済生会芝病院の病院長に任命され、

《熊本県阿蘇郡小国町・北里柴三郎記念館》
(Photo by ISSA)
1916年、郷里の小国町に、子どもたちの教育・教養のため、私財を投じて北里文庫(図書館)や、

《熊本県阿蘇郡小国町・北里柴三郎記念館》
(Photo by ISSA)
博士が帰省した際の居宅、賓客をもてなすための貴賓館などを建設しました。

《熊本県阿蘇郡小国町・北里柴三郎記念館》
(Photo by ISSA)
1917年には、慶應義塾大学医学部を創設。更に大日本医師会(現・日本医師会の前身)の初代会長に就任しています。
余談 ~ 祖父の顕微鏡
ところで、2年前の実家での遺品整理で、祖父が愛用していた医学顕微鏡が見つかりました。

(Photo by ISSA)
この話は、次回の記事で詳しくご紹介しますが、
祖父の顕微鏡は、高千穂製作所(現・オリンパス)製で、高千穂製作所は、体温計と顕微鏡の二事業同時運営が資金を圧迫したことから、1923年、体温計事業を売却して、顕微鏡に経営資源を集中します。
このとき、高千穂製作所から体温計事業を買い取ったのが、柴三郎を発起人として1921年に創業された赤線検温器株式会社(1936年から、テルモ体温計株式会社)(注6) でした。
(注6) テルモ(TERUMO)は、ドイツ語で「体温計」を意味する。予防医学を信念としていた柴三郎は、第一次世界大戦の影響で途絶えた体温計の国産化・高性能化が必要不可欠と考えていた
ドンネル先生(柴三郎)は、1931年6月、脳溢血により東京・麻布の自宅で78歳の生涯を閉じました。

《熊本県阿蘇郡小国町・北里柴三郎記念館》
(Photo by ISSA)
おわりに
北里柴三郎が遺したこの言葉は、まさにそのとおりだと思います。

戦後の日本社会では、
ややもすると、
個人を大きく見せるために
学歴という肩書きが
利用されてきましたが、
本来、学歴というものは、
世のため人のために
役立てるもの
なのではないでしょうか。

(Photo by ISSA)
1000円札をじっくり見つめて、
北里柴三郎の言う
「実学」という崇高な理念に、
思いを馳せてみてください。
いつも、ありがとうございます🍀
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