
整って見える字と、心が動く字のちがい
書写、習字、書道。
普段、何気なく使っている言葉ですが、
その違いを考えたことがある人は、
あまり多くないかもしれません。
書道教室をしている私は、
この3つをこう捉えています。
書写は「整える」
習字は「真似る」
書道は「通す」
「通す」って何のこと?
と思いますよね。
それをお話しするために、
先日の教室での出来事から始めます。
「何書いてるかわからない」
低学年の生徒さんが、
大人の生徒さんの条幅作品(縦長の大きな作品)を見て言いました。
「これ、何て書いてあるかわからへん」
漢詩を行書・草書で書いた作品や
変体仮名を多く使った仮名の作品は、
書道を学んでいない大人の方が見ても、
ところどころしか読めないと思います。
低学年の生徒さんが学ぶのは、
学校では書写、教室ではお習字。
書写や習字の目で見ると、
見えてくるのは
「自分が読める字か」
「書写教科書の字のような整い方をしているか」
その物差しだけで見ると、
この作品は「よくわからない」になります。
興味があっても
見ている物差しが違うので
感じることが難しいのです。
🗨️「これは書道の分野だから、
もっと勉強していくとだんだん読めるし、
全部が読めなくても、
この作品の良さが見えてくるよ。
今はお習字や書写を習っているから、
全然ちがうものに見えるよね」
私はこのくらいに
説明を留めておきました。
でももし、来年再来年なら
少しだけ違った見え方がするかもしれません。
もっと書の学びが深まって、
さらに興味を持ってくれる段階になれば、
ちゃんと伝えたいことがあります。
整える・真似る・通す
まず、3つの言葉を私なりに説明します。
整える(書写)
とめ、はね、はらい、文字のバランス。
誰が見ても読みやすい字
とされるルールで書く力です。
真似る(習字)
お手本をよく見て、そのとおりに書く。
見る力と、手を動かす力を育てます。
通す(書道)
血管に血が流れるように、
書いた人の呼吸や気持ちが、
線の中を流れている状態。
息をのむような集中や、
その人らしい勢いが線に宿ります。
見る人の心が震えることもあります。
私が、書道でいちばん大切にしているものです。
これは学校教育上の正式な分類ではなく、
生徒さんと向き合ってきた中で私が感じている、
それぞれが「見ているもの」の違いです。
「通す」は、習字の中にもある
私は、習字の中にも
「通す」
は流れていると思っています。
幼い子なりにも気持ちを整えて、
心の準備をし、
渾身の線を引く。
その一本には、
もう何かが通っています。
それは、
その文字全体が整っているか、
お手本に近いかとは、
別の話です。
教えていると、
確かにそういう線に出会います。
書写的観点からは
上手くはないかもしれない作品にも、
「通った線」はたくさんあります。
それとは逆に、
フォントの字は常に整っていますが、
見て「読みやすい」とは思っても、
心が震えることは少ないと思います。
フォントで書かれた文章に
心が動くことがあるとすれば、
「通っている」のは文字ではなく、
文章のほうなんですね。
一方で、読めない作品が
心に届くこともあります。
学年が上がると、
同じ「何書いてるかわからない」のあとに、
続く言葉が変わってきます。
中学生以上の生徒さんは、
こう質問してくれます。
「自分も、いつか
こんな作品が書けるようになるかな?」
読めないのは同じなのに、
読めないまま、何かが届いている。
それほどに、
整えることと通すことは
同じではないのです。
つまり、大人の生徒さんの作品と、
低学年の生徒さんの一本の線は、
別のものではありません。
同じ流れの上にあると、私は思っています。
何が「通って」いるのか
これは、
字だけの話ではないのかもしれません。
人の字を見るとき、
私たちはつい
「整っているか」
「お手本のような字か」
という外形だけで見てしまいがちです。
それも、もちろん大切な一面はあるでしょう。
でも、その線の中に、
その人の何が通っているか。
楽器演奏なら
楽譜どおりに、
一音も間違えずに弾く。
それも、とても大切なことです。
でも、
たどたどしく演奏する
小さい子の音色に心動かされ、
なぜかいつまでも
印象に残ることもあります。
人が感じて心が動くとき、
そこには何かが通っています。
うっかり傷つけたら
血が出てきてしまいそうなほど、
その人自身が宿っている。
私はそんな気がしています。
人が学び、成長するためには、
整えることも、真似ることも、
必要です。
そのうえで、
最後に人の心や自分自身の中に残るのは、
きっと何かが通ったものだと思うのです。
⬇️関連記事
⏮️前の記事
⏭️次の記事
