
他力本願ってこういうことか、と思った話
はじめに
他力本願の本来の意味は、
人間の自力(自分の努力や計らい)を離れて、仏の大きな慈悲の心におまかせして生きる
というものであり、よく誤用される他力=他者、ではなく、他力=阿弥陀如来、を意味します。
そのため、この記事での「他力本願」も誤用(俗用)であり、正しい意味ではありません。
ただの言葉遊び程度に読んでいただければと思います。
祭りのような土日のあとで
こんにちは、如水です。
この土日、note関連のイベントに参加してきました。
以前お会いしたことのある方、note上でフォローしていたけどお会いするのは初めてだった方、完全に初めましての方、ほんとうにたくさんの方とお会いする機会に恵まれました。
ふだん、どちらかというと人間関係は狭めで、隙あらば1人になろう、1人でやろうとする私にとっては、とても緊張しましたが、文字通り「ありがたい」場でした。
その後の飲み会や、個別のお茶・ご飯もご一緒させてもらい、そこでたくさんお話させてもらったあと、自然と湧き上がってきたのが、この記事のタイトルにした「他力本願」でした。
自力「だけ」でできることなんて、たかが知れている
思えば、これまで、「自分のことは、できる限り自分でなんとかしなくてはならない」という強い思い込み、もっと言うと執着みたいなものがありました。
依存は悪であり、自立が善。
なるべく他者の力を頼りにせず、ものごとをこなせること。生きていくためには、そんな力をつけるべき。
部分的には、そんな意気込みが必要になる場面は、生きていれば必ずあると思います。
ですが、この土日のような場は、自分が作ったわけではない。
なんなら、丁寧にお膳立てしてもらった場に、ただ同席させてもらっている、とまで言える。そう思いました。
もちろん、お金という意味では、ほんの一部負担はしていますが、自分だけの力でこんな繋がりが作れるのか、と言われると、とてもじゃないですが「できますとも」なんて言えません。
noteに限らず、和楽器から繋がった方や場所、果てはふらっと立ち寄った居酒屋さんやバーでの出会いまで、すべて同じです。
神や仏になった自分が、顔を真っ赤にして力ずくでひねり出し、創り出したものではない。
あらかじめ、誰かによって準備してもらっていたものです。
ただお茶をするだけであったにしても、相手に時間を空けてもらっています。
思いっきり、他者の力に依存しています。
けれど、それをありがたく受け取って、使わせてもらった方が、ずっと楽に、ずっとうまく、ずっと大きく、自分の世界を広げていくことができる。
この2日間で、そんなことを改めて感じました。
だからこそ、社交辞令ではなく、心の底から「おかげさまで」と思うのだろう。
そう感じるのは疑うまでもない話ですが、ひとつの理屈、言葉遊びとしても、確かに筋は通っているなぁと、自分の中で腑に落ちました。
冒頭で書いた通り、本来は誤用ですが、そういうものまで含めて「他力」と呼んでしまってもいいのかもしれません。
言いたいことはたくさんあるのに、なんか言いきれてない、文章としてうまくまとまり切ってない感じは残りますが、そのブレーキも外すべき、ということを教えてもらったので、そのまま出してみます。
整えだすと、1週間はかかってしまいそうなので、、
ご一緒させていただいたみなさん、ありがとうございました。
皆さんの記事の中で、特に気に入ったものを載せさせていただきます。
これぞ誤用の「他力本願」ど真ん中。それもいいでしょ?