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メモ 1950年代の中国共産党による対日工作の展開と日中貿易の始まり

    1949年に中華人民共和国を建国した直後から対日工作に取り組んでいましたが、1955年3月に中国共産党の中央政治局会議は対日政策綱領として「中共中央の対日政策活動についての方針と計画」を策定し、米国の影響下から日本を独立させ、反米統一戦線に取り込む形で日中国交正常化を目指すことを決めています。このような政策決定に至った背景としては、それまで日本共産党に依存していた対日工作の態勢から脱却する必要があることが認識されたことだけではなく、吉田茂内閣の退陣など日本国内の政治状況が大きく変化していたことや、台湾をめぐる米中対立の激化が相互に関連していました(Yasuyuki 2022)

    この新たな方針に基づいて対日工作を展開する際に中国で重要な役割を果たしたのが周恩来でした。1955年にインドネシアで開催されたバンドン会議に出席した周恩来は、パキスタンの招聘に応じて参加した日本代表団の高碕達之助衆議院議員と会談し、これによって日中貿易を実現する外交交渉の糸口をつかみます(Chen 2024: 504)。周恩来は、日本政府が中華民国との国交を維持する方針だったことを踏まえ、日中貿易で中国に敵対的政策を採用しないこと、「二つの中国」を創出する動きをとらないこと、また日中関係の正常化を妨げないことを条件としながら、日中貿易の実現を優先する外交政策を確立しています(Ibid.)。これは順調に進展していましたが、1958年には中国の国旗を損壊する事件が発生したことを受けて、日中の経済連携、文化交流は完全な途絶に追い込まれました(長崎国旗事件)。

    その後も、中華民国との関係を重視する岸信介政権の下で外交を進展させることは困難な状況が続きましたが、岸内閣が1960年に退陣したことによって、中国にとってのチャンスが再び現れます。周恩来は1960年10月に高碕を北京に招待して改めて中国側の条件を伝えており、1962年11月に中国側を代表する廖承志(Liao Chengzhi)と高碕との間で「日中長期総合貿易に関する覚書」を交わすことに成功しました(日中国交回復促進議員連盟『日中国交回復』212-214頁)。この覚書は双方の代表者の名前の頭文字をとってLT覚書として知られており、国交がない時期の日中貿易の基盤となりました。1963年に中国の対日貿易実績は1956年の水準に回復し、さらに1965年には貿易実績が1963年の水準から5倍以上に増加しています(Chen 2024: 505)。

    1962年に中国共産党第10回中央委員会全体会議において、毛沢東は日中貿易の恩恵がいかに中国にとって重要だったのかを述べており、「日本は、社会主義諸国が売ってくれなかった化学肥料、特殊鋼、農薬、そして世界でも最高水準のビニロン生産設備を売ってくれた」という発言が記録されています(Ibid.: 504)。LT覚書では、1963年から1965年まで塩安(塩化アンモニウム)が1年ごとに20万トン、尿素が22.5万トン、硫安(硫酸アンモニウム)が5万トンずつ輸出されることが定められており、農薬、農業機械器具、プラントも同時期にそれぞれ100万ポンド相当が1年おきに輸出されることが定められています(日中国交回復促進議員連盟『日中国交回復』213頁)。1960年代初頭に中ソ関係が急速に悪化し、貿易が縮小されていたため、周恩来が開拓した日中貿易のルートは大きな経済的価値がありましたが、LT覚書は日華関係の悪化を招くことになり、佐藤栄作首相では中国へのプラント輸出を凍結しました(同上、226-227頁)。

    LT覚書は、あくまでも中国にとって対日政策の中間段階でしかなく、さらに10年の歳月を費やして日中国交正常化、そして日華断交を実現するための活動が続けられることになります。

    参考文献

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    一般向けに政治学、地政学、軍事学の知識をお届けしています。大学で政治学も教えていますが、この筆名で『現代軍事学入門』を出しています。普段の文献の紹介ではAmazonアソシエイトの紹介料を受けています。

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