
なぜブルゴーニュで「全房発酵」が戻ってきたのか?|アンリ・ジャイエが取り除いた梗を、再び使う理由
ブルゴーニュで収穫や醸造の話をしていると、よくこんな数字を耳にする。
「今年は30%全房」
「この畑は50%」
「ここは100%全房で仕込む」
ワインのテクニカルシートにも、「Vendange entière 50%」、「Whole bunch 30%」などと書かれていることがある。
では、30%と50%では何が違うのだろう。
100%なら、より優れたワインになるのだろうか。
そもそも、なぜ一度は取り除かれるようになったブドウの「梗」を、現在のブルゴーニュでは再び使う造り手が増えているのだろう。
全房を考えていくと、単なる醸造技術を超えて、ブルゴーニュのワイン造りそのものが見えてくる。
昔のブルゴーニュでは、全房が普通だった
ブドウの房は、果粒だけでできているわけではない。
一粒一粒のブドウを支えている茎の部分、「梗」がある。
収穫した房から梗を取り除き、果粒を発酵槽へ入れるのが「除梗」。房をそのまま使うのが「全房」である。
現在では「全房発酵」というと、何か特別な醸造技術のように聞こえる。
しかし歴史を逆にたどれば、むしろ全房の方が古い。
現在のような性能のよい除梗機がなかった時代、収穫した大量のブドウから梗を取り除くことは簡単ではなかった。ブルゴーニュでは、収穫したブドウを房のまま発酵槽に入れる醸造が広く行われていた。
つまり、全房は新しく発明された醸造法ではない。
後から一般化していったのが、除梗なのである。

アンリ・ジャイエが取り除いた「梗」
20世紀後半、その流れを象徴する人物の一人が、ヴォーヌ・ロマネのアンリ・ジャイエだった。
ジャイエは、梗から出る青っぽい植物的な風味や粗いタンニンを嫌った。
「口に入れないものは、醸造で使わない」と、ブドウを除梗し、ピノ・ノワールの果実そのものの純粋さを表現する。
低収量、除梗、低温浸漬、過度な抽出を避ける醸造。
彼のワインが高く評価されるにつれて、その考え方はブルゴーニュの多くの造り手に影響を与えた。
ただし、アンリ・ジャイエが除梗を「発明」したわけではない。
重要なのは、除梗を一つの明確な選択として徹底し、それによって偉大なピノ・ノワールを生み出したことである。
梗を取り除く。
それは単なる作業工程ではなく、
「このワインには何を残し、何を取り除くのか」
という美学でもあった。

ところが、再び「全房」が戻ってきた
現在のブルゴーニュでは、全房を積極的に使う造り手は珍しくない。
なぜ、一度取り除かれた梗を、再び使うのだろう。
梗にはタンニンをはじめとするフェノール化合物が含まれている。
それらはワインに骨格を与え、香りや味わいを複雑にする可能性がある。全房によって、スパイス、花、ハーブなどを思わせるニュアンスが感じられることもある。
一方で、梗は常にプラスに働くわけではない。
苦味、青臭さ、植物的な香り、硬いタンニンを持ち込むこともある。
つまり、
全房は、梗を入れればワインが複雑になるという魔法ではない。
だからこそ重要になるのが、「梗の成熟」である。
果実が熟しても、梗が熟しているとは限らない
収穫期の畑でブドウを見るとき、私たちは果実の糖度や酸、種の成熟などに目を向ける。
しかし全房を使うなら、もう一つ見るものがある。
梗だ。
梗の成熟は、単純に「緑なら未熟、茶色なら成熟」というほど簡単ではない。
木質化の程度、含水量、味わったときの青さ、苦味、タンニンの質などを見ながら判断する。
そして、その状態はヴィンテージによって変わる。
暑かったのか。
雨が多かったのか。
乾燥が続いたのか。
水分ストレスはどの程度だったのか。
果実と梗は、必ずしも同じ速度で成熟するわけではない。
だから、
「ブドウが熟した=梗も全房に使える」ではない。
温暖化によってブルゴーニュの果実が以前より成熟しやすくなったことは、全房を使いやすくした一つの背景として考えられる。
しかし、「暑くなったから梗もよく熟す」と単純化することもできない。
その年、その畑、その房を見なければ分からないのである。

若い全房ワインは、なぜ苦かったのか
私自身、20年ほど前、全房を使った若いブルゴーニュを飲んでいて、何度も感じたことがある。
苦い。
青い。
硬い。
「これは今、飲めたものではない」と思うほど梗の存在を強く感じるワインもあった。
ところが、そうしたワインを3年、5年と置いて飲み直すと、驚くほど印象が変わっていることがあった。
前面に出ていた苦味や硬さが落ち着き、スパイスやハーブ、土などのニュアンスと一体となって、むしろワインの複雑さになっている。
当時、私はこれを「梗の苦味が酸化によって複雑味になる」と理解していた。
現在の知見から見ると、現象としては理解できるが、仕組みはもう少し複雑だ。
梗や果皮から抽出されたタンニンをはじめとするフェノール化合物は、熟成中にさまざまな反応を起こす。酸素もその過程に関係し、タンニンや色素の結合、重合などが進むことで、若いときに感じた苦味や収斂性の知覚も変化していく。
同時に香りも熟成によって変わる。
その結果、若いころには別々に感じられた梗、果実、タンニン、香りが、数年後には一つのワインとしてまとまって感じられることがある。
しかし、ここには大きな注意点がある。
未熟な梗の青さが、熟成すれば必ず美しい複雑味になるわけではない。
だから、全房を使う前の梗の選択が重要なのである。
「30%全房」は、実際にはどうするのか
全房は0%か100%かという二択ではない。
30%、50%、70%といった部分全房もある。
例えば30%全房なら、一部のブドウを房のまま残し、残りを除梗して同じ発酵槽へ入れる。
しかし、ここからが面白い。
同じ「30%全房」でも、仕込み方は一つではない。
一つの方法は、まず全房を発酵槽の底に入れ、その上から除梗したブドウを載せることだ。
房には梗があるため、果皮や果肉だけを積み上げる場合とは違い、発酵槽の中に空間ができる。
梗と房が一種の「網」のような構造をつくり、液体がその間を通りやすくなる。
一方、底に置かれた全房には、上から大量のブドウの重量がかかる。
果汁が出れば、やがてその中に浸かる。
梗と果汁との接触が増えれば、梗からの成分も抽出されやすくなる。
つまり、
全房率だけでなく、全房を「どこに置くか」でもワインは変わる。
デュジャックは、なぜ85%前後もの全房を使うのか
ブルゴーニュで全房を語るとき、ドメーヌ・デュジャックは避けて通れない。
ジェレミー・セイスは、平均約85%という高い割合の全房を使うと語っている。
85%。
数字だけを見れば、ほとんど全房である。
しかし、ここで「全房を多く使うほど優れたワインになる」と考えてはいけない。
デュジャックにとって全房は、付加的なテクニックではなく、長年にわたってワインのスタイルそのものを構成してきた重要な要素である。
そして、その使い方も興味深い。
ジェレミー・セイスは、除梗したブドウを開放式発酵槽の底に入れ、その上に全房を載せる方法を説明している。
先ほどとは逆。
なぜか。
全房を、本当に「whole」の状態で保ちたいからだ。
発酵が自然に始まるまで数日かかることもある。その間、健全な全房を最初から果汁の中に沈めておきたくない。
上に置けば、下に置く場合ほど重量がかからない。
果粒も潰れにくい。
発酵が進むにつれ、全房は徐々に発酵中のワインへと取り込まれていく。
房のまま残った果粒では、酸素の少ない環境の中で、細胞内発酵的な現象も起こる。
つまりデュジャックの「85%」で重要なのは、85という数字だけではない。
その85%をどう選び、どう発酵槽へ入れ、どう発酵させるのか。
そこまで含めて、初めてデュジャックの全房なのである。

アンリ・ジャイエ 対 ロマネ・コンティ
そして全房を考えると、ブルゴーニュには非常に面白い対比が見えてくる。
アンリ・ジャイエと、ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティである。
どちらもヴォーヌ・ロマネ。
世界でもっとも偉大なピノ・ノワールを生み出してきた場所でありながら、その考え方は同じではなかった。
アンリ・ジャイエは、梗を取り除いた。
青さや粗さを避け、果実の純粋さを追求した。
一方、ロマネ・コンティは、歴史的に高い比率で全房を用いることで知られている。
梗を含めてワインの構造をつくり、長い熟成の中で完成していくワインを生み出してきた。
つまり、
除梗からも偉大なワインは生まれた。
全房からも偉大なワインは生まれた。
これほど分かりやすい答えはないのではないだろうか。
もし「偉大なピノ・ノワールには全房50%が正解」という公式が存在するなら、アンリ・ジャイエとロマネ・コンティという二つの存在を説明することができない。

「全房」という言葉が、一人歩きしていないだろうか
ここ10年ほどで、ブルゴーニュのワインを語るときの「数字」が変わった。
ジュヴレ・シャンベルタンのドメーヌ・キヴィを訪ねたとき、醸造責任者のヨハンが興味深いことを言っていた。
「10年ほど前なら、みんなが聞いてきたのは新樽率だった。ところが今は、みんな全房率を知りたがる」
確かにそうだと思う。
以前なら、ドメーヌを訪ねると、
「新樽は何%ですか?」
という質問がよく聞かれた。
20%なのか、50%なのか、100%なのか。新樽率が、そのワインのスタイルを理解するための重要な数字として語られていた。
ところが今、その関心の一部が「全房率」に移っている。
「全房は何%ですか?」
30%、50%、100%。
生産者を訪ねても、試飲会でも、専門家の記事でも、この数字が頻繁に語られる。
もちろん全房率は重要である。梗をどれだけ使うかは、香り、タンニン、構造、そして熟成後のワインにも影響する。
しかし、ときどき私は、「全房」という言葉だけが、ワインそのものより先を歩き始めているように感じる。
全房を使うことが、より自然で、よりテロワールを表現し、より現代的なブルゴーニュであるかのように語られることさえある。
そして造り手の側にも、全房を使わなければ、時代に取り残されているかのような空気を感じることがある。
けれども、10年前に私たちが新樽率という数字だけでワインを理解できなかったように、現在も全房率という数字だけでワインを理解することはできない。
新樽100%だから偉大なワインになるわけではなかった。
同じように、全房100%だから偉大なワインになるわけでもない。
アンリ・ジャイエは除梗によって偉大なワインを造った。
ロマネ・コンティは全房を用いて偉大なワインを造ってきた。
その二つの存在だけを見ても、「全房か除梗か」という醸造技術そのものに、単純な優劣をつけることはできない。
その年の梗が十分に成熟していなければ、全房は青さや粗いタンニンをワインに持ち込むことがある。反対に、除梗することで、その畑の果実や酸の美しさがより明確に現れることもある。
大切なのは、流行している醸造方法を選ぶことではない。
目の前にあるブドウに、その方法が必要なのか。
10年前は新樽率。
今は全房率。
おそらく10年後には、また別の数字を私たちは追いかけているかもしれない。
しかし、数字はワインそのものではない。
全房にすること自体が目的になった瞬間、本来はワインを造るための「手段」であったものが、「答え」に変わってしまう。
だから私は、「全房何%ですか?」と聞く前に、まずそのワインを飲んでみたいと思う。
数字を見る前に、ワインを感じる
だから私は、全房率を見る前に、まずワインを飲みたいと思う。
グラスに注ぐ。
香りを嗅ぐ。
口に含む。
果実を感じる。
酸を感じる。
タンニンの質感を感じる。
その奥に花やスパイス、ハーブ、土のようなニュアンスがあるのか。
苦味はワインから浮いているのか。それとも果実や酸と一体になっているのか。
若いうちには硬くても、その先に何かがありそうなのか。
まず、自分の感覚でワインを受け取る。
そして、
「なぜ、このワインはこう感じられるのだろう」
と思ったとき、初めてテクニカルシートを見る。
全房30%。
85%。
100%除梗。
その数字を知った瞬間、それまでグラスの中で感じていたものと、造り手の選択がつながる。
それが、醸造方法を知る面白さではないだろうか。
アンリ・ジャイエは梗を取り除いた。
ロマネ・コンティは梗を残した。
ジェレミー・セイスは、多くの全房を使いながら、その房をどのような状態で発酵槽へ入れるかにまで注意を払う。
しかし、彼らが造ろうとしているのは、「除梗したワイン」でも「85%全房のワイン」でもない。
造ろうとしているのは、その畑、その年のブドウから生まれる、一つのワインである。
私たちは、数字を見る前に、まずワインを感じる必要がある。
全房率とは、ワインの答えではない。
その年の天候を見て、畑を見て、果実を味わい、梗を確かめた造り手が、
「このブドウを、どのようなワインとして残すのか」
と考えた末に選んだ、一つの方法なのである。