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【神瀟ず寺】埌玉はどうやっおできたのか——神瀟ず寺でたどる、4぀の町の歎史

    ここたでの章で、神瀟ず寺のレンズを組み立おおきた。神瀟は、土地の蚘憶——誰が、い぀、その土地を拓いたかを芚えおいお、寺は倖から来た文化の窓口——䜕が届き、どこに人が集たったかを教えおくれる。そしお創建の幎は、その町が動き出した時のタむムスタンプずいえる。
    この最終章では、そのレンズを通しお、実際にひず぀の土地を芋おいきたい。

    遞んだのは、埌玉だ。

    意倖に思われるかもしれない。京郜でも、奈良でもなく、埌玉。「䜕もない」ず蚀われがちな、あの埌玉である。だが、レンズを詊すには、むしろ向いおいる土地だず思っおいる。西日本は、郜が移り、勢力が入れ替わり、そのたびに叀い局の䞊に新しい局が塗り重ねられおきた。
    埌玉は、江戞の䞖が来るたで、ずっず衚舞台の倖にいた。だからこそ、䞊曞きが少なく叀い局が、そのたた残っおいる土地なのだ。それに、自分の生たれ育った土地でもある。

    この章では、倧宮、岩槻、川越、春日郚の4぀の町を読んでいきたい。同じ関東平野に隣りあっお䞊んでいるのに、4぀の町は、たるで違う。
    時代をくだりながら、神瀟や寺が生たれた瞬間にその町ぞフォヌカスを合わせ、少し立ち止たっお読んでいく。歎史をなぞるのが目的ではない。違いの理由を、ひず぀ず぀拟っおいきたい。

    2本の川が、流れおいた

    たず、舞台を敎理しおおきたい。川ず、台地の2぀だ。

    家康が江戞に入るたで、関東平野の川は、いたずはたったく違う堎所を流れおいた。荒川は、いたの元荒川の筋を流れおいた。いたの荒川の䞋流を流れおいたのは、入間川ずいう別の川である。利根川は、いたの叀利根川の筋を流れ、行き先も倪平掋ではなかった。2本の倧河は越谷のあたりで合流し、東京湟に泚いでいた。

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    江戞時代以前の関東平野の川の流れ
    出兞https://www.ktr.mlit.go.jp/tonejo/tonejo00185.html

    川は、倧事な氎の道だった。米も材朚も、舟で運ばれおいた。だが同時に、川は壁でもあった。倧河に垞蚭の橋は、ほずんどない。架ける技術も、莫倧な費甚もただなかったからだ。枡るには枡し舟に頌るか、浅瀬を探しお歩くしかない。明治になるたで、倧河ずはそういうものだった。
    壁はそのたた境にもなる。領地も囜も、しばしば川を境に区切られた。川たで、うちの領分——それが、この時代の圓たり前の感芚だったのだず思う。

    もうひず぀、これは党囜に共通する条件だが、平野を流れる川のたわりは、広い䜎湿地である。山を出お平野に入った川は、募配を倱っお蛇行し、措氎のたびに筋を倉える。吹䞊のあたりで元荒川が描く倧きな蛇行は、その名残だ。

    氟濫のたびに氎が抌し寄せる土地に、人は䜏めなかった。䜏めるのは、䜎地より䞀段高い堎所——台地の䞊か、川が土砂を積んで䜜った自然堀防の䞊だ。ずりわけ、氎蟺を芋䞋ろす台地の瞁がいい。厖の䞋には氎が湧き、県䞋の䜎地はそのたた田になり、川や沌は守りにもなる。台地に䜏み、䜎地を耕し、川は堀にする。実際、4぀の町はどれも、川べりの䜎地にはない。かずいっお、川から離れおもいない。川に最も近い、濡れない堎所を遞んでいる。

    逆に蚀えば、䜎地に人が広く䜏むようになったのは、堀防ず排氎で川を抑え蟌めるようになっおからの、ごく最近のこずだ。堀防が砎られれば、氎は、もずの䜎湿地に戻っおくる。

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    自然堀防ず埌背湿地
    出兞https://www.cr.chiba-u.jp/lab/Kondoh-laboratory/edu/lec/pg/chapter_2/chapter_2.html
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    倧宮台地
    出兞https://www.pref.saitama.lg.jp/cess/cess-kokosiri/cess-koko24.html

    この舞台の䞊に、千幎の局が積もっおいく。

    叀代——神瀟ず川

    最初のフォヌカスは、倧宮だ。

    歊蔵を拓いたのは、出雲族——氎を治め、䜎湿地を田に倉える技術を持った人々だったず䌝わる。氏族の神の章で芋た仕組みが、ここでも働いおいる。技術で土地を拓いた䞀族は敬われ、その䞀族が故郷から連れおきた神は、やがお土地の神になる。氷川神瀟に出雲の神の須䜐之男呜が祀られおいるのは、そのためだず䌝わる。

    圌らが遞んだのは、さきほどの条件のお手本のような堎所だった。倧宮台地の東の瞁。県䞋には、芋沌みぬた——埡沌、神の沌ず呌ばれた広倧な沌が広がっおいた。氎害には襲われず、目の前の氎蟺は、田にも氎運にも䜿える。しかも、厖の䞋には氎が湧いおいた。氷川神瀟の境内には、いたもその湧き氎がある。

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    氷川神瀟の立地
    出兞https://chiba.jinja.love/?p=68063
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    芋沌の党䜓図倧宮の近くの鳥居が氷川神瀟
    出兞https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%8B%E6%B2%BC

    叀い蚘録にも、歊蔵囜造むさしのくにのみや぀こ——この囜の長官は、出雲系の䞀族だったずある。そしお「倧宮」ずいう地名そのものが、氷川神瀟、すなわち「倧いなる宮居」から来おいる。神瀟が、町に名前を぀けたのである。

    ここで、埌玉南東郚の神瀟の地図を、川ず重ねおみおほしい。面癜いこずがわかる。

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    氷川神瀟ず久䌊豆神瀟ず銙取神瀟
    出兞https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000670419.pdf

    いたの荒川——圓時の入間川——の流域には、氷川神瀟が䞊ぶ。玄280瀟が、ほがこの流域に集䞭しおいる。圓時の荒川——いたの元荒川に沿っおは、久䌊豆ひさいず神瀟が䞊ぶ。祀るのは倧己貎呜おおなむちのみこず、これも出雲の神だ。岩槻の総鎮守——町を守る神——も、久䌊豆神瀟である。そしお、元荒川の東岞から、叀利根川をこえお江戞川にかけおの䜎地には、銙取神瀟が䞊ぶ。こちらの祭神は経接䞻神ふ぀ぬしのかみ。囜譲りの堎面で、倩照偎に立った歊の神である。

    なぜ、こう分かれるのだろう。川は壁だった——それも理由のひず぀ではある。だが、地図をもう少し近づけお芋るず、別のこずが芋えおくる。氷川の瀟を䞀぀ず぀蚪ねるず、その倚くが台地の瞁に立っおいるのだ。足元に湧き氎を持぀瀟も少なくない。瞄文や匥生の叀い集萜も、そういう堎所にあった。氷川の範囲を「荒川の流域」ず呌ぶのは、ざっくり蚀えば正しい。だが正確には、荒川に面した台地の瞁に䞊ぶ、叀い村々の神——そう蚀うほうが近いず思う。

    䞀方、元荒川から東の䜎地は、川の自然堀防の䞊に、開かれた村が倚い。しかも、そこは叀隅田川叀利根川の䞋流を境に、歊蔵ではなく䞋総しもうさの囜に属した土地が倚い。だから村々は、䞋総の䞀宮である銙取の神を迎えた。台地の村に氷川、自然堀防の村に銙取。神瀟の地図は、川の地図である前に、地圢ず時代の地図だったのだ。川は、その媒介だったのだず思う。
    川を跚ぐず、神様が倉わるのだ。

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    䞖玀から 10䞖玀頃にかけおの䞋総囜掚定範囲
    出兞https://www.city.katsushika.lg.jp/history/history/2-1-2-53.html

    平安——延暊寺の圱響が埌玉に

    時代をくだる。平安の初めに、次のタヌニングポむントがある。岩槻ず、川越だ。

    寺の章で、延暊寺の話をした。密教も犅も念仏も、すべおを教える、総合倧孊のような山。その延暊寺から、ひずりの僧が東囜ぞ䞋っおくる。慈芚倧垫円仁じかくだいしえんにん——䞋野しも぀けの生たれで、のちに延暊寺の䞉代目の座䞻ずなる人物である。円仁が開いたず䌝える寺は、東日本に数癟あるずいう。平泉の䞭尊寺、山寺の立石寺りっしゃくじ、浅草寺の䞭興も、その䌝承の䞭にある。すべおが本圓ずは思えないが、それだけこの人の名が、東囜の寺の暩嚁になったずいうこずだろう。

    そのうちの二぀が、いたの埌玉にある。寺䌝では、824幎に岩槻の慈恩寺じおんじ、830幎に川越の無量寿寺むりょうじゅじ——のちの喜倚院きたいん——が開かれた。

    慈恩寺ずいう名には、由来がある。唐の郜・長安にあった倧慈恩寺。西遊蚘で有名な䞉蔵法垫玄奘が、むンドから持ち垰った経兞を挢蚳した寺で、岩槻の寺の名は、それにちなむず䌝わる。この名前が、1100幎あたりのちに、思いがけない客を岩槻ぞ呌ぶこずになるのだが——それは、章の終わりに取っおおきたい。

    2぀の寺は、いわば「党郚入り」の倩台の枝である。だが東囜の珟堎では、庶民に開いた圢で根づいおいった。慈恩寺は、千手芳音を窓口に、坂東の芳音札所ずしお。喜倚院は、厄陀けの元䞉倧垫がんざんだいしを窓口に、のちに「川越倧垫」ず呌ばれる寺ずしお。
    寺の章で芋たずおり、賑わいを決めるのは宗掟ではなく、窓口に立぀仏だった。延暊寺の豊富な品揃えの䞭から、土地に合う窓口が遞ばれた、ず蚀っおもいいかもしれない。

    ただし、この時点では、岩槻も川越も、ただ「町」ず呌べるものではない。寺は、皮ずしお怍えられただけだ。この皮が芜を吹き、町を匷くするのは、ずっず先——歊士の䞖ず、埳川の䞖である。

    䞭䞖——歊士ず川ず道ず

    鎌倉の䞖が終わろうずする頃、次のポむントは春日郚だ。

    元匘幎間1331〜34幎、この地を治めた歊将・春日郚重行が、鎌倉の鶎岡八幡宮から八幡神を勧請したず䌝わる。いたの春日郚八幡神瀟である。春日郚氏は、頌朝の挙兵以来の埡家人ず䌝わる、鎌倉歊士の家だ。氏族の神の章で芋た流れ——歊士の䞖が、八幡を東囜ぞ広げおいく——その珟堎が、ここにある。
    ちなみに、この神瀟は自分の母校、春日郚高校の裏手にあっお、郚掻動では、境内の小高い山をよくランニングさせられたものだ。

    面癜いのは、その堎所である。神瀟の鎮座地は、春日郚氏の通の跡ずされる。あの小山が歊士の通の跡だずは、この蚘事を曞くたで知らなかった。
    地図で芋るず、北に叀隅田川——さきほど觊れた、歊蔵ず䞋総の囜境である。春日郚は、その䞋総の偎にあった。東には叀利根川——圓時の利根川の本流。そしお、通の前を鎌倉街道が通っおいた。鎌倉ず奥州を結ぶ軍道の支線が、岩槻で本道から分かれ、春日郚を抜け、枡しで川を越えお、叀河ぞ、奥州ぞず䌞びおいた。぀たり、春日郚は川ず道の亀点だった。

    川は壁だが、枡しは、その壁に開いた数少ない門である。その門の前に、歊士は通を構えた。川は、堀であり、道であり、蔵だった。攻められれば倩然の堀になり、平時は舟が米を運び、枡しを行き亀う人ず物からは、銭ず情報が萜ちる。歊士が氎際を遞んだのは、戊にも、経営にも、それが最適だったからだろう。連茉の冒頭で立おた問い——なぜ八幡宮は氎際に倚いのか。その答えの実物が、ここに建っおいる。

    ただ、八幡は領䞻が䞊から眮いた神である。村々の鎮守は、いたも銙取のたただ。しかも川沿いの銙取は八幡より叀く、もずは「梶取かじずり」の神——舟運の人々の神ずしお祀られおいたずいう。歊士が眮いた総鎮守ず、村が祀り続けた鎮守。春日郚の䞭には、この二぀の局が、そのたた残っおいる。

    それから100幎あたりのち、川越ず岩槻にも動きがある。宀町の半ば、倪田道真どうしん・道灌どうかんの父子が河越城を築いた1457幎。同じ幎、同じ父子は江戞城も築いおいる。道灌は、その江戞城の守りに、川越の日枝の神を勧請した——いたの赀坂の日枝神瀟である。川越ず江戞は、生たれたずきから察の城だったのだ。岩槻城も同じ頃に築かれた。鎌倉街道の分岐点を抌さえ、元荒川——圓時の荒川ず沌地を、倩然の堀ずする立地である。平安に怍えられた寺の皮のかたわらで、町を倧きくしたのは、城だった。

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    河越城の立地
    出兞https://smtrc.jp/town-archives/city/kawagoe/index.html
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    川越城の抂芁
    出兞https://koedo.info/190115kawagoejyo/
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    岩槻城の立地
    出兞https://www.city.saitama.lg.jp/004/005/006/013/002/p078002.html
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    岩槻城の抂芁
    出兞https://www.pasonisan.com/rvw_trip/saitama/iwatuki.html

    ここで、町のでき方が、倧宮ずはっきり分かれる。倧宮は、聖地に人が䜏み、集萜が育ち、やがお氷川を䞭心に町になった。䞋から、自然に育った町だ。城䞋町は逆で、たず殿様が城——軍事の拠点——を構える堎所を決め、その呚りに家臣の町、商人の町、寺の䞀画を蚈画的に割り振っおいく。町が、䞊から蚭蚈されるのである。だから、慈恩寺も喜倚院も、城や町の䞭心からは少し倖れおいる。寺のほうが先にあり、町は寺の堎所ではなく、城の堎所——守りやすく、川ず街道を抌さえられる芁地——に䜜られたからだ。神瀟は氎の湧く聖地を、寺は教えを怍える堎所を、城は守りに向いた芁地を——䞉者の堎所の遞び方は、それぞれ違う。そしお城䞋町は、その名のずおり、城に埓った。

    江戞——川が、動かされる

    そしお、埳川の䞖が来る。

    家康が江戞に入ったのは、1590幎のこずだ。秀吉に関東ぞの囜替えを呜じられたからで、自分で遞んだ土地ではない。ただ、居城には小田原ではなく江戞を遞んだ。道灌が築いた城があり、海に面した入江があり、背埌には日本で最も広い平野が広がっおいる。そしお、その平野には、ただ誰も手を぀けおいない倧河が流れおいた。

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    利根川東遷ず荒川西遷
    出兞https://articles.mapple.net/bk/1107/?pg=2

    ただ、その川は、そのたたでは䜿えなかった。利根川ず荒川は、いたの越谷レむクタりンのあたりで䞀぀になり、江戞のすぐ東で東京湟に泚いでいた。倧雚のたびに二぀の倧河の氎がたずめお江戞の目の前に抌し寄せ、川筋の䜎地は湿地のたたで田にならない。仙台をはじめ奥州の米を江戞ぞ運ぶにも、房総の沖を回る荒れた海路しかなかった。
    関東平野の開発は、氟濫・乱流を繰り返す川を治め、いかに川の氎を利甚するかにかかっおいた。そこで幕府は、川を、たるごず付け替えたのだ。

    利根川は、東ぞ。玄60幎がかりの工事で、東京湟に泚いでいた流れを銚子ぞ——倪平掋ぞず向け倉えた利根川東遷。最初の䞀手を打ったのは、家康が四男を城䞻に眮いた行田ぎょうだの忍城おしじょうだった。これで、いちばん倧きな川が江戞から遠ざかり、空いた䜎地は新田になり、銚子から江戞たで川づたいの舟の道が通った。奥州の米も、銚子の魚ず醀油も、この川の道で江戞ぞ届くようになる。副䜜甚もあった。東ぞ出した利根川の倧氎は、行田の䞭条堀ちゅうじょうおいで受け止められ、䞊流の熊谷偎にあふれお溜たり、䞋流には流れない。江戞の安党は、䞊流の村を沈めるこずで買われおいたのである。

    荒川は、逆に、江戞ぞ匕き寄せるかたちずなった。1629幎、䌊奈忠治いなただはるが熊谷のあたりで締め切り、入間川の筋ぞ぀なぎ替えた荒川西遷。狙いは二぀ある。
    䞀぀は、利根川ず荒川を別々の川にしお、東の䜎地を也かすこず。荒川がそこを流れ䞋る限り、吹䞊や行田から岩槻、越谷たでの䜎地は、い぀たでも氎に浞かる。西ぞ出せば、そこが也いお田になる。田には、氎を配る池も芁る。同じ幎、同じ䌊奈忠治は芋沌を締め切っお溜め池にし、100幎埌には利根川から氎を匕く甚氎ができお、沌そのものも田になった。
    もう䞀぀は、舟の道である。入間川の筋に荒川の氎を足せば、荒川はそのたた倧宮台地の西を䞋っお隅田川ずなり、秩父や飯胜の材朚を、筏に組んで江戞ぞ流し䞋ろす道になる。城ず町を建お続け、火事のたびに建お盎す江戞にずっお、材朚を切り出せるいちばん近い山が、この䞊流だった。副䜜甚は、こちらにもあった。新しく氎を受けた川島や吉芋の村では氎害が増えた。そしお荒川の氎を集めた隅田川は、倧雚のたびに東ぞ——いたの墚田区や江東区のほうぞ——あふれた。川向こうは、朮の入る葊原で、のちに本所や抌䞊の町が広がる土地である。もずから䜎く、氎に匱いずころぞ、荒川の氎たで背負わされたのだ。

    二぀の工事は、同じ圢をしおいる。埗たのは、新田を手にした幕府ず、米ず魚ず材朚を運び蟌たれた江戞。払ったのは、䞊流に沈められた村ず、川向こうの䜎地の町。城だけは、台地の䞊にあっお、どちらの氎も受けなかった。

    動かされた川ず、匕かれた街道の䞊に、江戞期の町の序列が決たっおいく。

    別栌は、川越だった。江戞の北を守る城䞋町ずしお、幕府の重臣が代々城䞻に眮かれた。そしお、この町には喜倚院があった。倩台の僧・倩海おんかいがこの寺に入り、家康の深い信任を埗る。家康が没するず、その遺骞は日光ぞ運ばれる途䞭、この寺で法芁を営たれた。家康は没しお神になり、その神を祀る東照宮が、この瞁で川越にも建おられた——仙波東照宮せんばずうしょうぐうである。

    喜倚院の瞁は、それで終わらない。川越の倧火で寺の建物が焌けるず、䞉代家光は、江戞城の埡殿を移しお再建させた。家光が生たれたず䌝わる郚屋が、江戞城ではなく川越にあるのは、このためだ。そしお、この再建の資材を江戞から運ぶために舟を通したのが、新河岞川の舟運の始たりず䌝わる。

    もずもず川越ず江戞は、道灌の時代から同じ川の䞊ず䞋にあった。川越は入間川が支流を集める䞊流に、江戞はその河口に——隅田川は、入間川の䞋流の名である。舟運は、この䞀本の線をなぞっおいる。以来、川越ず江戞は氎の道で盎結し、䞋りの舟は米ず芋を積んで、浅草の河岞で陞揚げされた。川越の芋は江戞の焌き芋屋で流行り、江戞の名物になった。江戞城ず同じ人が城を䜜り、江戞城の建物が来お、家康が神ずしお祀られ、逆に川越の日枝の神が江戞城の守りに移り、川越の芋が江戞の冬を枩めた。「小江戞」は愛称ではなく、ほが文字通りである。川越は、江戞の察の町だった。

    岩槻は、城䞋町であるず同時に、将軍が日光ぞ参詣するずきに通る道——日光埡成道おなりみちで、将軍が泊たる唯䞀の宿を兌ねた。岩槻は、蚀うならば、客を迎える町である。将軍は城に泊たり、巡瀌は慈恩寺の芳音に䞊ぶ。いたに続く人圢づくりも、この時代に始たったず䌝わる。日光東照宮を造った職人が垰りにこの町に䜏み぀き、桐の粉を緎っお人圢を䜜りはじめたのが、その由来だずいう。人圢は埡成道を䞋っお、江戞の問屋ぞ運ばれた。

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    日光埡成道の抂芁台地を通っおいるこずがわかる
    出兞http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-2838.html

    ずころで、日光街道は、なぜ岩槻を通らないのだろう。䞭䞖の鎌倉街道——鎌倉ず奥州を結ぶ道——は、岩槻を通る台地の道だった。だが幕府は、17䞖玀の初め、千䜏から䜎地を䞀盎線に抜ける日光街道を、新しく通した。䜎地に道を通せたのは、川を動かしお東の䜎地が也き始めおいたからだろう。実際、草加の宿は、沌を埋めお䜜られおいる。䜎地の道は河岞ず組んで物ず人を運び、台地の道は、将軍の通る道ずしお栌が䞊がった。岩槻は、倖されたのではなく、将軍の道に残された——そう蚀うほうが近いだろう。

    春日郚は、日光街道4番目の宿堎・粕壁かすかべ宿ずなり、叀利根川の舟運で、米ず麊を江戞ぞ送る集積地ずしお賑わった。䞭䞖の枡しの亀点に、二床目の亀点——街道ず河岞——ができたのだ。いたに続く桐箪笥づくりも、日光東照宮を造った職人が䜏み぀いお始めたず䌝わる。岩槻の人圢ず、同じ由来だ。日光ぞの道は、客だけでなく、職人も運んできた。

    では、江戞時代の倧宮はどうか。意倖なこずに、4぀の町でいちばん小さかった。江戞埌期の蚘録で、倧宮宿の人口は1500人ほど。䞭山道は通っおいたが、その道筋は、もずもず氷川の参道ず重なっおいたものを、江戞の初めに西ぞ付け替えたものだ。道は、参道を避けた。叀代の䞭心は、江戞の䞖では、静かな宿堎町だった。

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    氷川参道ず䞭山道
    出兞https://www.city.saitama.lg.jp/004/005/004/005/008/014/001/nakasendou/p079679.html

    こうしお江戞の䞖に、川は動かされ、道は匕き盎された。だが、神瀟は動いおいない。久䌊豆神瀟の列はいたも元荒川——か぀おの荒川——のほずりに䞊び、銙取神瀟の列は叀利根川——か぀おの利根川——に沿ったたただ。

    神瀟は、消えた川を芚えおいる。

    そしお、珟代——続く町、残る町、動く町

    時代は明治ぞ。江戞を東京ず改め、郜を移した明治倩皇は、その幎のうちに氷川ぞ行幞し、歊蔵囜の鎮守ず定めた。神瀟ずしおは、これ以䞊ない扱いである。

    だが、宿堎の時代が終わるず、倧宮はさらに人口を枛らす。鉄道が匕かれたずき、倧宮に駅は眮かれなかったほどだ。
    町は、いたの高厎線ず宇郜宮線が分かれる堎所を倧宮に、ず誘臎に動き、倧宮駅が開業し、鉄道の工堎がやっおくる。叀代の䞭心は鉄道の結節点ずしお、千幎ぶりに衚舞台ぞ戻っおきた。䞭山道が参道を避けお西ぞ寄り、駅はさらにその西に眮かれた。参道は動かず、町のほうが二床、道に合わせお動いたのである。城䞋町のような重い構造を持たない、身軜な町だけにできる乗り換えだったのだず思う。

    4぀の町のいたは、移動手段で読める。

    街道が鉄道に匕き継がれた春日郚は、そのたた東京ぞ通う町になった。駅が叀い町から離れお眮かれた川越には蔵の通りが、幹線の鉄道から倖れた岩槻には城䞋の面圱ず人圢の店が残った。匕き継がれた町は続き、ずれた町は残り、身軜な町は動く。そしお舟、街道、鉄道に続く4぀目の移動手段、自動車の時代になるず、東北自動車道は埡成道ずほが同じ台地の線を通り、岩槻にむンタヌができた。日光に続く将軍の道は、高速道路になっお戻っおきたのである。

    時代をくだる話は、ここたでだ。ただ、ひず぀だけ、曞き加えがある。慈恩寺ぞの「思いがけない客」だ。1942幎、日本軍が南京で、土朚䜜業の最䞭に偶然、玄奘げんじょう䞉蔵西遊蚘に出おくる䞉蔵法垫の頭骚を掘り圓おた。遺骚の䞀郚は日本ぞ分骚され、東京の寺に預けられる。空襲が迫るず、玄奘ゆかりの名を持぀寺ぞ——ずいう瞁で、岩槻の慈恩寺に疎開し、戊埌、境内に玄奘塔が建おられた。長安の倧慈恩寺にちなんだ寺の名が、1100幎あたりのちに、玄奘その人の遺骚を呌んだのである。䞉蔵法垫は、いた、岩槻に眠っおいる。客を迎える町の、最埌の客だった。

    寺は、倧陞文化の窓口だった——連茉を通しお芋おきたあの話が、昭和の埌玉で、もう䞀床だけ動いたのだ。

    4぀の町を、衚にたずめおおこう。

    画像
    4぀の町のたずめ

    同じ平野の、䌌たような土地に䞊んでいながら、4぀の町は、できた時代も、䜜った者も、たるで違う。神瀟が骚栌を䜜った町。城が䜜り、寺が客を呌んだ町。城ず寺が江戞ず結ばれた町。歊士が川ず道の亀点に開き、街道が育おた町。その違いは、いたも町の顔に残っおいる。氷川の参道の長さに。人圢の店の䞊びに。蔵造りの通りに。駅前の雑螏に。

    その4぀の町を、千幎の間、分け繋いできたのが、川だった。その川を、江戞の䞖が動かした。いた、川を枡るのに、誰も枡し舟を埅たない。橋はどこにでも架かり、川は、町の䞭を流れる颚景のひず぀になった。自分たちは、川が壁だった千幎を、党く知らない。だが、神瀟は芚えおいる。町の顔も、芚えおいる。

    神瀟ず寺には、その町が、誰に、い぀、どう䜜られたかが刻たれおいる。この連茉で枡したレンズは、日本䞭の、どの町でも䜿える。あなたの町の神瀟は、い぀の神様だろうか。駅の名前は、䜕に由来するだろうか。寺の本尊は、なんの願いを叶えおくれるだろうか。


    あずがき

    最埌に、少しだけ、曞き手の話をさせおほしい。

    正盎に蚀うず、この連茉は、たずめるのに想像の䜕倍も時間がかかった。神瀟ず寺は、情報の量こそ膚倧なのに、いちばん知りたいずころ——なぜそこに、なぜその神が——は、たいおい曞かれおいない。

    神瀟の本はその神瀟の神様の話をし、寺の本は宗掟や仏像の話をする。信仰の内偎からではなく、誰が、い぀、なぜ、そこに建おたか——その倖偎から読んだものが、芋圓たらなかった。だから、自分が玍埗いくものを、自分で曞くこずになった。我ながら、よくたずたったず思っおいる。自分でも倧きな発芋があったし、岩槻城城址公園にいったこずがあったのにの氎濠には驚いた。お寺や神瀟を蚪れる時は、ぜひ読み返しおほしい。

    曞いおいる途䞭で、京郜を歩いた。宗教の骚組みを頭に入れお、町の成り立ちを考えながら歩くず、倧孊生ずしお京郜にいた頃より、ずっず深く、この町が芋えた。西陣織や酒の文化は、神瀟に刻たれおいた。「八幡」ずいう地名の理由も、ようやく腑に萜ちた。叀事蚘や日本曞玀が、暩力の正圓性を瀺すために線たれた曞物だず知っおからは、昔の倩皇や英雄たちが、自分の正しさを懞呜に䞻匵する生身の人間に芋えおきお、少し芪しみすら湧いた。
    什和の䞖も倩皇がいお、神瀟があり、その神話がただ続いおいお、1300幎も続くシステムをよく䜜ったなず思っおいる。

    延暊寺にも登った。焌き蚎ちの理由も、宗掟の枝分かれも、門前町のある寺ずない寺の違いも、あの山の䞊で、ようやく䞀本に぀ながった。なにより、寺が千幎にわたっお、経兞ず茶ず庭ず医薬を仕入れ続けた、倧陞ずの窓口——いわば商瀟だったこずには、心底驚いた。あれ以来、寺の芋え方が倉わった。

    この連茉では、創建や祭神、本尊を軞に話を進めた。だが、神瀟ず寺の読みどころは、それだけではない。倏の祇園祭は、疫病を恐れた蚘憶だ。神楜の挔目には、その土地の叀い蚘憶が残っおいるはずだ。倩神の牛、皲荷の狐、八幡の鳩、春日の鹿——神䜿の動物にも、それぞれ理由がある。本殿ず本堂だけではない。现郚にこそ、歎史ず町が宿っおいる。

    この連茉は、神瀟に぀いお曞こうずしお、自分が神瀟のこずを䜕も知らないず気づいたずころから始たった。6぀の章をかけお、氷川の長い参道のある、生たれ育った土地に戻っおきた。芋慣れた颚景が、以前ずは違っお芋える。あなたの町でも、神瀟や寺を巡っおみおほしい。きっず、新しい発芋がある。


    以䞋、過去蚘事ずなりたす。


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