
バングラデシュで盗まれた! 私のスマホはどこにある
【連載】アジア人は今 第10回
ジャーナリスト 室橋 裕和
想像してほしい。仕事や旅行でアジアに渡航した際、もしもスマートフォンや財布を盗まれたら。連絡、支払い、予約の確認、調べもの、何もできないくなる。連絡先、撮影した画像も戻ってこない。助けを求めたくても知り合いはいないし、言葉もろくに通じない。何より悪用されたら。一体どうすればいいのか・・・。今回は、そんな恐ろしい事態の一部始終をお伝えする。

血の気が引くとは、こういうことを言うのだろうか。
バングラデシュ第二の都市、チッタゴンの駅前に広がるバザールの雑踏の中だった。肩掛けバッグのポケットにふと手をやると、ファスナーが全開になっていることに気が付いた。
慌てて中を探ってみれば、いつもそこに入れておいたiPhone(アイフォン。米アップル社製スマートフォン)がない。肌があわ立つ。
まさか、嘘だろ。立ち止まってバッグをひっくり返さんばかりにあさってみるのだが、iPhoneは消え失せていた。
やられた・・・。スラれたのだ。
ぼうぜんとする。スマホは今や旅の生命線である。地図を見ながら街を歩き、翻訳アプリで地元の人とコミュニケーションし、買い物や食事の決済にも使う。ホテルや交通機関を予約し、配車アプリでタクシーを呼び、写真を撮り、為替をチェックする。そのスマホを失うということは、旅の中断を意味する。
人ごみの中で突然、心細さに襲われる。大海に独り投げ出されたような気持ちになる。いつの間にか僕もスマホに大きく依存して旅をしていたことに、今さらながら気付かされた。
膝も心も折れそうになるが、まずは冷静になろう。
どこで盗られたのだろう。あるいは落としたのかもしれない。iPhoneはいつもバッグの前のポケットに入れて、地図を見たり写真を撮るたびに取り出し、その都度しまっていた。ファスナーをしっかり締めるのは習慣になっていた。
最後に使った場面を思い出してみる。
そうだ、すぐ近くじゃないか。
歩いてほんの30秒ほどのペットショップだった。店頭の鳥かごに入っていた鮮やかなインコが妙に愛らしく、iPhoneで動画を撮ったのだ。あの後、間違いなくポケットにしまい、ファスナーを閉めたはずだ。手にも感触がありありと残っている。そこから紛失に気が付くまで100メートルも歩いていない。
一応あたりを探してみるが、路上にも茂みにもiPhoneは落ちていない。道行く人たちに聞いてみても、困った顔をされるばかり。
世界有数の人口密度のバングラデシュでも首都ダッカに次いで二番目の巨大都市チッタゴンの、それも特に人が多いバザールの真っ只中だ。そんな所でわが愛機はなくなってしまった。出てくるわけがない。諦めるしかなかろう。



2ケツでバイク
デカと聞き込み
そこらの人たちに聞き回ると、最寄りの警察署が分かった。
やるべきことは、まず警察に盗難もしくは紛失届を出してポリスレポートを発行してもらい、海外旅行保険の手続きをすることだ。いや、その前にiPhoneの通信を止めて、ひも付いているクレカを止めて、そこらで安いandroid(のスマホ)でも買って最低限必要なアプリを入れて旅の間だけでもしのぎ・・・とか、考えているだけでうんざりしてくる。
1キロほど歩き、汗だくになって駆け込んだ警察署の受け付けでは幸いにも英語が通じた。ヒジャブをまとった女性警官が担当者をすぐに呼んでくれた。
やってきたのは、40代位の実直そうな私服警官。踏んだヤマの多さからか、どことなく静かな迫力をまとったおじさんだ。僕と同程度のカタコト英語で「あのバザールの辺りのことは大体分かる」と話す。日本でいえば盗犯係とやらの刑事(デカ)だろうか。
「まずは現場だ」
デカは短く言うと、署の敷地に停めたデカいバイクにまたがって、お前も乗れと後部座席をアゴで指す。喧騒のチッタゴンをかっ飛ばしながら、デカは振り向きつつ叫ぶ。
「たぶん犯人は子供だ。この辺にはそういう子供がたくさんいる」
問題のペットショップに戻ると、デカは早速聞き込みを始めた。
とはいっても「怪しいガキを見なかったか?」と尋ねるわけではない。現場の周りに密集するいろいろな店に、片っ端から防犯カメラの有無を聞いていくのだ。
そして、ほとんどの店が設置していることに驚いた。そのペットショップにも、隣のおんぼろなほこりをかぶったおもちゃ屋、安宿、雑貨屋・・・どこも小型のカメラを軒先や天井に据え付け、警戒の目を光らせている。
盗難被害に遭った僕が言うのもナンだが、そこまで治安が悪そうな界隈(かいわい)にも見えないのに人々の防犯意識は高いようだ。もちろん、この手の商品が安価になって世界的に普及したこともあるのだろう。
どこも映像データをローカルやクラウドに保存しているので、犯行時刻とおぼしき時間帯まで戻してもらい、僕もしくは犯人らしき人物が映っていないかチェックする。そうして何軒も回った。まさに足を使った地道な捜査である。


映っていた容疑者
ヤツらは子供?
確か、5軒目に訪れた布地の店だったろうか。
やはり防犯カメラを見せてもらっていると、見覚えのある間抜けヅラが映った。僕だった。憔悴(しょうすい)した顔をしているわけでもないし、布地店の位置を考えれば盗まれる直前であろう。
僕の後ろを、二人組の少年が付いてきていた。小学校の高学年と低学年ぐらいに見える。身なりは良いとは言えないけれど、盗みを働くようにも思えない。しかし、デカは店主と何ごとかを話すと「たぶん、こいつらだろう。この辺をよくうろついて悪さしているらしい」と言う。
この店の並びの電気屋のカメラにも、同様の映像が残っていた。僕と少年たちの距離はさらに縮まっている。バザールの雑踏の中とはいえ、僕は背後の子供たちに全く気が付いていなかった。デカは映像をスマホで撮影しながら断言する。
「やはり、この二人だと思う。他の警察官の中に、こいつらを知っている者が誰かいるはずだ」
小さな子供二人を探すらしいが、果たして見つかるのだろうか。次第に夕闇がおおい、暗くなっていく巨大なバザール。逃げる所も隠れる所も、いくらでもある。僕はつぶやいた。
「もう戻ってこないと思う。それより、ポリスレポートを書いてほしい。それと安いスマホを売っている店を教えてほしい」
その言葉に、デカはことさら心外そうな様子で言った。
「俺たちに時間をくれ。この街の中に、俺たちはいくつもの情報源を持っている。少し待ってくれ。新しいスマホを買うのは、それからでもいいだろう」
そして「盗まれたiPhoneの情報を教えてほしい」と聞いてきた。機種、電話番号、それに「IMEI番号」なるものを知りたいのだという。
「一台一台にある、個体の識別番号だ」
初めて聞いた。実は、IMEI番号が分かれば通信会社を通じて端末をネットワークから遮断し、悪用を防げる。SIMを入れ替えても通信できなくなるので転売防止にもなる。それに中古のスマホ買取店に持ち込まれたとしても、警察が調べれば大量のiPhoneの中からでも僕の物を判別することができる。
とはいえ、そんな番号は知らない。ただ、ホテルにあるパソコンを使えば分かるかもしれない。

【動画】盗まれた愛機で最後に撮った鳥の姿(筆者提供)
非情なる二段階認証
「端末に送信しました」
デカはバイクでホテルまで送ってくれた。
スタッフにもあれこれと聞き込みをして「あとでホテルに電話するから」と、いったん署に帰っていった。
宿の主人も心配そうに声をかけてくれたが、まずはIMEI番号だ。部屋でパソコン(PC)を立ち上げ、ホテルのWi-Fi(ワイファイ)につながっていることを確認すると、ひとまずはホッとする。
いくつかメールやSNSで連絡が来ていたがスルーし、チャットGPT(対話型AI)にIMEI番号の調べ方を聞く。すると、iPhone本体があれば「設定→一般→情報」で分かるが、PCからはまず「Apple Account」にログインする必要があるらしい。すぐにログインしようと、IDとパスワードを入力して表示されたのは非情なる画面であった。
「確認コードを含むテキストメッセージをご利用のデバイスに送信しました。続けるにはコードを入力してください」
2段階認証である。デバイスとはiPhoneだ。
今ごろ、盗まれたわがiPhoneには「Apple Accountサインインが要求されました」という画面が表示されていることだろう。セキュリティーのための複合認証システムが、今や壁になってしまっていた。
ログインできないということは、iPhoneの「デバイスを探す」機能で位置を特定することもできない。また、Appleや通信キャリアのサポートデスクに電話しようにも肝心のスマホがないのだ。
途方に暮れかけたが、日本にいるパートナーにSNSで窮状を伝えることにした。彼女は僕の100倍位はしっかりしているので、まずは慌てることなく「回線のシャットダウン」を代行してくれた。
さらに、僕とビデオ通話している状態で契約する通信キャリアにも電話をかけ、僕との音声をつないでくれた。いくらか音質は荒いが、彼女を媒介としたサポートセンターとの通話が成立。とりあえず、通信回線を止めることはできた。
しかし、担当者いわく既に日本は夜遅く、IMEI番号を調べるのは今連絡している24時間サポート係の業務の範疇(はんちゅう)ではないらしい。iPhoneの箱や保証書にもIMEI番号は記載されているそうで、自分の机や引き出しを彼女に調べてもらったけれども出てこない。ズボラな僕のことだ、捨ててしまったのだろう。さて、どうするか・・・。

警察から電話
署長の呼び出し
コンコン!
ノックの音にドアを開ける。宿の主人が立っていた。
「警察から今すぐに来いと電話があった。行ってこい」と言う。
またもや汗だくになって、夜のチッタゴンを早足で行く。人混みをかき分け、今度はカバンをしっかり抱きながら、リキシャやバスやCNG(オート三輪)が濁流のように流れる通りを横断して警察署にたどり着く。先ほどのデカが待っていた。
「署長が呼んでいる。一緒に行こう」
何事なのか。訳が分からないまま老朽化した署内を歩き、奥にある署長室のドアを開ける。
そこだけエアコンがガンガンに効いた立派な部屋で、屈強でコワモテの男たちが立ち並んでいた。そのスジの人々に見えなくもないが、やはりデカなのだろう。
高そうな机に座った、ひときわ貫禄のあるビッグボスがきれいな英語で「まあ座りなさい」と自らの横の椅子を勧めてくれる。この人が署長のようだ。一体どういうことなのか。
戸惑っていると、ビッグボスは机の中から一台のスマホを取り出して「これだね」と笑顔。手渡されたのは、まごうことなきわがiPhone16ティール。慌てて電源を入れてパスコードを入力すれば、いとしい画面が表示される。
僕のだ、僕のiPhoneだ。
よかった・・・全身の力が抜けた。その場にへたりこむように、僕は署長の机に突っ伏した。デカたちから笑い声が上がる。
「でも、どうやって?」
当然の疑問を口にした。盗まれてから、たったの2時間ほど。そして、このすさまじい人間の渦である。いかにして見つけたのか、捜査に当たってくれたデカが答えた。
「情報源があるって言ったろう。俺たちは、バザールにいろんなツテを持っている。あの子供たちもよく知られていたよ」
詳しい経緯は濁したが、盗品が持ち込まれそうな中古スマホ屋をいくつもあたり、問題の子供たちについて聞き回ったようだ。iPhoneはカバーを外され売りに出されており、子供たちは逃げ去った後だったという。デカは静かにつぶやいた。
「バザールの辺りは、スリが本当に多い。バングラデシュ人も被害に遭っている。われわれもベストを尽くしているが、全てをカバーできるわけではない。貧しい人たちが、本当に多いんだ」
防犯カメラに映っていた、あの子供たちを憎む気には全くなれなかった。
盗むことが生きる手段なのかもしれない。誰が犯人かというよりも、油断をしていた自分がとにかく腹立たしかった。情けなかった。アジアの途上国には慣れているという、己への過信が間違いなくあった。
ちょうどチッタゴンに着いた初日で、街を歩く楽しさや高揚感が警戒心を消していた。混み合う雑踏にはスリがつきものだという大前提を忘れ、のんきにスマホをバッグから出し入れしていた。しかも、スリがファスナーを開けやすい表のポケットというのもまずかった。何もかも大反省である。
「まあ、チャイでも飲みなさい」
署長以下、なぜかデカたちとお茶会が始まり、一件落着と相なったのである。


「二人で話したい」
デカがささやく
話には続きが二つある。
またバイクでホテルまで送ってくれたデカは、主人と何ごとか会話を交わすと僕にささやいた。
「ちょっと二人だけで話がしたいんだ」
ピンときた。これは暗に、ワイロの要求だろう。
お前のためにこれだけ労を取ったのだから、しかるべき対価があっても良いのではないか・・・。途上国の警察ではよく聞くことだ。まあ仕方ない。iPhoneが戻ってきたんだから、そのぐらい。と思ったのだが、話は全く逆だった。
「ホテルの主人はどうだった? われわれ警察とのやり取りを手伝ったのだからと何か金銭を要求されはしなかったか? 正直に答えてほしい」
主人はそんな素振りもなくただ心配してくれただけだったので、そう伝えるとデカはふうと息をついた。
「良かった。もし、そういう要求をされていたら犯罪に当たるから」
何という高潔さか。彼を疑った自分を恥じた。
バングラデシュでは公務員や警察の汚職がはびこっているとは聞くが、彼のように倫理観高く仕事をする人だって当然ながらいるのだ。僕たちは固い握手を交わして別れた。
それから数日後のことだ。
チッタゴンを拠点とするバングラデシュ有数の新聞「デイリー・アザディ」のウェブ版に、事件の顛末(てんまつ)がばっちり掲載されているのであった。
確かに、署長はお茶を飲みながら「この話、うちの署のアピールに使っていい?」と聞いてきたので「もちろんOK」と答えたが、僕の実名も写真もそのまま載っているとは驚いた。
まあ、僕はその辺りは気にしないので、チッタゴン・コトワリ警察署の方々には感謝しかない。
読者諸氏におかれましても、アジアには慣れているとは思いますが、その慣れが犯罪を呼び込むこともあります。くれぐれもご注意ください。


室橋 裕和(むろはし・ひろかず)
ジャーナリスト
1974年生まれ。週刊誌記者を経てタイに移住。現地発の日本語情報誌に在籍し、10年にわたりタイおよび周辺国を取材する。帰国後はアジア専門のジャーナリスト、編集者として活動。「アジアに生きる日本人」「日本に生きるアジア人」をテーマとしている。
現在は日本最大の多国籍タウン、新大久保に在住。外国人コミュニティーと密接に関わりあいながら取材活動を続けている。「外国人コミュニティーから見る多文化共生の実情や課題」といったテーマで、大学やメディア、トークイベントなどの講演多数。武蔵野大学非常勤講師。新大久保など多国籍タウンの街歩きフィールドワークも行う。
著書に『カレー移民の謎』(集英社新書)、『ルポ新大久保』(角川書店)、『エスニック国道354号線』、(新潮社)『日本の異国』(晶文社)など。

公式サイト https://murohashi.jp/
X https://x.com/muro_asia
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